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執着と剣と
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シューニャが落ちてきてから、一ヶ月が経過した。
彼は放っておくと一日中、寺内の竹林で野禅をしている。
ザキが食事を持っていっても食べた気配がなかった。
たまにザキと散歩をすることもあるが、道場からは距離を取っていた。
「なにゆえ?」
ザキが問うと、シューニャは虚ろに俯いて
「心が剣に執らわれてしまう」
とだけ言った。
タジマ寺は、タジマ刀と呼ばれる片刃の刀剣の製造販売を収入源としている。
ある時、ザキとシューニャは、鍛冶場で作られた刀の納品に所に出くわしたことがあった。
「この刀もタジマ様が伝えたものでのう。一万人斬っても切れ味が落ちぬ! というのをウリにしておる。ま、実際に一万人も斬った奴はおらんがの」
ザキは冗談めかして言ったが、シューニャを見て言葉を失った。
タジマ刀を見るシューニャの目は、飢えた獣に似ていた。
飢え果て、乾き果て、肉と水を得るためなら親すらも殺しかねない無言の殺気が放たれていた。
「おぬし……」
ザキが声をかけると、シューニャは我に返って顔を背けた。
「ああいうものは……御免こうむる」
それ以来、シューニャは二度とタジマ刀のある場所に近づかなかった。
ザキは、暫くは寺の外に出ないようにと、シューニャに忠告した。
「アワドの藩都は目と鼻の先。ラーマの奴がお前を狙っとるからの。ま、ほとぼりが冷めるまでは……な」
初日に会った鞭剣の使い手のことだ。
ラーマと遭遇すれば、否応なくシューニャは剣に触れてしまうだろう。
「あの鞭剣は、本来は盾を持つ相手に使う武器じゃ。使い手もまた盾を持って戦う。なのに、ラーマの奴は我流で二刀を使うようになった」
ザキは「はあ……」と溜息を吐いた。
「二刀の鞭剣なぞ虚仮脅しに過ぎぬ。だが、脅しで相手が引くのなら血を見ずに済む。その分別がつけば、ラーマも一皮剥けるのだが……己の力量も分からずに剣を振り回していては、遠からず死ぬだろう」
「やけに……気をかけるのだな」
ぼそり、とシューニャが口を開いた。
「ラーマというの……お前に剣を向けた相手だろう」
「人生は短い。それを理解せず貴重な時間を無駄に浪費する若者とは……哀しいものであろう」
ザキは憂いを帯びた表情で、寺内の竹林に目を向けた。
青々とした若竹が、風にさやさやと音を立てて揺れていた。
「このアワド藩の太守は……はっきり言ってしまえば暗君でな。悪政を働く傍ら、ラーマのような見せかけの武芸者を集めて、民草を威圧しておる」
生臭い俗世の話題を切り出して、ザキの表情が沈んだ。
「100年前にガンダルヴァは共和制になった……が、人間が統治する以上は必ず腐敗する。選挙で選ばれるはずの議会はいつしか世襲化し、一握りの貴族ずれどもが牛耳る寡頭制に成り下がった。この地方だけの話ではない。今やガンダルヴァ全てが……そんな具合じゃ」
ザキは、政治の腐敗と圧制の始まりを感じていた。
今はまだ末端の緩やかな膿でも、やがて国という体全体が腐っていく。
そして、天下は再び乱れるだろう。
シューニャは敏感に、歴史の常を憂れうザキの心の内を見抜いた。
「お前が軍を辞めた理由も……それか」
「まあな。わしの人生を俗物のために浪費したくないし、連中から給料を貰って……自分まで腐っていくのは我慢ならなかった」
ザキは「はっ」と自嘲気味に笑った。
「わしはハズレ者じゃ。世渡りが出来なかった。世間に自分を合わせられんで……何もかも捨てて隠者になるしかなかったのじゃよ」
ザキの笑いは、風にカサカサと揺れる林の青竹のようだった。
俗世の一切を空しく思う、厭世の笑みだった。
アワド藩の腐敗の臭気は、寺内にも漂ってきた。
数日後の日中、藩の役人がタジマ寺にやってきた。
恫喝のためか、チンピラのような男が二人ついていた。
「そろそろ、寺領の扱いについてお話したいのですが~?」
役人は、慇懃無礼な態度を隠そうともしなかった。
