忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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穴の意味

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 アリスの隣でロエルが母屋を振り仰いでいる。全ての窓のカーテンが厚く閉じられ活気は感じられない。

「この邸はどうなさるのです?」

 二人はドリトルン家の庭を歩いていた。アリスがドリトルン家に戻ってからも、彼は気遣った手紙や花などを届けてくれていた。事件の噂がある程度落ち着くまで距離を置き、彼と会うのは事件後これが初めてだった。

「さあ……、今のまま閉じておくだけのように思います。ミントは物好きが買い取ってくれるのではないかと言うのだけれど」

「それはありそうに思えますね。奇妙なものを求める人は多いから。失礼、あなたを奇妙と言ったのではありません」

「いいえ、わたしもその奇妙な中の駒の一つだわ」

 そう彼女は微笑んだ。

 彼とドリトルン家の庭を歩くなど、アリスは想像もしていなかった。彼は常にこの家の外にいる人で、彼女には世間への窓のような存在だった。紆余曲折あり、結果その窓を打ち破るように入ってきてしまっている。

 ロエルが彼女の手を握った。いつからだろう、と思った。こんな風に彼が彼女に触れることをためらわなくなったのは。

 指を絡めて彼女の顔をのぞく。

「お顔の色もいい。もう落ち着かれたようですね。前にお会いした時あなたは、可哀想なご様子だったから」

 こけた頬もいつしか戻った。暗い記憶は記憶として過去になっている。今の安定と伸びやかな心地は、この彼のくれたものだと芯から思う。

「あなたには感謝してもし切れないほど。本当にありがとう」

「僕は当然のことをしたまで。そう、ミントの手紙にあなたの食が細ったことが記されていて、これは大変な危機だと慌てました」

「まあ」

 ロエルに促されアリスは石椅子に掛けた。彼は座らず彼女の前に立ったままだ。

「ねえアリス、そろそろ僕の願いを聞いていただきたいのです。随分待って、もうこれ以上待ちたくない。あなたは僕の願いを覚えていらっしゃいますか?」

 彼の眼差しを受けアリスは頷いた。王宮から帰る馬車の中だった。彼からドリトルン家を出て彼と暮らす可能性を打診された。期限も切らず急くこともなかった。そうありたいのかだけを問われ、彼女は心のまま嬉しいと答えた。

「王都を離れて暮らしませんか? 大叔父の所領の近くに僕も領地を用意しました。そこでなら、噂や醜聞を気にせず生活していける。もちろんロフィ君も一緒です。あなた達を割くことはしません」

 アリスは妙な声がこぼれそうで、思わず口元を覆った。あの日から今日までの間に様々なことが起きた。いつかの果たせぬ約束で、空手形……。そうだったはずが、今再び彼女の前に差し出されたそれは確かな未来の色をしていた。

 込み上げる感情を噛みしめてから、彼女は答えた。

「嬉しいわ、とても。でも……」

 ロエルは首を振った。

「でもはもういい。婚外関係になることは両親にも話して認めてもらっています。諸手を挙げての賛成とは言いません。難色を示されたし、特に母には打たれもしました……」

 アリスは彼の言葉に喜びも冷める思いだった。大事に育てた愛する息子が選んだのは、よりによって悪名高い家の人妻だ。絶望に近いものを味あわせてしまった……。公爵夫人の人となりを知るだけに、罪悪感が大きい。

 彼は隣に掛け瞳の落ちた彼女の手を取った。強く握る。

「形はどうでもいい。僕たち三人が誠実に家庭を築いて幸福であれば、それが何よりの説得になります。周囲の目も変わる。でもそんなものを待つ必要はないし、視線が邪魔であれば王都を離れればいい。それだけのことです」

 確固たる彼の言葉にアリスは慰められた。彼が彼女を望み、彼との幸せを彼女も願うなら、二人で前を向くのがきっと正しい。

 彼女はそこで弁護士の言葉を思い出す。亡義父の遺言にはロフィの母親としての欠格理由が挙げられていた。ディアーとの離縁、彼女自身の死、それに彼女とディアーとの間に別の嫡子が誕生した場合だ。

