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第二章
第二十七話 咲き誇る想い
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今の状況を理解するのに数秒固まってしまっていた。シュテルの色が変わった瞳を見る限り、この植物の魔法を打ったのはシュテルとしか考えられない。お姉様の時もそうだったが、魔法を放つ時は術者の瞳がその魔法の性質の近い色へと変化する。それにシュテルは前世でも植物の魔法を使っていた。しかしその才能が開花したのは十歳という、魔法が発現する一般的な時期だったはずだ。
八歳で魔法を扱えるなんて、お姉様と同じくやはり天才なのでは…?
この事実を知っていたら、前世の私は嫉妬で怒り狂っていたか、面白い玩具ができたと喜んでいたことだろう。しかし今の私は、あまりの衝撃でぽかんと間抜けな顔を晒すことしかできなかった。
「姉様、大丈夫ですか⁉」
「え、ええ。ところでこの魔法は…シュテルがやったの?」
念のためそう聞くと、シュテルは少し気まずそうに私を見て頷いた。その反応でなんとなく、シュテルが以前からこの魔法を使えていたことを察した。自分の力に驚いている様子もないし、今初めて使ったわけではないのだろう。
おそらくシュテルは、自分が目立つのを嫌がってこのことを黙っていたのだ。この力が知られれば、ほぼ間違いなくシュテルは天才だともてはやされる。だがシュテルなら他人の称賛さえ煩わしいと思っているかもしれない。だからわざと力を隠し、一般的に魔法が発現するとされる十歳の時にそれを打ち明けたのだ。
そんなふうに隠していた魔法を私のために使ってくれるなんて……と胸が熱くなる。
「助けてくれてありがとう」
素直に礼を言うと、シュテルは穏やかな顔付きになって「それは僕の台詞ですよ」と返してくる。優しい子だ。こんな子にベルナデッタはなんて酷いことをしたんだ。
非難する思いで倒れているベルナデッタを見つめる。でも、と自分の拳を強く握る。前世の私はベルナデッタの比にならないぐらいの悪行を重ねた。シュテルに対しても、決して許されないことをした。今ここでベルナデッタの魔の手から救ったといっても、到底償いきれるものではない。
だがもしそんな自分にできることがあるというのなら…お姉様やアンナ、それにシュテルなど、身近にいる人たちの幸せを守りたい。前世で彼らの幸せを奪った私が言う資格はないのかもしれないけど…少しでもいいから罪を償いたい。
シュテルの方を見る。シュテルは私に対して憎悪も嫌悪もない、心を許したような優しい顔を向けてくれる。その顔に、罪悪感で胸が苦しくなる。
(今度こそ……シュテルとあの子が結ばれて、幸せになって欲しい)
そう、強く願った。
「ふふふ、あははは」
不気味な笑い声に驚いて、私たちはばっと振り返る。見ると倒れていたはずのベルナデッタが立ち上がっていた。
「素晴らしい、素晴らしいわ私のシュテル…こんなに素晴らしい才能があったなんて‼愛しているわ‼さあ、もっと私に見せて頂戴!あなたの成長を、この母に……!」
狂気的な笑い声を上げながら光悦とした表情で叫ぶベルナデッタ。ベルナデッタの魔法よりシュテルの魔法の方が能力を上回っているのだから、負ける心配はない。
それなのに…どこか恐ろしい。どこまで行っても止まることのない執着心。最初は自分の利益の為にシュテルを利用しているだけかと思ったのだが、彼女は完全に常軌を逸している。そう感じたのはシュテルも同じようで、困惑した表情を隠しきれていなかった。
「ああ、私の可愛いシュテル!怖がらないで、私はいつまでもあなたの味方だから…!たとえ世界中があなたの敵になってもあなたを守ってあげる。誰もがあなたを嫌いになっても、私が傍にいてあげるわ。それを邪魔する奴らも全部消してあげる。だからこっちへおいで、私の可愛い可愛いシュテル……‼」
