目覚めたら男爵令嬢でした〜他人の世界の歩き方〜

帆々

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執着

3、アシュレイの調査

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 ニールを見送り、彼はうろうろと部屋の中のを歩き回った。考える時の癖だ。

 ニールは首の傷を「薮で引っかいた」と説明したが、枝の先端で引っかいたには傷の幅が広いように見えた。尖ったもので皮膚を傷つければ、細い傷がつく。しかし、ニールのそれは、太かった。

(藪で出来た傷ではあり得ない)

 女性の爪ではないか、と確信に近く思った。

 ノアが大学内で暴行を受けてから、彼はそれが誰の仕業によるものか、ずっと考えてきた。教授も含めた職員か学生のいずれか。その誰かかが、部外者を引き込んだとも考えられないこともないが、その可能性は低いように思えた。

(ノアを狙ったのは、彼女を知っているから)

 小柄で華奢な体格。夕刻過ぎに一人でいることが多い。襲い易い要点をつかんでいることから、大学内部の人間だと彼は感じていた。

 この王立大学院はトップの最高学府で、職員は王宮官僚の身分を与えられている。待遇面はすこぶるいい。それを失う危険を冒してまで犯行に及ぶかというと、動機が弱い気がした。

 では、教授はどうか。教授職は非常な名誉職なため、彼を含め薄給だ。しかし、ここの教授を勤めることで、得られる余録はかなり大きい。他団体の顧問や理事、その幾つかを務めれば、十分な収入を得ることができる。それをふいにする勇気のある教授など、ここにはいないと彼は思う。

 残るは学生で、おそらくその中に犯人はいると彼は確信していた。だからこそ、教務から学生の名簿と履歴を取り寄せ、ここずっと丹念に眺めていた。

 講義でも学生に目を配り、その首の辺りを仔細に観察してきた。しかし、これと思う者は見つけられないでいた。時間はかけられない。傷が癒えてしまうからだ。

 昨夜も夜更けを過ぎても名簿を繰っていた。その夜更かしがたたっての今朝の二度寝だった。

(ニールなのか)

 探し求めていた手がかりの傷を持つ者を見つけ、彼は静かに興奮していた。彼を前にした際にものぞいた不遜な態度。親の身分と資金力を盾に怖いものなしといった太々しさ。

 それらに、以前までは呆れしか覚えなかったが、今は違った。呪わしいほどの嫌悪感と激しい憎悪のために目の奥がひどく熱い。

(しかし、まだ早い)

 と、彼はタバコをくわえ、冷静になろうと務めた。

 ニールには手がかりの傷があるが、それをもって犯人と決めつけるのは早計だ。他に傍証が要る。ろくでもない男だとは思うが、断罪が冤罪では意味がない。

 彼は手紙を書き、それを秘書に某所へ届けさせた。


 昼過ぎに、ノアがアシュレイの元へやって来た。暴行の跡を感じさせない快活な様子だ。

 そんな様子を見るたび、彼は胸が痛くなる。彼女の可憐なたたずまいに、過去もよみがえる気がして切なくなった。

 クリーム煮込みのパイ包み。手渡されたそれをぺろりと平らげ、彼は幸福な気分になった。

 しかし会話の糸口も見つけられず、口にしたのは、

「元気そうでよかった」

 で、彼女を苦笑させた。

「先生、そればっかり」

 すぐに去りそうになる彼女を引き留め、コーヒーを振る舞った。時間が惜しいばかりではなく、尋ねたいことがあった。

 彼女はカップを細い指で抱えるようにしながら、きょとんと彼を見た。そうされると彼は、

(まずい)

 狼狽えて、視線を外す。適当な話をでっち上げた。

「近く推薦状を書くことになった。でも、僕は彼をよく知らない。君は店で会うなりしないかな? 人となりを知っていたら参考にしたいんだ」

「ニールさんなら知っています。でも、推薦状を書く先生に言っていいのかしら。きっと不名誉なことだから…」

 思いがけず手応えがあり、彼はちょっと身を乗り出した。

「ぜひ教えてほしい。ニールには悪いようにはしない」

「はあ」

 彼女から聞き出したのは、ニールの女性を引っ掛ける詐欺めいた話だった。上手い話で釣り、騙して若い女性を求める男に引き合わせるというものだった。

(素行もすこぶる悪いな)

 彼女も騙されそうになったが、偶然居合わせたジークがその企みのカラクリを知っており、難を逃れたのだという。

「もうお話を受ける気でいたから、ジークのおかげで助かったわ」

 語る口調に感謝がこもっていて、彼は白けた気分になった。

「ジークは女優と同棲している」

 つい余計なことが口をついて出た。

(しまった)

 と思ったが、もう遅い。

 驚いた様子の彼女と目が合い、また彼はすぐにそれから逃げた。

「そうなのね。あの、それとニールさんがどういう関係があるの?」

「ニールの叔母が有名なドレスデザイナーというのは事実で、ジークの恋人がモデルを務めていたこともある」

 うまく言い逃れが出来て、彼は内心ほっとしていた。しかも嘘はない。

「だから、彼の言葉には真実味がある。若い女性がそれにほだされるのも無理はないんだ」

「本当に? 自分でも軽率だったと恥ずかしく思っているの」

 彼は首を振った。

 ニールに関しての新たな情報が手に入った。詳細を知るジークにも話を聞く必要が出てきた。

 アシュレイは講義の後で、ジークの教授室を訪ねた。にこやかな秘書に応対され、部屋に通された。長椅子に寝っ転がっている友人に、彼はニールのことを尋ねた。

「どんな男だ?」

「ニールがどうかしたのか?」

「推薦状を書くかどうかの判断の参考にしたい。僕は成績面しか知らないから」

「お、とうとう放校が決まったか。遅過ぎたくらいだな」

 ジークが身体を起こした。

「俺だって、教え子って訳じゃないからよく知らんぞ」

「知っていることだけでいい。『子鹿亭』の彼女が…、お前が詳しいと言っていたから」

「ノアか? へえ、あの子と親しいのか?」

「話くらいはする」

 物言いたげなジークの視線を避け、彼は話の先を促した。何となく扉の外へ目をやる。さっきの秘書がその本人か元彼は思った。

 その仕草に、ジークは首を振る。

「彼女じゃない。前の秘書だ。アリシアがうるさく言うんで辞めてもらった」

 アリシアはジークの女優の恋人だ。教授会で飲み過ぎて、家へ送り届けてくれた秘書とアリシアが対面することがあり、嫉妬されたらしい。

「ニールは叔母の名で騙した女を男に斡旋しているんだ。俺の秘書だった子も、アトリエだと連れて行かれた先が、地下クラブだったそうだ」

「よく逃げられたな」

「無事ではなかったと思う。本人はそこははぐらかしていたから、俺も深くは問い詰めなかった。男の方だって露見のリスクはある。簡単に逃げられるような場所に誘い込んだりはしないだろ」

「ニールはそれを知って、彼女らに声をかけているのか?」

「知らない訳はない。あいつだって、何度かそのおこぼれに与ったくちだろうな」

 苦いジークの口調から、ニールへの反感が知れる。聞いているアシュレイも胸が悪くなるほどだ。

「どうする、やつに推薦状を書いてやるか?」

「…参考になった」

『子鹿亭』に一杯やりに行こうと誘うのを断り、アシュレイは部屋を出た。
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