香の向こうに君がいる

たたらぎ

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第5話

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兵馬は無我夢中で駆けていた。

「朝峯様が、いないんです」

耳の奥で、女中の声が何度も反響する。

焼けるように熱い胸に、冷たい風が肺を刺した。
香女の目を盗んで消えたという。逃げた? あの誇り高い子が? ありえるだろうか。
違う。きっと理由がある。きっと…――

誰も彼もが朝峯を探していた。
屋敷はざわめきに満ち、行き交う使用人たち、遠くで上がる呼び声、開け放たれた障子が風に打たれて鳴る。
これだけ探して見つからないのなら、もう敷地の外だろうか。
いや、朝峯は生まれてこの方敷地の外を出たことがない。ましてや裸足でどこまで行けるというのか。

となると、屋敷の裏手にある林の中だろうか。
兵馬は白鷹邸の構図を頭に浮かべながら思考を巡らせる。

その時、風が吹き、甘い香りが鼻を掠めた。
兵馬にしか気づけないほど薄い、しかし確かにそこにある、甘い香り。

「朝峯様…」

兵馬は思わず声が漏れる。

香を道しるべに歩く。不安定で、今にも消えそうな香りだが、歩みを進めるごとにほのかに強さを増していく。

たどり着いたのは、忘れられたように建つ古い納屋。
板壁は雨に黒ずみ、戸口には蔦が絡みついている。長年誰にも使われていないはずのその戸がほんの少し、開いていた。

兵馬は掌を戸にかけ、ゆっくりと引いた。軋む音が闇を裂き光が一本差し込む。

―ここにいる

中はひどく湿っており、土とカビのにおいが鼻をつく。しかしそれすら押しのける香の匂いに兵馬は確信を持った。

目を凝らし辺りを見回す。
使われることのない廃材。役目を終え無造作に積まれた農具。梁から吊るされ風に揺れる蜘蛛の巣。そのどれもが埃を被り、ここにあった長さを語っている。

そして、その埃を消すような後が点々と続いているのに気付く。足跡だ。
兵馬は目でそれを追うと…――いた。

壊れかけの箪笥の裏。その場所に似つかわしくない、綺麗な白が覗いている。
いつも朝峯が訓練で着ている着物だ。

兵馬はゆっくりと歩を進める。
一歩踏みしめるたびに、床に積もった埃が逃げる。

箪笥の裏を覗き込めば、小さく丸まった背があった。
膝に顔を埋め、耳を塞ぐように両腕を抱えて震えている。その姿はまるで獣から逃げ延びた小動物のようだった。

「朝峯様…」

兵馬の声に、背が跳ねる。
恐れるように振り向いたその顔は涙と恐怖に濡れていた。

「あさみ、」
「来ないでッ!」

叫んだ声は裏返り、伸ばした手から逃れるようにもう進めない奥へ必死に足をばたつかせる。
動くたびに空気が乱れ埃が舞う。その姿があまりに痛々しくて、兵馬は思わず顔を歪めた。

朝峯にとって兵馬は味方ではない。
いや、きっともう目に映るすべてが敵なのだろう。

「朝峯様。ここを出ましょう…」
「いやだ!!」

空気を切り裂くような叫び声。今までの拒絶とは全く違う、必死に己を守ろうとする叫び。

朝峯が声を上げれば呼応するように香が広がる。
それは、朝峯本人の意思によるものではない。器として、逃れることすらできず、牢のように、この子を縛る香。

普通の子ならまず香ることのないその香。ここまで纏うようになるまで朝峯はどれほどの寂しさを、孤独を重ねてきたのだろうか。ぎゅっ、と兵馬の胸が痛んだ。

「で、出たら、また香を吸わされる!
 そうしたら、ぼくが…ぼくが、消えちゃう…」

掠れた声が続く。小さな肩が震え、嗚咽がこぼれる。

「そんなのいやだ……こわいよ…」

隠し続けていた本音と涙が、ぼろぼろと溢れ出す。
この子は、ずっと隠していた。耐えようとしていた。
“器”となる恐怖に。

もうとっくに気付いていた。この子が器になる恐怖を抱えていることを。誰にも言わず、ただ一人で耐えていることを。
気付いていながら押し付けていた。白鷹家としての誇りを、この小さな子ひとりに。

「おまえも、ぼくを人として見ていないんだろ」

涙に濡れた虚ろな瞳。突き刺すようなその問いに、兵馬は言葉をなくした。

―そんなことは、

言えなかった。自分が器を守るため、朝峯の従者となったことをよく理解しているからだ。
言葉を返さなかった兵馬に朝峯は失望するように笑う。

「いい子にしても、悪い子にしても、誰もぼくのことなんか見てくれない」

冷ややかに吐き出される言葉。

「みんなきらい…みんな……」

あぁ、あの夜の「きらい」の意味がようやく分かった。
この子は自分自身を必死に守ろうとしていたのだ。
何度も何度も救いを求め、その度に裏切られ、傷付いてきたのだ。
誰かの優しさに心を開きかけた時、それは“器”に対する優しさだと知り、絶望に落とされる。
昨日みかんを受け取った際、「……それって、ぼくが…」と言いかけた真意もそれなのだろう。

この子は最初からおれを試していた。朝峯として見つめてくれる人物か。差し伸べた手を握ってくれる人物か。
そして判断した、器としてしか見ない他の人間たちと同じであると。

必死に藻掻くこの子の声に耳を傾けることができなかった。
追い詰められ、壊れる寸前になるまで正面から向き合うことができなかった。
今更になってこの事実に打ちのめされた。

小さく丸まり、泣き続ける朝峯。
逃げることも、抗うことも出来ないと理解している。
自分の存在価値を嫌というほど理解ができる賢い子だからこそ、これから身に降り注ぐ強制的な変化に怯えていたのだろう。

おれは一体、何を守ろうとしている?