揉み手で下手に出ているようだが、目はニヤニヤといやらしく笑っている。
遠目に見ていたシューニャは、馴染みのある生臭さを感じた。
「意を通すのに用いるは、権力の盾と暴力の矛……。どこの世界でも同じか」
虚ろに呟き、ただ状況を傍観する。
幸か不幸か、役人の従えた二人のチンピラは帯刀していなかった。
役人の相手をしている小坊主は威圧され、制止することもできない。
「そ、そういったことは僧正様でないと……」
「あ~~ん? いつ来ても僧正様はお留守ですよねえ! お話ができないなら、勝手に検地させていただきますよォ!」
「そ、それは困ります……」
「こっちも仕事なんですよ! 太守様の! ご命令でね!」
役人が小坊主を押しのけた。
倒れそうになった小坊主の背中を、誰かの手が支えた。
ザキだった。
「これは良くないのう、お役人?」
ザキは小坊主に代わって、役人の前に立ちはだかった。
その目には役人以上の慇懃無礼さと、不敵な波が漂っていた。
「この寺は古来より、尊い身分の方が終の住まいにしてきた場所。そこを踏み荒らすというのは……果たして本当に太守様のご意志なのかな?」
「そ、そうだが……?」
役人が一瞬、口ごもったのをザキは見逃さなかった。
「それはそうと──わしの知り合いの議員から聞いた話では最近、徴税官の徴税ノルマが引き上げられたそうですな?」
「う……」
「徴税額は確かに太守……いや知事と議会が決めたのでしょう。しかし、たとえば──そう、たとえばの話だ。ノルマの達成が困難な徴税官が、自分の担当地域にある……本来なら非課税の寺に難癖をつけて、強引に徴税しよう、なんてこともあるのではないですかな?」
「うう……」
ザキの指摘は、図星だったようだ。
役人の青ざめた表情が全てを物語っている。
「さっきからゴチャゴチャうっせぇぞオッサンよ?」
役人の後から、二人のチンピラが歩み出た。
首を斜めにして、自分たちより背の低いザキを見下ろしている。
「別に力づくで通っちまっても良いんだけどよ~?」
「お役人様が優しいから、今まで我慢してたのわかんねぇ? なぁ?」
チンピラ二人はザキを威圧するが、当のザキは涼しく……いや、冷たく微笑んでいた。
「ほう? 力づく? 本当に良いのですかな?」
ザキは笑みをたたえたまま、役人の顔を見た。
「わしは荒事は嫌いでのう? こちらからは手を出す気はない。だが、荒事になったら……面倒なことになるんではないかのう?」
立場は逆転していた。
ザキは役人を脅迫している。
太守からの正式な命令も受けず、個人的な都合で寺領に踏み入り、更に暴力沙汰を起こしたとなれば責任問題になる。
役人はごくり、と唾を飲み込んで
「いや……いい。私の勘違いだった。この寺は……もういい」
ザキから目を背けて、くるりと踵を返した。
「帰るぞ、お前たち!」
役人は当惑するチンピラ二人の袖を掴んで、門の外へ出ていった。
事を収めたザキは、シューニャの方に振り返った。
「ま、今日のところはこんな感じじゃな」
肩をすくめて、ザキは笑った。
世捨て人を気取っていながらも、ザキは世慣れしている。
なによりも、ザキは微笑みの下に冷たい殺気を隠していた。
「仮に荒事になっていたら……お前はどうしていた」
シューニャの問いを、ザキはへらへらと笑って誤魔化した。
「さてのう? わし陰者じゃからのう~?」
それから一週間が経過した。
ザキは世捨て人の隠者であろうとしているが、彼の願いとは裏腹に──人望のある男だった。
「ザキ先生! なにとぞ御指導を、お願いいたします!」
タジマ寺の坊主たちは、ザキに武術の教導を乞うことが多かった。
ザキは渋々ながらも承諾して、彼らに槍の使い方を教えた。
「全員で横一列に並んで槍を構えよ。そのまま一直線に突っ込む。これだけでいかな武芸者とて一貫の終わりじゃ。簡単じゃろう?」
槍衾──集団戦において無類の強さを誇る基本戦術だ。
もっぱらザキが教えるのは個人の技量を高める武術ではなく、短期間の修練でも集団で敵を圧倒できる戦術だった。
「ザキの先生! 北方の連中が魔消石を売りにきたようだが言葉がわかんねぇ! 通訳してくだせぇ!」
