忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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禁じられた遊び

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 ノックに続いてシェリーシュが書斎に入って来て、ロエルは顔を上げた。この従僕には用を頼んでいた。

 問いを発する前に、

「姫君はお留守でした。ご親族の方の元へ出かけられているとかで」

 と返ってきた。アリスの様子を知りたいと思っていただけに、落胆は大きい。大叔父の領地での彼女との逢瀬の途中、リリーアンが現れた。彼にとって最悪の状況で、リリーアンには罪はないが天を呪った。

 アリスははっきりと彼に背を向け、別れの言葉も口にした。無我夢中で詫びて宥めたが、それが心に響いたかはわからない。

 彼とリリーアンの姿に夫の過去の裏切りが重なって見え、より傷ついたのだという。彼が夫と同じく彼女を裏切る存在だと、刷り込ませてしまった事態だった。

 邸に送り届けた時には平静な様子で、彼と目も合わせた。何とか機嫌を取り結べたようではあるが、自信はなかった。彼女が口にした別れの言葉が気にかかってならない。彼への不信は二人の関係を考え直す、いい機会に違いないのだから。

 公爵邸に帰り、すぐに彼女へ手紙を書いた。しかし届ける術がない。シェリーシュは大叔父の館に留まっているし、アリスの側との手づるがないのだ。そこでレイナ夫人に頭を下げ、アリスへの手紙に同封してもらうことにした。

 返事を待つ中、療養を切り上げ大叔父を伴って王都へ帰ってきた。リリーアンとの別れも済ませてある。

「若様が女を好きになれるまともな方で良かった。必要だけで女を抱いていても、きっとこの先お寂しいと思っていたもの」

 没頭する仕事があって、気晴らしに好みの女性と関係が持てれば、少し前の彼はそれで済んだ。一人の女性を求める気持ちもよくわからなかった。その先にある結婚も自由が狭められて厄介で、出来るだけその責務から遠ざかっていたかった。

 リリーアンの言葉に彼は自分を振り返った。もう今の自分には通用しない感覚ばかりで、違和感しかない。彼女は「この先」の彼が寂しいだろうという婉曲な表現をしたが、

(身勝手なだけの子供)

 だったと痛感する。

 アリスからの返事は遅れて届いた。

『あなたの大叔父様にお礼を申し上げていただけますでしょうか。縁のないわたしへお優しくして下さいましたので……』

 といった短いものだった。一気に距離が随分前の彼と彼女に戻ったような文言で、目の前が暗くなった。せめてなじってでもくれれば取りなしようもある。一切を省いたそっけなさには彼女の別れの意思すら匂わせ、いたたまれない。

 再び手紙を書き、今度はシェリーシュに持たせた。その返しを待っていたのだが、アリスは不在で様子もうかがい知ることが出来ない。

「侍女に会って、ご様子は聞きました」

 アリスの侍女は彼も知る。送り届けた際に、おそらく慣れたシェリーシュと間違えたのだろう。「だらしないわね」と叱りつけられた。

 彼はペンを放し立ち上がった。

「ミントが言うには、姫君は今は落ち着かれたそうです。ただ、悩まれているとか……。ご自分の存在が若の自由を奪うことになるのではと」

 ロエルは首を振った。髪をかきながら問う。

「どう思う? それは婦人の逃げ口上か? 「わたしにはもったいない方ですわ」とか……、体裁よくする、あるだろう。あれか?」

「いや。確かに、若と女性の関係に若干の嫌悪感を持たれたのは事実でしょう。しかし、それを咎める権利がご自分にないと感じていらっしゃるのだと思います」

 シェリーシュの言葉は深く納得できた。あの日もアリスから彼を責める言葉は一切なかった。代わりに別れの言葉と背を向ける拒絶だ。

 どうしても振り返ってはくれない彼女を後ろから抱きしめた。そうしないと消えてしまいそうで、このまま失ってしまうのが、ただ怖かった。臆病に由来した逃げる機敏さと頑なさは、

