忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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プロローグ

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「おめでとうございます。あなたは花嫁になられるのですよ」

 驚くよりも前に意味がわからなかった。この人は何を言っているのだろう。アリスは訝しげに目を細めた。

 誰かが彼女の手を取った。優しく丁寧に包んだ。おそらく執事の老人だ。いつもそんなように彼女の手を取るから。

「爺、なあに?」

 目をやった執事は彼女の手を自分の額に押し当てている。どうしてか泣いているようだった。こんな様子の執事を彼女はずっと前、彼女の母の死の時見た気がした。

 小さな咳払い。確かめるまでもなくそれはフーだった。沈鬱な居間に、気軽そうにしているのは彼だけだ。

「閣下は……、お父上はあなたをお売りになったのですよ、姫君」

 それがアリスがこれまでを失った瞬間だった。まだ十五歳になったばかり。
 


 全ては邸にあの男が現れてから始まった。
 
 
 侍女が部屋に飛び込んできた。小走りだったのかやや息が上がっている。アリスはそちらへ顔を向けた。

「姫様、いい知らせを持ったお客様がいらしているのですって」

 侍女が告げるに、その客とアリスの父である当主が対面しているという。

「そのお客様、包みをお持ちなのです。手土産だと殿様に差し出されて。それが、ちょうどあの大きさと同じくらいで…」

「まあ、まさか…、あの壺だと言うの?」

「ええ。お邸の家宝『雫の壺』だと皆が申しておりますわ」

 アリスは侍女の言葉に首をかしげた。『雫の壺』は伝家の宝で、父が去年金策のため売却してしまっている。金に換えたものが戻ってくるのはおかしい。

 家宝の壺を手放さなければならなかった家の困窮は、厳しいところまできていた。まだ十五歳のアリスでもそれは実感していた。更には当主で彼女の父の健康も思わしくない。そのせいか邸内の雰囲気は沈みがちだ。

「こちらは高家でございますもの。奇特な方が尊敬の念でご援助を申し出られてもおかしくはないと思いますけれど」

 親族の分家筋ですらそんな余裕がなく冷淡だ。全くの他人が「尊敬の念」などで我が家に援助の手を差し伸べるものだろうか、と彼女は思う。

 なので、それ以上侍女の話に取り合わなかった。

 しかしのち、使用人たちが噂した通り『雫の壺』が返ってきたのだと知り、アリスは芯から驚いたのだ。

 後日父に呼ばれてアリスは客間に出向いた。

 紹介されたのはまだ若いと言っていい痩身の男性で、ドリトルン家に仕える者だという。フーと名乗った。主人の名代で訪れているのだといった。

 邸にやって来た他家の人間に娘を紹介する父を不思議に思った。そんなことはこれまでなく、フーへの好意を感じた。

 フーはアリスにも非常に恭しく接した。涼しい面差しで大人の男性を見慣れない彼女は、彼の控えめに流した視線にちょっとどきりとする。

 フーは幾度か邸に訪れた。アリスが呼ばれることもあれば、そうでないこともある。彼女は彼のことをそう気にしなかったが、侍女たちの内緒話などから父が彼から借金をしていると知った。元々がドリトルン家は金貸しだそうだ。

 贅沢しなくても日々金はかかる。父の病気もそこに拍車をかけた。だからこそ家宝を売って食い繋いできた。

(ないから借りたものを、お父様はどう返すおつもりなのかしら?)

 子供が口を出すものではないとわかっているが、胸に暗い影が差す。これにはまた侍女の言葉で答えがあった。

「半額の返済で済むお約束をなさったそうでございます。1000借りても500返せばいいという風ですって。当家へのご融資は儲け抜きの、芯からの親切心でのお申し出だそうです。さすが高家のご貫禄ですわね」

 そんな借金があるのか、とアリスは驚いた。以前、「尊敬の念」で我が家に援助を申し出る人物があってもおかしくないようなことを侍女が言い、それを疑わしく感じていた。

 しかし、状況はその言葉通りのように運んでいるのだから、納得するしかない。



 庭で花摘みをしていた時だ。騒ぎにアリスは邸を振り返った。日光に慣れた目に、窓を開け放ったその奥が暗く感じた。

 花籠を持ち中に戻った。やはり人声が騒がしい。侍女の低い悲鳴のようなものも交じり、アリスは声のする方へ向かった。

 居間には数人がいた。椅子に倒れ込んだ父を見て彼女は走り寄る。すぐに執事にやんわりと引き止められた。外に出ているように言われた。

「殿様はいつもの軽いめまいを起こされただけでございます」

 父を見るがその顔色がひどく悪い。縁起でもないが、生気を失った人はこんな顔色になるのではと思ったほどだ。

「アリス、爺の言うように」

 父は彼女と目を合わせず、そう低く告げた。

「でも…」

 執事が促すが去り難くもじもじしていると後ろから声がした。

「姫君にももうお知らせするべきかと」

 フーだ。その淡々とした声はこの場にふさわしくなく聞こえた。すぐ側で父が自失したように椅子に倒れ込んでいるのに。

 彼女は振り返った。

 フーは腕を組み落ち着いて見えた。とても父の様子を気遣う風には見えない。アリスはそこに違和感を持ったが、それは彼の言葉にかき消されてしまう。

「閣下は……、お父上はあなたをお売りになったのですよ、姫君」



 寝ついてしまった父に代わり、執事からことの説明を受けた。フーが仕えるドリトルン家に父が莫大な借金をしていること。その返済の目処が立たないこと……。

「でも、フーの主人は我が家への親切心でお貸し下さったのでしょう? 返すもの半額でいいお約束とか……。『雫の壺』も戻して下さるような方なのだもの。待ってもらえるのではなくて?」

 そもそも父のフーへの信頼は、家宝を取り戻してくれたことから始まる。

 しかし執事が語るに、それすらも今となっては父に取り入るための手段だったと思われるという。断腸の思いで手放した家宝を買い戻し献上してくれたことは、父の警戒心を随分と緩めた。

「その上での借金の申し出です。半額でいいとは口約束のみで、証文にはそんなことは何も……。期日に遅れたら、猶予なく一括での返済を求めるとまで追記されてあるのです。殿様がご署名なさった際にはそんな文言はありませんでした。それは私も確かめておりますから、間違いはございません」

 なら、追加されたその文言はどこから出てきたのか。

「どこかの段階で、あのフーが取り替えたのでございましょう。しかし、それを証明する術がありません」

 執事の表情は苦しげに歪んでいる。主人の側にありながら窮地に陥るのをみすみす看過してしまった、その心情が現れていた。

「久方ぶりに殿様の晴れやかなお顔を拝見して、私どもも気が緩んでしまっておりました…」

 フーが現れた日から使用人たちの様子が明るくなったのを、アリスもよく覚えている。それは父の朗らかな様子から派生したものだ。たとえ、まやかしの晴れ間であっても。

 詐欺を証明できない以上、証文通りの返済を迫られる。しかし返す金などない。そこでフーの主人の申し出だ。

「姫様との婚姻で借金を帳消しにすると」

「……お父様はそれをおのみになったのね」

 だからフーは父が「彼女を売った」と表現した。

 重い沈黙の後だ。小さく吐息し、呟く。

「お父様がお決めになったの。……従いましょう」

「姫様」と呼ばれ大切にされるのは、こんな時高家を守るため責務を果たすためだろう。そうアリスは理解している。
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