ベルナデッタがナイフを握り一歩進んでくる度に、私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。彼女の欲望と狂気に染まった顔を見るだけでも恐ろしい吐き気と恐怖がこみ上げてくるのに、それを向けられるシュテルはどれほど辛いだろうか。シュテルの顔は青ざめ、体は小さく震えていた。
その姿を見て、私はついシュテルを庇うように前に飛び出る。魔法も使えない私ができることなんてないに等しい。それでもこれ以上この女の狂気をシュテルに受けさせてはならないと思った。
ベルナデッタはもはや私など眼中にないのか「私のシュテル」と繰り返しながらゆっくり近付いてくる。どうする。どうしたらいい。私自身も恐怖で上手く頭が働かない。せめてでもシュテルが逃げる時間があればいい。捨て身覚悟で彼女に突進でもしてみるか。いや、落ち着け。もっといい方法があるはずだ。
大きく息を吸って深呼吸する。たとえ魔法の使えない子供でも、今シュテルが頼ることができるのは私だけだ。私がしっかりしなくてどうする。振り返ると、酷く怯えた様子のシュテルと目が合った。その目を見ると、不思議と私の中の恐怖心は消えていった。ただこの子を安心させたい、そう思った。
「大丈夫よ」
この状況に相応しくない穏やかな笑みを浮かべてシュテルの頭を優しく撫でる。シュテルも驚いたのか震えを止め、宝石のような赤い瞳で私を見上げる。
「私の…、私のシュテルに触れるなぁぁッ‼‼」
叫びながら襲い掛かって来るベルナデッタに反応が遅れて、避けきれずナイフが少し私の髪を切る。しかし次の瞬間また足が動かなくなる。糸が先ほどのように私の足に絡んでいたのだ。
「ふふ…頭が悪い子ですねぇ…また同じ手にかかっちゃうなんて」
笑いながらベルナデッタは私の腕をギュゥっと掴み上げた。力加減などしていないのだろう。子供の細い腕を、まるで水に濡れた雑巾を絞るかのように力を入れて締め付けた。
あまりの痛さに声が漏れる。しかしベルナデッタはそんな私の様子など気にも留めずに激昂する。
「この汚らわしい手が!私のシュテルの頭に触れた‼なんて醜い…こんなモノが存在するなんて‼」
ベルナデッタがナイフを振り上げる。そのまま手首を切り落とされそうな勢いに肝が冷える。見ていられなくて思わず目を閉じてしまう。
しかし、次に聞こえたのはナイフの肉を切る音ではなく、聞きなれた、けれど酷く恐ろしい声だった。
「おい」
その声を聴いた瞬間ゾクッと途轍もない寒気が背中に走った。ベルナデッタなんかとは比較にならないほど、身の凍り付くような恐怖だった。例えるならば、自身より圧倒的に格上の存在が現れたような……。
カラン、と音が響く。床に落ちていたのはベルナデッタが握っていたはずのナイフだった。
「お前…確かシュテルの乳母のベルナデッタとかいったか?私の姉弟にいったい何をしている?」
コツ、コツ、と扉の方から歩いてくる音が聞こえる。ベルナデッタの顔は先ほどの狂気に満ちた様子はなく、ただ恐怖に歪んでガクガクと大きく体を震わせていた。力が緩んでいるうちに私の腕を掴んでいる手を振り払う。しかしベルナデッタはそれを気にする様子もなく、ただ声の主に怯えていた。
「質問に答えろ。喋ることもできないならその喉は…焼いても構わないよな?」
ベルナデッタの胸倉を掴み、鋭く冷めた青い瞳で彼女を射抜く。ベルナデッタはもう「え、あ、その」などとしどろもどろになった返答しかできていないようだった。部屋の中に重い緊張感が走る。しかし今世で既に二度目となる光景に、私の心は少しだけ落ち着いていた。
――怖すぎるでしょ、お姉様。