(本当にうさぎみたいな人だから)

 しみじみ思う。彼の側に向けたほっそりしたうなじが西陽を浴びて輝いていた。そこに口づけたうっとりとする記憶は今も生々しく残る。痕はわざとつけた。この後、夫の元に返すことが悔しくて惜しくて許せず、切なかった。

(見つかってもいい)

 そんなヤケな気持ちがあったのは否めない。

(あれをアリスはどう誤魔化したのだろう)

「彼の自由」とアリスは言うが、彼女のいない自由にロエルは何も描けない。彼に何かを制限する権利がある者がいるとして、それは彼女でしかないのに。

 届けるのに日をかけた手紙の返事もない……。彼はやりきれなくなる。彼女との間をいつも何かに阻まれていて、その中で喘いでいるかのようだ。ひどく会いたくなる。

 幾夜も彼女から香った花のような匂いを思い出していた。

「ミントが言うに……」

 シェリーシュは言葉を切った。はっきりした物言いの彼に珍しい。嫌な内容かとちょっと身構える。

「姫君は乙女でいらっしゃるそうです」

 ロエルの反応はシェリーシュがそれを聞いたのと同じで、瞬時固まった後で瞬きを繰り返す。

「それは、どういう……」

「そのままの意味です。姫君付きの侍女が泣きながら言うのだから、事実でしょう。潔癖でいらっしゃるのも頷けますね」

 事実がすぐに飲み込めなかった。アリスの夫が嫁いで来た彼女に手も触れていないなどあり得るのか。しかし、夫に愛人がいるというのは知っている。それを憚って正妻の彼女が離れに住っているのだとも聞いた。

 住まいの距離は真実夫婦間の距離だとすれば、いつかの彼女の言葉も腑に落ちる。「夫とわたしは普通の夫婦であったことなどないのです」。それを彼は単に、睦まじくない、程度に捉えていた。

 男女のことを実際に知らないアリスが、どんな思いで彼に向き合ってくれていたのか。強引に接吻を求めた夜のことも後味悪く思い出した。残酷だった。

(あんなに怖がりなのに)

 驚きは納得と共に彼の中で消えた。そして浮かんでくるのは嬉しさだった。冷めた仲であれ、夫が彼女を求めることはあるだろう。その想像は彼をしつこく苛んできた。抗えず従う彼女を描いてしまうのも堪らなかった。しかしそれらは杞憂で、彼の妄想に過ぎなかった。

「そうか……。驚いたな」

「先代当主が亡くなって重しが外れたみたいだ、とミントは言っていました。当主を外れたその子息が遺言や遺産に不満らしく、騒いでいるそうです。現当主は幼児ですし、その代理も姫君で御し易いと見ているのでしょう」

「厄介な状況だな。あの人はお気の毒に……」

 アリスの純潔を知って喜んだのも束の間、またロエルの胸はざわめいた。彼女の理解を超える問題に途方に暮れている様が浮かぶ。

 彼は腕を組んでしばらく考えたのち、

「「ミント」が「ミント」が、とアリスの侍女と随分親しいようじゃないか」

 とからかった。シェリーシュは主人の指摘に耳まで赤くなった。

(わかり易いな)

 シェリーシュのいつになく照れた様子がおかしい。ミントの方も頼りにし相談をしているというのだから、憎からず思っているのはわかる。二人が知り合ったのは、ロエルとアリスを介してほんの数ヶ月前だ。なのに、遠くなく気持ちを確認し合い、彼とアリスの関係をあっさり抜き去ってしまうのだろう。

 シェリーシュは顔を撫でた後で言う。
 
「ミントは深窓の姫君とは違い、若の過去に理解もあるようです。「さもありなんよね」などと言っていましたから。上手く取りなしをしてもらえるのではと思いますよ」

 その言葉にロエルは少しだけ気持ちを宥められた。箱入りの姫のアリスにとって、侍女の説得は確かに効きそうだと思われたからだ。
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