ガンダルヴァの城のごとく(長編版)

さんかいきょー

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シューニャとザキと

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 ガンダルヴァ国の北方に位置するアワド藩に、メール山という山が在る。
 さして大きい山ではない。
 山道も整備されており、2時間もあれば麓から山頂まで徒歩で簡単に到達できる。
 ちょっとした伝説はあっても、さほど神聖な山ではない。猟師や村人が狩りや山菜取りに頻繁に出入りしている。
 しかし、山頂に雲がかかると──メール山は禁足地となる。
 山門は閉ざされ、神官の家系の者だけが立ち入りを許される。
 メール山の頂に雲がかかると、必ず“上”から落ちてくるからだ。
 もう何百年も前から決まって、“上”から落ちてくるのだ。
 その日も、メール山には朝から雲がかかっていた。
 ただ一つ、いつもと違うのは──真っ黒な雲であったこと。
 そして──それは“上”から落ちてきた。
 それは声も上げず、もがきもせず、ただあるがままに落下を受け入れていた。
 生も死も関係ない。元から生があるのかすらも分からない。仮に死するとして、それは無から生じたものが無に還る、自然の理なのだろう。
 だが、地表との衝突の寸前、それは自然と受け身を取っていた。
 メール山の頂には、開けた場所がある。
 そこだけ木は切り取られ、岩は除けられ、代わりに砂が厚く敷かれて、大きな網が仕掛けられている。
 受け身と仕掛けの二つによって、それは落下による死を免れた。
 砂を転がって衝撃を逃がし、網に捕まって、それはようやく停止した。
「おお、きよったか」
 男の声がした。
 それが声の方向を見ると、異様な光景が広がっていた。
 二人の男が対峙している。
 かたや褐色の肌をした、若作りの男。
「おお、いやだいやだ。客人が落ちてきたというのに……」
 肩をすくめて、おどけている。
 対するは、刀を振り回す上半身裸、禿げ頭の巨漢。
「だからザキよ! ソレを渡せと言うておるんじゃあ!」
 語気荒く、巨漢は鞭のようにしなる二刀を振り乱している。
 空裂音が威嚇するように鳴り響き、銀色の刀身が光を乱反射していた。
 ザキと呼ばれた若作りの男は薄く笑いながら、一定の間合いを保っていた。
「そなた、立てるかな?」
 ザキが声をかけると、それはすっ……と流れるような動作で立った。
 体幹にズレのない、まっすぐな立ち方だった。
「ほう、その身のこなし……」
 ザキは尋常ならざる何かを感じた。
「そなた……アレをどう見る?」
 ザキは、二刀の鞭剣を振り回す巨漢に対する感想を求めた。
 それは巨漢の方に目を向けると、虚ろな表情のまま口を開いた。
「鞭のごとき奇なる得物だが……威嚇以上の意味はない。戦場(いくさば)では邪魔になるだけ……。武術ではなく大道芸の類と見る」
「はははは! 聞いたか、ラーマよ! おぬしのソレは大道芸だとよ!」
 ザキは大声で、巨漢のラーマを煽るように言った。
 ラーマは遠目にも分かるほどに禿げ頭を真っ赤にした。
「おい! 腕の一本でも斬り落としてやろうか、そこの!」
「おいおい、太守さまはコレをご所望ではなかったのかな?」
「天からの客人が使えるかどうか、俺が見定めでやるというんだ!」
 頭に血が上ったラーマは、更に鞭剣の速度を上げてジリジリと迫ってくる。
「ま、このように……そなたは天上からの果実と思われておる。そなたが甘いか辛いかを、あやつは知りたがっておるのだ。甘い果実なら、ここの太守に献上しようとな」
 ザキは、落ちてきたばかりの男に簡潔に事情を説明した。
 そう──それは男だった。
 乱れた黒髪、傷痕の残る左瞼、薄汚れた異国の僧衣、歳の頃は30半ばの、筋肉質の男。
 肌の色は薄く、ガンダルヴァの人間でないことは明らかだった。
 男は無表情だったが、己に迫りくるラーマの剣を見て、俄かに変化が顕れ始めた。
「剣……剣か」
 ぼつり、と呟く。
 男の周囲の大気が、蜃気楼のように揺らいだ。錯覚ではない。明らかに一瞬、ぐらりと揺れていた。
 ザキは厭な気配を感じた。
「んー……?」
 何か……とてつもなく厭な予感がした。
 武芸者、兵法者の勘とでもいうべきか。