自分の冷静な部分が落ち着いたツッコミを入れる。さすがに室内だし、奴隷商人のような容疑がはっきりとしている犯罪者相手ではないからか、前のようにすぐに相手を燃やすことはしないようだ。しかしベルナデッタは再起不能と思われるほどに怯えている。それに対して怒りが収まらない様子で問い詰めるお姉様を見ると、なんだかやり過ぎではないかと被害者ながらに感じてしまう。
「ミティア様!」
そんな空気が張り詰めた部屋に飛び込んでくる高い声に、私は思わず安堵のため息をついた。半泣きになりながら私のもとへ駆け寄ってくるアンナに、私は努めて明るい声をかける。
「よくやったわね、アンナ」
「どこがですかぁぁ!わた、わだしが遅かったせいで、ミティア様がお怪我をぉぉ‼」
そう言われて、ベルナデッタに掴まれた腕を確認してみると、確かに力を込められた部分が青くなり痣になっていた。あれだけ強く掴まれれば当然だろう。むしろ、血を流すことにならなくてよかったと私は逆にほっとしていた。
「……怪我?」
しかしその考えは甘かったとすぐに思い知る。ゆらりとこちらを振り返ったお姉様を見て、私はつい「ヒッ」と声が出た。私の腕の痣をじっと見つめて、ベルナデッタに向き直る。そしてその冷えた青い瞳はだんだん炎のように赤くなり――。
「ってお姉様ストップ!場所を考えて!もう十分正当防衛になったのよ‼」
私はそう必死に叫ぶ。さすがに火事を起こされるのはごめんだ。相手を睨んで再起不能にすることを正当防衛というのかは知らないが、とにかく止めなければと思った。その気持ちが伝わったのかお姉様は瞳を青色に戻して言う。
「アンナ、二人のことを頼む。聞きたいことは山ほどあるが…とりあえず私はコイツを連れていく」
……連れて行くってどこへ?まさか地獄にじゃないよね?
先ほどから何故かベルナデッタを心配する自分に驚きつつ、アンナに顔を向ける。
「……心配かけてごめんなさい。今思えば、私も冷静じゃなかったわ」
「……本当ですよ、とっても心配したんですからね?急に部屋を飛び出して行かれて…わけがわからなかったけど嫌な予感ばかりして、ミティア様が心配で心配で…うぅっ」
アンナの目から涙がぼろっとこぼれてくる。私は謝りながら彼女を宥めた。アンナは泣いて文句を言いながら私の足に絡んだ糸を取ってくれる。なんというか……泣き虫だけど、器用でたくましい子だなと思いながら私は今日のことを思い返した。
シュテルが書いたという悪意に塗れた手紙が、別の者によって作られたものだと気付いた時、私は激しい怒りと焦燥感に駆られた。そのため一応アンナに「私の帰りが遅かったらお姉様を呼んで図書館かシュテルの部屋に来て欲しい。お姉様がいなかったら近くにいる兵士や騎士でもいい」とだけ伝えてすぐに部屋を飛び出して行ったのだ。全てが私の勘違いという可能性もあるし、あまり周りに迷惑をかけたくなかったので一人で確認しに行ったわけだが……結局みんなに迷惑をかけてしまった。
最初からお姉様に相談して二人で行けば、私はここまで危険な目に遭わなかったし、シュテルもあんなにおぞましいものを見ることはなかっただろう。私はシュテルの方を見る。シュテルは目を潤ませて、少し赤く腫れさせていた。彼は前世でも今世でもずっと大人びていたが、それでもまだ子供だ。私より小さな体で人からの悪意を受けても、ずっと泣き声一つ上げずに堪えて生きていたのだろう。
前世では幼い頃からベルナデッタの酷い執着に耐え、成長してからも私の悪行に耐え忍んできた。大切な人まで奪われてもずっと……。
不安がこもったシュテルの目を見つめる。今までこんな目を見たことはなかった。怒り、悲しみ、諦め、憎悪、嫌悪、絶望……そんな感情のこもった目は見てきたが、不安で仕方ないといったような、子供らしい目は初めて見た。しかしそれはシュテルが見せないようにしていただけなのだろう。