町から若い商人たちがザキを頼って来ることも多かった。
「おうおう、分かった分かった」
そうして寺から出ていって、夕方に帰ってくると──
「ああ、たまらん……。若い連中の相手は堪えるわ……」
ザキはヘトヘトに疲れていた。
シューニャは疲労の原因を聞くつもりはなかったが、ザキを送ってきた若い商人が勝手にアレコレと喋った。
「ザキ先生には色々と稽古をつけてもらってるんでさぁ」
「稽古……?」
「へぇ。街道には今でも盗賊がいますし、山ん中には魔物もいる。護身のために、俺たちゃ兵法を仕込んでもらってまさあ。先生は兵法の本も書いてまして、他の藩でも評判がいいんでさあ」
物言いからして、剣術などを習っているワケではなさそうだった。
危機を回避するための逃走術、交渉術。そして有利に戦うための兵法、集団戦法などであろう。
「ザキ先生には昔から世話になってまさぁ。魔物退治も、先生の兵法で何百匹もいる群れを駆除できましたし、一番すごかったのは山賊に出くわした時で──」
軽薄な商人は、聞きもしないのに自慢げにザキの武勇伝を語った。
「──で、山賊の親分ってのが、でっかい刀を持ったクマみたいな大男でしてねえ! そいつが刀をブンブン振り回して『ナマスにされてぇのかよオッサン?』とイキリ散らしてたのを、ザキ先生はタジマ刀の短剣だけでスイッ……とやっちまったんですよ」
「スイ……」
「へえ。何が起きたのかは良く見えなかったんすが、気付いた時には山賊は手首を切り落とされてまして……」
「身の丈に合わぬ大刀を振り回しても、相手に付け入る隙を与えるのみ……ということだ」
ぼそっ、とシューニャは呟いた。
商人は意味を理解できず「へぇ?」と首を傾げた。
シューニャは詳しく説明をする気はなかった。
己が剛力に慢ずる愚か者が力量の差を読めずにザキを侮り、更には無駄な動きで大刀を振り回して威嚇をしたことで致命的な隙を作り、間合いの内に踏み込まれて小手を打たれたというわけだ。
ガンダルヴァの一般的な剣は質量で叩き切るタイプの刀剣である。それを筋力で振り回そうとすれば技の起こり──即ち事前動作が大きくなる。
しかも大刀ならば、起こりは尚のこと大きい。
ある程度の剣者が見れば避けるのは容易く、先の先を取るも、後の先を取るもまた容易。
剣の大きさや体格など、見せかけの虚仮脅しに過ぎず──
ザキは最小にして最速の初撃で相手の戦闘能力を奪い、二の太刀でトドメを刺したのだろう。
常人が目視できぬほどの速度で……。
シューニャは、ザキの剣境の深さを知った。
非力な陰者を装っているが、ザキは恐るべき技量の持ち主なのだと。
そして、商人たちが兵法の教導を受けている本当の理由も察した。
日が落ちて、月がメール山の上に昇り、夜になって──シューニャは音もなくザキを訪ねた。
ザキは寺内の井戸にいた。
水浴びを終えたばかりのザキは、上半身を拭っていた。
引き締まった褐色の筋肉と、加齢を感じさせない肌が水滴を弾く。
明らかに……萎れた隠者の肉体ではなかった。
シューニャが半ば実戦の匂いに気を取られていると、ザキは目を丸くした。
「なんじゃ、珍しいのう。そなたも汗を拭いにきたか?」
とはいえ、ザキはシューニャが汗をかいた姿など見たことがなかった。
相変わらず、シューニャは生者とも死者ともつかない虚ろな表情をしていた。
シューニャの意識は現に戻り、ザキの顔に視線を移した。
「ザキ、お前は隠者だというが……他人と関わってばかりだ」
「うむ……それこそが、わしの執らわれじゃの」
ザキは溜息がちに、月夜の空を見上げた。
「わしは……連中を放っておけんのじゃ」
「お前が兵法を教えなければ、あいつらは──」
「出来もしない戦争を起こして……無駄死にじゃのう」
ザキは、井戸端の石に腰を下ろした。
「俗世とは、ままならぬものよ。商人連中は税への不満。坊主どもは寺の自治権を奪おうとする太守への怒り。ぐつぐつと煮え立った鍋は、もう溢れる寸前じゃ」
「反乱を起こすつもりか」
「乱とは、起こすのではなく起きるものじゃ。世の必然よ。イナゴが畑を食い荒らすように。魔物が山野に生じるように。台風が吹くように」