 ザキは大山が崩れるような予兆を感じ、それと知らず麓で暴れる子供を避難させるための一計を案じた。
「わしは兵法を齧っておってな。頭に血の昇った阿呆に効く薬も持っておるのじゃ」
 ザキは懐から小さな袋を取り出すと、ポイとラーマに向けて投げつけた。
 袋は鞭剣に触れるや切り裂かれ、中に入っていた黄色い粉末が周囲に拡散した。
「むほっ! なんじゃこりゃぁ……ザッ……ザキィィィィィィ! うおおおおおおお!」
 粉末を吸いこんだラーマは両目を抑え、呼吸困難になって転倒した。
「アレの中身は料理に使う辛味の粉じゃよ。クマでも魔物でも暫くは動けん。なので……この隙に逃げる!」
 ザキは男の手を取って、一目散に山道を駆け下りた。
 暫く走って、ラーマを完全に撒いた頃には、男から異様な気配は消えていた。
 かなりの距離を走ったというのに、男に呼吸の乱れはなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……そなたの身のこなし、武芸者のそれじゃな?」
 息を切らすザキの言葉に、男は答えなかった。
「名はなんと?」
 男は黙していた。
 無表情のまま口を結んで、暫くしてから
「名は……執らわれであると思う」
 ぼそり、と奇妙なことを言った。
「ふむ」
 ザキは興味深そうに腕を組んだ。
「確かに、名は自己を定義する呪縛であろうな。だが形ある限り──」
「そうだな。執らわれがあるから、俺は人の形をしている」
 つくづく、妙なことを言う男だった。
 寺で行う問答のようでもあり、ザキは興味を惹かれた。
「人間というのは、生きている限り……何かに執らわれるものじゃ」
「俺の名前なぞ……どうでも良い」
「しかし無名というのもな」
 ザキは首をぐぅーーっと横に倒して、名もなき男の顔を見た。
「無名とするのも芸がなし。そなたのことは、シューニャと呼ぼう」
「シューニャとは」
「虚ろなもの、欠けたもの、空しきもの。在るようで無く、無いようで有るもの」
 ザキの説明に何か感じるものがあったのか、男は虚ろな目でどこかを見ていた。
「色即是空……」
 聞き馴れない異国の言葉は譫言のようで、ザキは敢えて意味を問わなかった。
 問答もまた、この男──シューニャにとっては、呪縛の因であろうから。
 ザキとシューニャが山を降りて、山門を出る頃には、日が暮れていた。
「わしの実家はそなたのようなモノを世話する神官の家でなぁ。本当なら今日は妹が来るはずじゃった。だが具合が悪いと言うんで、わしが代理で来て……まあ結果的に妹が来なくて良かったというワケじゃ」
 黙っているのも何なので、ザキは自分の身の上を話していた。
「わしは若い頃は中央で軍人をやっておったが……何もかもアホらしくなって職を辞して郷里に戻って、それから20年近く隠者のごとく生きておる。この歳で妻も子もおらぬハズレ者じゃて。ははははは」
 ザキは今年で42歳になるが、独身だった。
「だから10歳も離れた妹にも嫌われとる。顔を合わせる度に『私は子供が三人もいるのに、兄(あに)さまはいつまでもガキみたいに! 無責任だ!』ってな。はははは!」
 血脈を残すのも神官の仕事も全て妹に押し付けた結果、実家からは勘当されていた。
 それがザキの望みであった。
「わしの住む小屋は寺領の内にあってな。そなたも暫くはそこに住むと良い」
 歩きながらザキが話しかけても、シューニャは口を閉ざしていた。
 天から落ちてきたばかりのモノは、意識が曖昧なことが多い。
「シューニャよ。そなたは自分の国のことは憶えておるか? ここに落ちてくる前にいた世界のことを」
 ザキの後を歩くシューニャは、暫く黙っていたが、十歩ほど進んで口を開いた。
「憶えているような気もするし、忘れているような気もする」
「奇なことを申すな? そなたのような物言いをする者は初めてじゃ」
「ここに落ちる前は夢を……見ていたような気分だ」
 日の暮れた青い小道の途中で、シューニャは幽鬼のごとく呟いた。
 面白いことを言ったので、ザキの歩みが俄かに止まった。
「そなたが元いた世界が夢ならば、ここは夢から醒めた現ということかの?」
「夢という割には生々しく、辛く、あらゆる執着に縛られた世界であったように……思う」
「ならば、そこもまた現。ここもまた現。極楽ではないということじゃの」