当然だ。敵である私に弱みなど見せるわけにもいかないし、見せたくもなかったはずだ。シュテルはそうやって子供の頃から自分の感情を抑えてきたんだ。
私は無意識に心の奥から声を出していた。
「シュテル……ごめんね」
シュテルが目を丸くする。アンナも驚いているようだった。私は前世のことを含め、私の勝手な判断で危険に晒したこと、強がっていたのに全くシュテルを守れなかったことへの謝罪だった。しかしシュテルは納得のいかないように拳を握り締め、わなわなと震えていた。
「なんで、姉様が謝るんですか……?全部、僕のせいなのに。僕が黙ってアイツの言いなりになっていたから、こんなことになったんだ」
信じられないというようにシュテルが言う。やっぱり優しい子だ、今のシュテルを見て強くそう思った。そんな気持ちが溢れてしまったのか、私はシュテルに微笑んでいた。そんな私を見てシュテルはカッとしたように、今までで一番大きな声を出す。
「怒ってくださいよ!僕のせいでこうなったのだと!そうでもされないと、僕は……後悔してもしきれない。あと数秒でも早かったら、一生残る傷を背負うことになっていたんですよ……」
だんだんと声が小さくなっていく。怒っているのに縋っているような、儚い声だった。
「怒る必要なんてどこにもないわ。あなたは何も悪くない。私はただ、もっと上手くやれたんじゃないかと思っただけよ。もっと安全で、穏便に終わらせる方法がね」
「だからっ、それもこれも全部僕のせいで――」
「でもね」
私は優しくシュテルの手を握る。
「それでも……自分勝手な考えかもしれないけど、今日シュテルを助けることができたならとても嬉しいの。たとえ大きな怪我をしても、それでシュテルが助かるなら、その怪我は私のこの上ない誇りになったわ」
「……なんで、僕なんかにそこまで」
訳が分からないと言った様子で困惑するシュテル。私は思わずまた笑ってしまう。だって普段あんなに頭が良いのに、こんな簡単なことがわからないなんて、可愛くてしょうがないじゃないか。
「決まってるじゃない。あなたが大切な家族だからよ」
その瞬間、シュテルの赤い瞳が宝石のように輝いた。
「私だけじゃないわ、お母様もお姉様も、みんなあなたが大切なのよ。それにあの日大庭で話してみて、私はとてもあなたが好きになったの」
嘘じゃない。私よりずっと賢くて私より小さいこの子は、一見無口で近寄り難そうに見えて、とても暖かくて優しい子だった。前世で見ることができなかった、負の感情からではないいろんな表情を見せてくれた時、私は心の底から嬉しかった。だからこそシュテルが私のことを嫌っていると聞いた時、本当にショックだったのだ。
それほどまでに大切な存在となったシュテルが、自分なんかと己を卑下するのは嫌だ。だから、伝えよう。少し気恥ずかしいけど。たとえ頭が良くなくても、魔法の才能なんかなくても、シュテル自身が自分は周りにとって素晴らしい存在なんだと気付いてほしいから。
「シュテル……愛しているわ」
ばっとシュテルが抱き着いてくる。決壊したように溢れてくる彼の涙につられて、私も少し泣きそうになる。声を押し殺して泣いているこの子を心底愛おしいと思う。
シュテルが今まで受けるはずだった愛を、これから少しずつ送りたい。お姉様のようにさらっとはできないかもしれないけど、私なりの想いを伝えていきたいのだ。前世で犯した罪の償いをするという気持ち以上に、シュテルが大切でどうしようもなくなっていた。
シュテルが幸せを掴むまで…私は必ず彼を守っていこう。
ふと横を見ると、シュテルが私を助けてくれた時に生やした植物の中で、赤いサルビアが咲き誇っていた。
八歳で魔法を扱えるなんて、お姉様と同じくやはり天才なのでは…?