「自然(じねん)の理というなら、なぜお前が関わる」
「わしという人間が情に流され、加勢するのもまた自然の一部。わしが俗世から逃れ切れぬのも……運命なのじゃろうな」
月光と闇の狭間で……ザキは悟りか、あるいは諦めのように語った。
「本当に人の世から逃れたいのなら……山奥に篭って仙人にでもなれば良いのじゃ。わしは結局、それも出来なんだ。若い連中も、妹も、この国も……見捨てられなんだ」
「やはり……ここは地獄のようだな」
執着から逃れようとしても、人としての情がある限り業に縛られる。
シューニャは、業の呪縛に嫌気がさしたように目を逸らした。
ザキはシューニャの顔を見返した。
虚ろなる異界の男──その無表情の奥に、どうしようもない煩悶の蒼炎を感じた。
「シューニャ。そなたは一体、どんな人生を送ってきたのだ?」
「曖昧……なのだ」
「まだ記憶がハッキリしないと?」
「いや……。ずっと僧院の中で暮らしていたような気もする。諸国を放浪していたような気もする。全てを縛られた人生の中で、剣だけが自由だったような気もする。地獄のような炎の中で、誰かと斬りあっていたような気もする。全てが他人の人生のような、夢と幻が混ざり合って……俺という人間は最初から存在しなかったような気さえするのだ」
シューニャの物言いは起きながらに夢の中を生きる、病者のようであった。
しかしザキは……シューニャが狂っているとは思えなかった。
彼は放っておくと一日中、寺内の竹林で野禅をしている。
ザキが食事を持っていっても食べた気配がなかった。
たまにザキと散歩をすることもあるが、道場からは距離を取っていた。
「なにゆえ?」
ザキが問うと、シューニャは虚ろに俯いて
「心が剣に執らわれてしまう」
とだけ言った。
タジマ寺は、タジマ刀と呼ばれる片刃の刀剣の製造販売を収入源としている。
ある時、ザキとシューニャは、鍛冶場で作られた刀の納品に所に出くわしたことがあった。
「この刀もタジマ様が伝えたものでのう。一万人斬っても切れ味が落ちぬ! というのをウリにしておる。ま、実際に一万人も斬った奴はおらんがの」
ザキは冗談めかして言ったが、シューニャを見て言葉を失った。
タジマ刀を見るシューニャの目は、飢えた獣に似ていた。
飢え果て、乾き果て、肉と水を得るためなら親すらも殺しかねない無言の殺気が放たれていた。
「おぬし……」
ザキが声をかけると、シューニャは我に返って顔を背けた。
「ああいうものは……御免こうむる」
それ以来、シューニャは二度とタジマ刀のある場所に近づかなかった。
ザキは、暫くは寺の外に出ないようにと、シューニャに忠告した。
「アワドの藩都は目と鼻の先。ラーマの奴がお前を狙っとるからの。ま、ほとぼりが冷めるまでは……な」
初日に会った鞭剣の使い手のことだ。
ラーマと遭遇すれば、否応なくシューニャは剣に触れてしまうだろう。
「あの鞭剣は、本来は盾を持つ相手に使う武器じゃ。使い手もまた盾を持って戦う。なのに、ラーマの奴は我流で二刀を使うようになった」
ザキは「はあ……」と溜息を吐いた。
「二刀の鞭剣なぞ虚仮脅しに過ぎぬ。だが、脅しで相手が引くのなら血を見ずに済む。その分別がつけば、ラーマも一皮剥けるのだが……己の力量も分からずに剣を振り回していては、遠からず死ぬだろう」
「やけに……気をかけるのだな」
ぼそり、とシューニャが口を開いた。
「ラーマというの……お前に剣を向けた相手だろう」
「人生は短い。それを理解せず貴重な時間を無駄に浪費する若者とは……哀しいものであろう」
ザキは憂いを帯びた表情で、寺内の竹林に目を向けた。
青々とした若竹が、風にさやさやと音を立てて揺れていた。
「このアワド藩の太守は……はっきり言ってしまえば暗君でな。悪政を働く傍ら、ラーマのような見せかけの武芸者を集めて、民草を威圧しておる」
生臭い俗世の話題を切り出して、ザキの表情が沈んだ。
「100年前にガンダルヴァは共和制になった……が、人間が統治する以上は必ず腐敗する。選挙で選ばれるはずの議会はいつしか世襲化し、一握りの貴族ずれどもが牛耳る寡頭制に成り下がった。この地方だけの話ではない。今やガンダルヴァ全てが……そんな具合じゃ」