白鷹家に繁栄をもたらす器か?
当主から下された命令か?
家の誇りという虚像か?

ただ命令に従い、影として生き続けた男の心臓が鳴り響く。

影で凍てついた身体に熱い血を巡らせるように。
己の意思さえ隠し続けた壁を打ち壊すように。

兵馬は大きく肺を膨らませる。
はじめて、息を吸った気がした。

「朝峯様」

ゆっくりと朝峯の前に跪く。
声に反応し、朝峯は小さく顔を上げるが、その表情には諦めさえ見えた。

「わたしは貴方の従者です」
「…うそ。器の従者でしょ」
「先ほどまでは、そうでした」

よく分からない、と言いたげに眉を寄せる朝峯。

「今この時から、私にとって大切なのは家でも命令でもありません。
 あなたです。白鷹朝峯です」

兵馬の声に、言葉に朝峯は真っ直ぐと、目の前の人物を見つめる。
瞳が大きく開き、震える。

朝峯を射抜く兵馬の瞳にもう迷いはなかった。
しっかりと、どっしりと、すべてを背負う覚悟を持った男が朝峯の目の前にいた。

それでも朝峯はハッと意識を戻して首を振り、騙されないと言いたげに兵馬を睨む。

「そ、そんなの、ぼくを従わせたいだけのうそでしょ。
 もどったら、どうせ、どうせ…ッ」
「でしたら…」

兵馬は懐から袋を取り出した。
朝峯にあげようと思って買ったかりんとうだ。
袋を開けて、中身が見えるように差し出せば、優しく甘い黒糖の香りが広がる。

「だめっ、怒られる……」

ごくりと喉を鳴らす朝峯。必死で否定しようとするも、久方ぶりに見る甘味に目が離せないでいる。

「えぇ、そうかもしれません
 でも…」

兵馬は袋から一つ取り出し口含んだ。
カリ、表面の黒糖が弾け、兵馬の咀嚼音が忘れられた納屋に響く。
少しの後、すべて飲み込んだ兵馬は微笑んだ。

「黙っていれば、誰もそんなこと知らない」

さぁ、と促すように袋を傾ける。
朝峯は何度も兵馬と袋を見比べながら震える手でかりんとうを一つ、取った。
そして意を決したように口に放り込む。
ぼりぼり。確かに噛みしめるのが音と、動く頬で分かった。
やがて唇が緩み、淡い笑みが滲んだ。甘さを感じた顔だった。

「…おいしい」

食べ終えた朝峯は、目を伏せて小さく呟いた。
「もっとどうぞ」と言うように、兵馬は袋を向け続ける

「怒らないの?」

言いつけを守らず食べた甘味。
その言葉でそれだけこの少年が抑圧された中で生きているのか分かる。
兵馬は安心させるように、しかし自然に微笑んで見せた。

「とんでもございません。我々は共犯です」
「きょうはん?」
「えぇ、同じ秘密を持った仲間、ということです」

だから言いません。
最後まで言わずに兵馬は朝峯に袋を手渡せば、確かな重みのある小さな袋が朝峯の手に乗った。

「どうして……どうして…?
 ぼく…へいまに嫌なこといっぱい言ったよ?」
「過ぎたことです」

そう言うと兵馬は居直る。

「隼瀬兵馬(はやせひょうま)、
 あなたのために、この身を捧げましょう」

それは「隼瀬兵馬」という名を持った男の誓いの言葉。

“器”という未来から逃れることはできない。
だが、その道を和らげることはできるはずだ。

それを作るのは己の役目だ。

「……じゃ、じゃあ、ぼくを、ちゃんと見てくれる?」

小さな声がだんだんと震え、言葉が詰まる。

「えぇ」
「急にいなくなったりしない? ひとりにしない!?」
「えぇ、しません。誓います」

ぼとり、と朝峯の手から袋が落ちる。
大粒の涙を流し、朝峯はしゃくり上げた。

それは、彼にとってようやく得られた安寧だった。
欲しくてたまらなかった、「器」ではなく、一人の人間として、「白鷹朝峯」として見てくれる人が、ついに現れたのだ。

ずっと抱えていた孤独、不安、恐怖。
それらすべてを押し流すように、涙が止まらなかった。

そっと抱き寄せれば素直に包まれる朝峯。
兵馬の腕の中で香るのは幽香房によって植え付けられた甘い香。しかしそれだけではない、身を隠そうと必死に走った時に掻いた汗の匂い、堪えきれず流す涙の匂い。
決して器ではない、白鷹朝峯という一人の少年が温かさと共に、確かに存在していた。



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