この事実を知っていたら、前世の私は嫉妬で怒り狂っていたか、面白い玩具ができたと喜んでいたことだろう。しかし今の私は、あまりの衝撃でぽかんと間抜けな顔を晒すことしかできなかった。
「姉様、大丈夫ですか⁉」
「え、ええ。ところでこの魔法は…シュテルがやったの?」
念のためそう聞くと、シュテルは少し気まずそうに私を見て頷いた。その反応でなんとなく、シュテルが以前からこの魔法を使えていたことを察した。自分の力に驚いている様子もないし、今初めて使ったわけではないのだろう。
おそらくシュテルは、自分が目立つのを嫌がってこのことを黙っていたのだ。この力が知られれば、ほぼ間違いなくシュテルは天才だともてはやされる。だがシュテルなら他人の称賛さえ煩わしいと思っているかもしれない。だからわざと力を隠し、一般的に魔法が発現するとされる十歳の時にそれを打ち明けたのだ。
そんなふうに隠していた魔法を私のために使ってくれるなんて……と胸が熱くなる。
「助けてくれてありがとう」
素直に礼を言うと、シュテルは穏やかな顔付きになって「それは僕の台詞ですよ」と返してくる。優しい子だ。こんな子にベルナデッタはなんて酷いことをしたんだ。
非難する思いで倒れているベルナデッタを見つめる。でも、と自分の拳を強く握る。前世の私はベルナデッタの比にならないぐらいの悪行を重ねた。シュテルに対しても、決して許されないことをした。今ここでベルナデッタの魔の手から救ったといっても、到底償いきれるものではない。
だがもしそんな自分にできることがあるというのなら…お姉様やアンナ、それにシュテルなど、身近にいる人たちの幸せを守りたい。前世で彼らの幸せを奪った私が言う資格はないのかもしれないけど…少しでもいいから罪を償いたい。
シュテルの方を見る。シュテルは私に対して憎悪も嫌悪もない、心を許したような優しい顔を向けてくれる。その顔に、罪悪感で胸が苦しくなる。
(今度こそ……シュテルとあの子が結ばれて、幸せになって欲しい)
そう、強く願った。
「ふふふ、あははは」
不気味な笑い声に驚いて、私たちはばっと振り返る。見ると倒れていたはずのベルナデッタが立ち上がっていた。
「素晴らしい、素晴らしいわ私のシュテル…こんなに素晴らしい才能があったなんて‼愛しているわ‼さあ、もっと私に見せて頂戴!あなたの成長を、この母に……!」
狂気的な笑い声を上げながら光悦とした表情で叫ぶベルナデッタ。ベルナデッタの魔法よりシュテルの魔法の方が能力を上回っているのだから、負ける心配はない。
それなのに…どこか恐ろしい。どこまで行っても止まることのない執着心。最初は自分の利益の為にシュテルを利用しているだけかと思ったのだが、彼女は完全に常軌を逸している。そう感じたのはシュテルも同じようで、困惑した表情を隠しきれていなかった。
「ああ、私の可愛いシュテル!怖がらないで、私はいつまでもあなたの味方だから…!たとえ世界中があなたの敵になってもあなたを守ってあげる。誰もがあなたを嫌いになっても、私が傍にいてあげるわ。それを邪魔する奴らも全部消してあげる。だからこっちへおいで、私の可愛い可愛いシュテル……‼」
ベルナデッタがナイフを握り一歩進んでくる度に、私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。彼女の欲望と狂気に染まった顔を見るだけでも恐ろしい吐き気と恐怖がこみ上げてくるのに、それを向けられるシュテルはどれほど辛いだろうか。シュテルの顔は青ざめ、体は小さく震えていた。