ザキは、政治の腐敗と圧制の始まりを感じていた。
今はまだ末端の緩やかな膿でも、やがて国という体全体が腐っていく。
そして、天下は再び乱れるだろう。
シューニャは敏感に、歴史の常を憂れうザキの心の内を見抜いた。
「お前が軍を辞めた理由も……それか」
「まあな。わしの人生を俗物のために浪費したくないし、連中から給料を貰って……自分まで腐っていくのは我慢ならなかった」
ザキは「はっ」と自嘲気味に笑った。
「わしはハズレ者じゃ。世渡りが出来なかった。世間に自分を合わせられんで……何もかも捨てて隠者になるしかなかったのじゃよ」
ザキの笑いは、風にカサカサと揺れる林の青竹のようだった。
俗世の一切を空しく思う、厭世の笑みだった。
アワド藩の腐敗の臭気は、寺内にも漂ってきた。
数日後の日中、藩の役人がタジマ寺にやってきた。
恫喝のためか、チンピラのような男が二人ついていた。
「そろそろ、寺領の扱いについてお話したいのですが~?」
役人は、慇懃無礼な態度を隠そうともしなかった。
揉み手で下手に出ているようだが、目はニヤニヤといやらしく笑っている。
遠目に見ていたシューニャは、馴染みのある生臭さを感じた。
「意を通すのに用いるは、権力の盾と暴力の矛……。どこの世界でも同じか」
虚ろに呟き、ただ状況を傍観する。
幸か不幸か、役人の従えた二人のチンピラは帯刀していなかった。
役人の相手をしている小坊主は威圧され、制止することもできない。
「そ、そういったことは僧正様でないと……」
「あ~~ん? いつ来ても僧正様はお留守ですよねえ! お話ができないなら、勝手に検地させていただきますよォ!」
「そ、それは困ります……」
「こっちも仕事なんですよ! 太守様の! ご命令でね!」
役人が小坊主を押しのけた。
倒れそうになった小坊主の背中を、誰かの手が支えた。
ザキだった。
「これは良くないのう、お役人?」
ザキは小坊主に代わって、役人の前に立ちはだかった。
その目には役人以上の慇懃無礼さと、不敵な波が漂っていた。
「この寺は古来より、尊い身分の方が終の住まいにしてきた場所。そこを踏み荒らすというのは……果たして本当に太守様のご意志なのかな?」
「そ、そうだが……?」
役人が一瞬、口ごもったのをザキは見逃さなかった。
「それはそうと──わしの知り合いの議員から聞いた話では最近、徴税官の徴税ノルマが引き上げられたそうですな?」
「う……」
「徴税額は確かに太守……いや知事と議会が決めたのでしょう。しかし、たとえば──そう、たとえばの話だ。ノルマの達成が困難な徴税官が、自分の担当地域にある……本来なら非課税の寺に難癖をつけて、強引に徴税しよう、なんてこともあるのではないですかな?」
「うう……」
ザキの指摘は、図星だったようだ。
役人の青ざめた表情が全てを物語っている。
「さっきからゴチャゴチャうっせぇぞオッサンよ?」
役人の後から、二人のチンピラが歩み出た。
首を斜めにして、自分たちより背の低いザキを見下ろしている。
「別に力づくで通っちまっても良いんだけどよ~?」
「お役人様が優しいから、今まで我慢してたのわかんねぇ? なぁ?」
チンピラ二人はザキを威圧するが、当のザキは涼しく……いや、冷たく微笑んでいた。
「ほう? 力づく? 本当に良いのですかな?」
ザキは笑みをたたえたまま、役人の顔を見た。
「わしは荒事は嫌いでのう? こちらからは手を出す気はない。だが、荒事になったら……面倒なことになるんではないかのう?」
立場は逆転していた。
ザキは役人を脅迫している。
太守からの正式な命令も受けず、個人的な都合で寺領に踏み入り、更に暴力沙汰を起こしたとなれば責任問題になる。
役人はごくり、と唾を飲み込んで
「いや……いい。私の勘違いだった。この寺は……もういい」
ザキから目を背けて、くるりと踵を返した。
「帰るぞ、お前たち!」
役人は当惑するチンピラ二人の袖を掴んで、門の外へ出ていった。
事を収めたザキは、シューニャの方に振り返った。
「ま、今日のところはこんな感じじゃな」
肩をすくめて、ザキは笑った。
