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ドリトルン家
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しおりを挟むアリスが嫁いだドリトルン家は、名家権門の並ぶ地域ではなく商業地にあった。高利貸しで先代が財を成した邸は豪奢で庭も美しかった。
その庭を歩くと賑やかな周囲の生活音が届く。
彼女の住まいは離れにあって、母屋には夫となった当主のディアーが住っている。簡素な結婚式の時と他数度短く会ったきりだった。結婚して三月経つがろくに話もできていない。
二十五歳と聞く彼は柔和な面差しのきれいな男性で、冷たい印象のフーよりずっと優しげに見えた。実際、彼女へ投げた言葉は「楽に過ごしたらいい」と思いやりあるものだった。
(素敵な方)
夫となった人の姿にアリスは胸をときめかせた。完全な経済結婚で絶望もしたが、この先幸せな家庭を築ければ、経緯など関係ないはず。
伴った侍女と二人で住むには、離れは十分快適だった。高家の邸は典雅な雰囲気でも空気が沈み、陰気だった。でもこちらでは、耳をすませば高い塀を通して誰かの怒鳴り声や物売りの声も届く。活気が感じられた。
最初こそびっくりしたが、それがアリスには珍しく面白くもある。
「こちらはどなたかの隠居所だったのじゃありません? 若い奥様のお住まいには殺風景ですわ。母屋から離れているし、お食事を運んで来るのに距離があって、いつも冷めてしまっているのですもの」
侍女のミントは不平をもらす。アリス付きの侍女で付き合いは長い。
「高家の姫様を奥様にされたのに、酷い待遇ですわ。母屋からもっと人を寄越すべきなのに、下女をたった一人遣わすだけだなんて。抗議しても全然改善されないんですもの。全く馬鹿にしていますわ」
「こちらに来る前から、わたしの世話はお前一人だったじゃない」
「仮にも高家から嫁がれた奥様でございますのに。こんな庭の隅っこの離れに閉じ込めておくなんて。どうして母屋に移れないのでしょう? 腹立たしいですわ」
それはアリスにも不思議だったが、今に不満があるわけでもない。何か理由があるのだろうと疑問は引っ込めてしまっている。
「わたしはディアー様よりずっと若いから、離れて住まう方が気楽だと考えて下さったのではない?」
「楽に過ごしたらいい」。彼からもらった言葉の通りだ。
「もう、姫様は殿様とご一緒でのんきなお方。三月でございますわよ、結婚なされて。花嫁にお手も触れない花婿など初耳ですわ。お身体に都合の悪いところがあるんじゃないでしょうか? だから、フーがあんなにご結婚を迫ったんじゃないかしら……。あの冷血漢」
「止めて。ディアー様に無礼よ」
「だって、姫様がお可哀想ですわ」
「どこが可哀想なの? こちらの食事は美味しいわ。たっぷりとあるし。お前も驚いていたでしょ。衣装だって新調してもらえたし。何より、お父様に年金を支払って下さっているわ。それを取り計らってくれたのは、フーよ。忘れたの?」
「それくらい当然ですわ。殿様に詐欺を働いたのですもの」
困窮した世間知らずな高家を騙し、アリスとの結婚まで持ち込んだのだとミントは譲らない。
「高家の姫様でございますよ。環境が許せば皇后にも上られる身分のお方ですのに」
高家は王国に三家のみ許された特別な称号を受け継ぐ名家だ。王統が絶えるようことがあれば、その代わりを担う権利を持つ。しかし時も流れ、位だけ高い名門に成り下がってしまった家もある。 アリスの父も『月下の杯』の称号を継ぐが、実入りは乏しい。体面を繕いながら何とか保つのがやっとの有様だった。
騙されたのは事実だ。高利貸しで財を成したドリトルン家が、次は名を上げるために是が非でも名門と縁付くための策謀だった。困窮して世知に疎く年若い娘がある。その条件にぴたりとはまったのが彼女の高家だった。
けれど、騙されたことで家は楽になった、と彼女は思う。借金も消え定期に少なくない年金が入る。高価な父の薬代に汲々としなくて済むのが今だ。
彼女がドリトルン家に嫁ぐことが決まり、高家の者は皆が泣いた。「身を落とす」「おいたわしい」と婆やは彼女を哀れんだ。ちなみに、ミントはその婆やの孫にあたる。
(でも、生活は楽になったの)
いつかフーが口にしたことは正鵠を得ていた。「お父上はあなたをお売りになったのですよ」。
家のため、売れるものは売る権利が当主にはある。そしてその義務もあるのだと彼女は思っている。
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