その姿を見て、私はついシュテルを庇うように前に飛び出る。魔法も使えない私ができることなんてないに等しい。それでもこれ以上この女の狂気をシュテルに受けさせてはならないと思った。
ベルナデッタはもはや私など眼中にないのか「私のシュテル」と繰り返しながらゆっくり近付いてくる。どうする。どうしたらいい。私自身も恐怖で上手く頭が働かない。せめてでもシュテルが逃げる時間があればいい。捨て身覚悟で彼女に突進でもしてみるか。いや、落ち着け。もっといい方法があるはずだ。
大きく息を吸って深呼吸する。たとえ魔法の使えない子供でも、今シュテルが頼ることができるのは私だけだ。私がしっかりしなくてどうする。振り返ると、酷く怯えた様子のシュテルと目が合った。その目を見ると、不思議と私の中の恐怖心は消えていった。ただこの子を安心させたい、そう思った。
「大丈夫よ」
この状況に相応しくない穏やかな笑みを浮かべてシュテルの頭を優しく撫でる。シュテルも驚いたのか震えを止め、宝石のような赤い瞳で私を見上げる。
「私の…、私のシュテルに触れるなぁぁッ‼‼」
叫びながら襲い掛かって来るベルナデッタに反応が遅れて、避けきれずナイフが少し私の髪を切る。しかし次の瞬間また足が動かなくなる。糸が先ほどのように私の足に絡んでいたのだ。
「ふふ…頭が悪い子ですねぇ…また同じ手にかかっちゃうなんて」
笑いながらベルナデッタは私の腕をギュゥっと掴み上げた。力加減などしていないのだろう。子供の細い腕を、まるで水に濡れた雑巾を絞るかのように力を入れて締め付けた。
あまりの痛さに声が漏れる。しかしベルナデッタはそんな私の様子など気にも留めずに激昂する。
「この汚らわしい手が!私のシュテルの頭に触れた‼なんて醜い…こんなモノが存在するなんて‼」
ベルナデッタがナイフを振り上げる。そのまま手首を切り落とされそうな勢いに肝が冷える。見ていられなくて思わず目を閉じてしまう。
しかし、次に聞こえたのはナイフの肉を切る音ではなく、聞きなれた、けれど酷く恐ろしい声だった。
「おい」
その声を聴いた瞬間ゾクッと途轍もない寒気が背中に走った。ベルナデッタなんかとは比較にならないほど、身の凍り付くような恐怖だった。例えるならば、自身より圧倒的に格上の存在が現れたような……。
カラン、と音が響く。床に落ちていたのはベルナデッタが握っていたはずのナイフだった。
「お前…確かシュテルの乳母のベルナデッタとかいったか?私の姉弟にいったい何をしている?」
コツ、コツ、と扉の方から歩いてくる音が聞こえる。ベルナデッタの顔は先ほどの狂気に満ちた様子はなく、ただ恐怖に歪んでガクガクと大きく体を震わせていた。力が緩んでいるうちに私の腕を掴んでいる手を振り払う。しかしベルナデッタはそれを気にする様子もなく、ただ声の主に怯えていた。
「質問に答えろ。喋ることもできないならその喉は…焼いても構わないよな?」
ベルナデッタの胸倉を掴み、鋭く冷めた青い瞳で彼女を射抜く。ベルナデッタはもう「え、あ、その」などとしどろもどろになった返答しかできていないようだった。部屋の中に重い緊張感が走る。しかし今世で既に二度目となる光景に、私の心は少しだけ落ち着いていた。
――怖すぎるでしょ、お姉様。
自分の冷静な部分が落ち着いたツッコミを入れる。さすがに室内だし、奴隷商人のような容疑がはっきりとしている犯罪者相手ではないからか、前のようにすぐに相手を燃やすことはしないようだ。しかしベルナデッタは再起不能と思われるほどに怯えている。それに対して怒りが収まらない様子で問い詰めるお姉様を見ると、なんだかやり過ぎではないかと被害者ながらに感じてしまう。