 メール山から、びゅう……と生温い夕風が吹き下ろした。
 土臭い風に顔を背けながら、ザキは続けた。
「そもそも、じゃ。煩悩から解放された極楽浄土というのは、魂が天に昇るものではないか? だが、そなたは落ちてきた。そなたのようなモノは、元いた世界で死してこちらに落ちてくるという。ならば、ここは──」
「地獄なのかも知れんな」
 シューニャの答は的を射ているように思えた。
 とんだ皮肉にザキは吹き出した。
「ぶははは! 左様。上も下も同じように人間が生に執らわれ、悩み苦しむのなら現の続き。すなわち地獄じゃ。ま、神話では死後に地下に落ちるともいうがの」
 問答に気を良くして、ザキはまた歩き始めた。
「わしは、そういった執らわれから逃げ続けている。故に、隠者をしておる」
「地位も名誉も捨てて、か」
「そう。だから金にも女にも縁がない。税を払うのもイヤだから、寺の中で世話になっておる。貧乏だが楽な生き方じゃて。情愛も欲望も全てが執着。呪いと同じじゃ……」


 寺につく頃には、すっかり夜になっていた。
「ここはタジマ寺という」
 ザキは懐から鍵を取り出した。
 寺の門は閉ざされているが、ザキは鍵を使って勝手口からの出入りが許されていた。
 シューニャは、門の様式を見て目を細めていた。
「タジマ……」
 シューニャは、譫言のように呟いた。
 ザキは、それが気になった。
「ここは異国の様式の寺じゃ。ガンダルヴァ国は石造りの寺ばかりじゃが、ここは木と瓦で作られておる。タジマ様という……そなたと同じような方が300年ほど前に建立されたのじゃ」
 ザキは勝手口を開けると、シューニャを招いた。
「タジマ様は武人であると同時に、宗教家でもあった」
 シューニャは無言で勝手口をくぐり、タジマ寺の内に入った。
 タジマ寺は、竹園の寺院だった。
 竹林の道を進みながら、ザキはタジマ寺の歴史を語った。
「タジマ様が来られる前は、ガンダルヴァは多くの藩国に分かれていた。そこにタジマ様は武と精神の道を弘流され、このアワド地方の太守に力添えして、ガンダルヴァを統一された。この寺は、タジマ様の武道の精神を今に伝える聖域というワケじゃの」
 寺内には、木造の修行場があった。
「ここは道場じゃ。朝になれば僧侶たちが棒や竹刀を振って修練に励む」
「竹刀……」
「竹を割って、獣の皮で包む用具じゃな。木刀よりも安全に試合が出来る。これもタジマ様が伝えた道具らしい」
 シューニャは道場を見ていた。
 その顔は無表情のようだが、ザキは僅かな感情の揺らぎを感じた。
「そなた……タジマ様の名を知っているのか?」
「いや……」
「だが、そなたは──」
 言いかけて、ザキは口を噤んだ。
「否……どうでも良いことじゃの」
 あまり自分から他人に深入りするのは、慎みのない行為に思えて自重した。
 ザキは道場の前から離れて、シューニャもその後に続いた。
 少し歩くと、派手な装飾の御堂に差し掛かった。
 月明かりを反射する金箔の堂の奥には、色鮮やかな等身大の立像があった。
 ガンダルヴァの素材で再現された異国の甲冑をまとった、いかつい顔の武人像だった。
「アレがタジマ様じゃよ」
 ザキはシューニャがどう反応するか試した。
 タジマ様に縁がある者なら、何か自発的に話してくれるかも知れないと……少し期待していた。
「タジマ様は、ここに落ちてきたのは30歳ほどで……80歳まで生きたそうじゃ」
 ザキはシューニャの表情を伺った。
 無表情のまま、御堂の奥のタジマ像をじっと見上げていた。
「暫く……ここに残る」
「左様か。では、わしは奥の庵にいるでな……」
 ザキはシューニャを御堂に残して、静かに立ち去った。
 足音を立てず、気配を消して、遠くの声に耳を澄まして。
 虫の鳴き声、風に擦れる木々の音、それらに混ざってシューニャの小さな独白が、かすかに聞こえてきた。
「なぜ……タジマなどと名乗った……。こんな所まで来て……名前だの……剣だのに……執らわれて……あんたは……満足したのかよ……」
 感情を殺した声が、微かに震えているように聞こえた。
 嘆きのような、怒りのような、あるいは愚かな身内に呆れ果てるような──複雑に入り混じった木霊を、ザキは確かに聞いたのだった。
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