「そこにディアー氏の死亡は含まれません。未亡人となられたあなたは、あなたが亡くなられるまで、ロフィ様の母上であり続けられるのです」。

 ドリトルン家とロフィは一体だった。それ故アリスはこの家に縛られ続けてきた。しかし、ディアーの死はその縛りを切り離すことを可能にした。彼女はロフィの親権を確保出来、そこに制限はない。

 弁護士から教えられた話をロエルに告げると、彼は驚いた顔を見せた。

「では、あなたは僕と再婚が可能な訳だ」

「……そうみたい」

 アリスははにかんで頬を染めた。

「ねえ、僕は将来公爵を継ぐことになるが、その時あなたには公爵夫人であってほしい。でも、ご身分が下がることになるから、あなたはお嫌ですか?」

 彼女が答える前に彼は椅子から立ち、彼女の前に跪いた。手を取り唇に当てる。

「僕はあなたに変わらぬ愛情と誠実を捧げる。僕の妻になっていただけますか?」

 彼女に迷いはない。

「ええ、お受けします」

 アリスの答えに彼は立ち上がり、口づけることで応じた。

「式や何かをお望みですか? あなたのご希望はぜひ叶えて差し上げたい」

「ロエル、それは無理よ……。公爵家にこれ以上のご迷惑はおかけできないわ。それに父も噂になることを喜ばないと思うの」

「……そうですね。では、なるべく早く新しい生活を始めませんか? もう何も障害はないのだから。これからのことは僕たちだけで決められる」

 彼の声は明るく強い。

 会えることなど稀だった。その時の時間の密度を彼女は覚えている。屋外の中で二人きりの密室にいるような特別な空気感があった。手紙が途切れることにも切なく悩み焦れてきた。

 二人の間には幾つもの溝があって、彼に手を引かれ怖々彼女はそれらを飛び越えてきた。強引だと思ったし意地悪にも感じた。逃げ出したことも何度かある。強気なそれらの行為には彼女へ注ぐ真っ直ぐな眼差しや優しさがあって、そこに彼女は溶かされていったように思う。



 
 アリスは彼の意向を全て受け入れた。これまでを振り返れば、ロエルにはこれから先のことは凪いだ海のように穏やかに思えた。

 彼女との在り方に形は不要だと断じてきた。しかし妻として紹介できない立場に彼女を置いてしまうのは、彼のエゴであるかもしれない。それを選ばなければ、彼女との未来はなかったのだけれども。

 どこからか余ったピースがぽろりとこぼれ落ちたように、彼らの前に幸運が降ってきた。正式に彼女を妻と出来るのは心の高揚する未来だ。彼女が頬を染めて「……そうみたい」と答えた愛らしさは、おそらく忘れられないだろう。

 ちょっと酔ったように喜びを感じていると、ふと頭に浮かぶことがあった。フーが殺害したディアーを隠した理由だ。

 もちろん犯行の露見を恐れてだろうが、アリスとの会話から別な理由も見出せた。ディアーの死が明らかでない以上、彼女はロフィの為にドリトルン家を離れられない。彼の死をもって、親権と自由を手に出来るのだから。

 事が露見しても、フーはまだ容疑が確定していなかった。たとえ捕縛されても抗弁のしようもあったと思う。証拠はミントが見た彼が穴を掘る場面のみだ。なのに、簡単に諦めて自死を選んだ。

(アリスが自由を手に入れてしまうから。ドリトルン家を出て行ってしまう……)

 軟禁に及ぶなど支配も執拗で、それは恋情の歪んだ発露なのではないかとも思う。

 ロエルはそこで想像を止めた。真実は決して知れないし、探ることに意味もないだろう。

 彼女へ告げることはしない。恩義と絡まって亡きフーへの印象は忘れがたく強まる。それをしてやるほど彼はお人好しではなかった。

 再びちらりと邸へ目を向けた。陰鬱な印象は事件のせいばかりではない。アリスを封じ込めてきた巨大な檻がその使命を終え横たわっているかに思え、不気味でさえあった。

(アリスにはお気の毒だが、買い手はつかないだろうな)
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