「ミティア様!」
そんな空気が張り詰めた部屋に飛び込んでくる高い声に、私は思わず安堵のため息をついた。半泣きになりながら私のもとへ駆け寄ってくるアンナに、私は努めて明るい声をかける。
「よくやったわね、アンナ」
「どこがですかぁぁ!わた、わだしが遅かったせいで、ミティア様がお怪我をぉぉ‼」
そう言われて、ベルナデッタに掴まれた腕を確認してみると、確かに力を込められた部分が青くなり痣になっていた。あれだけ強く掴まれれば当然だろう。むしろ、血を流すことにならなくてよかったと私は逆にほっとしていた。
「……怪我?」
しかしその考えは甘かったとすぐに思い知る。ゆらりとこちらを振り返ったお姉様を見て、私はつい「ヒッ」と声が出た。私の腕の痣をじっと見つめて、ベルナデッタに向き直る。そしてその冷えた青い瞳はだんだん炎のように赤くなり――。
「ってお姉様ストップ!場所を考えて!もう十分正当防衛になったのよ‼」
私はそう必死に叫ぶ。さすがに火事を起こされるのはごめんだ。相手を睨んで再起不能にすることを正当防衛というのかは知らないが、とにかく止めなければと思った。その気持ちが伝わったのかお姉様は瞳を青色に戻して言う。
「アンナ、二人のことを頼む。聞きたいことは山ほどあるが…とりあえず私はコイツを連れていく」
……連れて行くってどこへ?まさか地獄にじゃないよね?
先ほどから何故かベルナデッタを心配する自分に驚きつつ、アンナに顔を向ける。
「……心配かけてごめんなさい。今思えば、私も冷静じゃなかったわ」
「……本当ですよ、とっても心配したんですからね?急に部屋を飛び出して行かれて…わけがわからなかったけど嫌な予感ばかりして、ミティア様が心配で心配で…うぅっ」
アンナの目から涙がぼろっとこぼれてくる。私は謝りながら彼女を宥めた。アンナは泣いて文句を言いながら私の足に絡んだ糸を取ってくれる。なんというか……泣き虫だけど、器用でたくましい子だなと思いながら私は今日のことを思い返した。
シュテルが書いたという悪意に塗れた手紙が、別の者によって作られたものだと気付いた時、私は激しい怒りと焦燥感に駆られた。そのため一応アンナに「私の帰りが遅かったらお姉様を呼んで図書館かシュテルの部屋に来て欲しい。お姉様がいなかったら近くにいる兵士や騎士でもいい」とだけ伝えてすぐに部屋を飛び出して行ったのだ。全てが私の勘違いという可能性もあるし、あまり周りに迷惑をかけたくなかったので一人で確認しに行ったわけだが……結局みんなに迷惑をかけてしまった。
最初からお姉様に相談して二人で行けば、私はここまで危険な目に遭わなかったし、シュテルもあんなにおぞましいものを見ることはなかっただろう。私はシュテルの方を見る。シュテルは目を潤ませて、少し赤く腫れさせていた。彼は前世でも今世でもずっと大人びていたが、それでもまだ子供だ。私より小さな体で人からの悪意を受けても、ずっと泣き声一つ上げずに堪えて生きていたのだろう。
前世では幼い頃からベルナデッタの酷い執着に耐え、成長してからも私の悪行に耐え忍んできた。大切な人まで奪われてもずっと……。
不安がこもったシュテルの目を見つめる。今までこんな目を見たことはなかった。怒り、悲しみ、諦め、憎悪、嫌悪、絶望……そんな感情のこもった目は見てきたが、不安で仕方ないといったような、子供らしい目は初めて見た。しかしそれはシュテルが見せないようにしていただけなのだろう。
当然だ。敵である私に弱みなど見せるわけにもいかないし、見せたくもなかったはずだ。シュテルはそうやって子供の頃から自分の感情を抑えてきたんだ。
私は無意識に心の奥から声を出していた。
「シュテル……ごめんね」
シュテルが目を丸くする。アンナも驚いているようだった。私は前世のことを含め、私の勝手な判断で危険に晒したこと、強がっていたのに全くシュテルを守れなかったことへの謝罪だった。しかしシュテルは納得のいかないように拳を握り締め、わなわなと震えていた。
「なんで、姉様が謝るんですか……?全部、僕のせいなのに。僕が黙ってアイツの言いなりになっていたから、こんなことになったんだ」
信じられないというようにシュテルが言う。やっぱり優しい子だ、今のシュテルを見て強くそう思った。そんな気持ちが溢れてしまったのか、私はシュテルに微笑んでいた。そんな私を見てシュテルはカッとしたように、今までで一番大きな声を出す。
「怒ってくださいよ!僕のせいでこうなったのだと!そうでもされないと、僕は……後悔してもしきれない。あと数秒でも早かったら、一生残る傷を背負うことになっていたんですよ……」
だんだんと声が小さくなっていく。怒っているのに縋っているような、儚い声だった。
「怒る必要なんてどこにもないわ。あなたは何も悪くない。私はただ、もっと上手くやれたんじゃないかと思っただけよ。もっと安全で、穏便に終わらせる方法がね」
「だからっ、それもこれも全部僕のせいで――」
「でもね」
私は優しくシュテルの手を握る。
「それでも……自分勝手な考えかもしれないけど、今日シュテルを助けることができたならとても嬉しいの。たとえ大きな怪我をしても、それでシュテルが助かるなら、その怪我は私のこの上ない誇りになったわ」
「……なんで、僕なんかにそこまで」
訳が分からないと言った様子で困惑するシュテル。私は思わずまた笑ってしまう。だって普段あんなに頭が良いのに、こんな簡単なことがわからないなんて、可愛くてしょうがないじゃないか。
「決まってるじゃない。あなたが大切な家族だからよ」
その瞬間、シュテルの赤い瞳が宝石のように輝いた。
「私だけじゃないわ、お母様もお姉様も、みんなあなたが大切なのよ。それにあの日大庭で話してみて、私はとてもあなたが好きになったの」
嘘じゃない。私よりずっと賢くて私より小さいこの子は、一見無口で近寄り難そうに見えて、とても暖かくて優しい子だった。前世で見ることができなかった、負の感情からではないいろんな表情を見せてくれた時、私は心の底から嬉しかった。だからこそシュテルが私のことを嫌っていると聞いた時、本当にショックだったのだ。
それほどまでに大切な存在となったシュテルが、自分なんかと己を卑下するのは嫌だ。だから、伝えよう。少し気恥ずかしいけど。たとえ頭が良くなくても、魔法の才能なんかなくても、シュテル自身が自分は周りにとって素晴らしい存在なんだと気付いてほしいから。
「シュテル……愛しているわ」
ばっとシュテルが抱き着いてくる。決壊したように溢れてくる彼の涙につられて、私も少し泣きそうになる。声を押し殺して泣いているこの子を心底愛おしいと思う。
シュテルが今まで受けるはずだった愛を、これから少しずつ送りたい。お姉様のようにさらっとはできないかもしれないけど、私なりの想いを伝えていきたいのだ。前世で犯した罪の償いをするという気持ち以上に、シュテルが大切でどうしようもなくなっていた。
シュテルが幸せを掴むまで…私は必ず彼を守っていこう。
ふと横を見ると、シュテルが私を助けてくれた時に生やした植物の中で、赤いサルビアが咲き誇っていた。
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