世捨て人を気取っていながらも、ザキは世慣れしている。
なによりも、ザキは微笑みの下に冷たい殺気を隠していた。
「仮に荒事になっていたら……お前はどうしていた」
シューニャの問いを、ザキはへらへらと笑って誤魔化した。
「さてのう? わし陰者じゃからのう~?」
それから一週間が経過した。
ザキは世捨て人の隠者であろうとしているが、彼の願いとは裏腹に──人望のある男だった。
「ザキ先生! なにとぞ御指導を、お願いいたします!」
タジマ寺の坊主たちは、ザキに武術の教導を乞うことが多かった。
ザキは渋々ながらも承諾して、彼らに槍の使い方を教えた。
「全員で横一列に並んで槍を構えよ。そのまま一直線に突っ込む。これだけでいかな武芸者とて一貫の終わりじゃ。簡単じゃろう?」
槍衾──集団戦において無類の強さを誇る基本戦術だ。
もっぱらザキが教えるのは個人の技量を高める武術ではなく、短期間の修練でも集団で敵を圧倒できる戦術だった。
「ザキの先生! 北方の連中が魔消石を売りにきたようだが言葉がわかんねぇ! 通訳してくだせぇ!」
町から若い商人たちがザキを頼って来ることも多かった。
「おうおう、分かった分かった」
そうして寺から出ていって、夕方に帰ってくると──
「ああ、たまらん……。若い連中の相手は堪えるわ……」
ザキはヘトヘトに疲れていた。
シューニャは疲労の原因を聞くつもりはなかったが、ザキを送ってきた若い商人が勝手にアレコレと喋った。
「ザキ先生には色々と稽古をつけてもらってるんでさぁ」
「稽古……?」
「へぇ。街道には今でも盗賊がいますし、山ん中には魔物もいる。護身のために、俺たちゃ兵法を仕込んでもらってまさあ。先生は兵法の本も書いてまして、他の藩でも評判がいいんでさあ」
物言いからして、剣術などを習っているワケではなさそうだった。
危機を回避するための逃走術、交渉術。そして有利に戦うための兵法、集団戦法などであろう。
「ザキ先生には昔から世話になってまさぁ。魔物退治も、先生の兵法で何百匹もいる群れを駆除できましたし、一番すごかったのは山賊に出くわした時で──」
軽薄な商人は、聞きもしないのに自慢げにザキの武勇伝を語った。
「──で、山賊の親分ってのが、でっかい刀を持ったクマみたいな大男でしてねえ! そいつが刀をブンブン振り回して『ナマスにされてぇのかよオッサン?』とイキリ散らしてたのを、ザキ先生はタジマ刀の短剣だけでスイッ……とやっちまったんですよ」
「スイ……」
「へえ。何が起きたのかは良く見えなかったんすが、気付いた時には山賊は手首を切り落とされてまして……」
「身の丈に合わぬ大刀を振り回しても、相手に付け入る隙を与えるのみ……ということだ」
ぼそっ、とシューニャは呟いた。
商人は意味を理解できず「へぇ?」と首を傾げた。
シューニャは詳しく説明をする気はなかった。
己が剛力に慢ずる愚か者が力量の差を読めずにザキを侮り、更には無駄な動きで大刀を振り回して威嚇をしたことで致命的な隙を作り、間合いの内に踏み込まれて小手を打たれたというわけだ。
ガンダルヴァの一般的な剣は質量で叩き切るタイプの刀剣である。それを筋力で振り回そうとすれば技の起こり──即ち事前動作が大きくなる。
しかも大刀ならば、起こりは尚のこと大きい。
ある程度の剣者が見れば避けるのは容易く、先の先を取るも、後の先を取るもまた容易。
剣の大きさや体格など、見せかけの虚仮脅しに過ぎず──
ザキは最小にして最速の初撃で相手の戦闘能力を奪い、二の太刀でトドメを刺したのだろう。
常人が目視できぬほどの速度で……。
シューニャは、ザキの剣境の深さを知った。
非力な陰者を装っているが、ザキは恐るべき技量の持ち主なのだと。
そして、商人たちが兵法の教導を受けている本当の理由も察した。
日が落ちて、月がメール山の上に昇り、夜になって──シューニャは音もなくザキを訪ねた。
ザキは寺内の井戸にいた。
水浴びを終えたばかりのザキは、上半身を拭っていた。
引き締まった褐色の筋肉と、加齢を感じさせない肌が水滴を弾く。
明らかに……萎れた隠者の肉体ではなかった。
シューニャが半ば実戦の匂いに気を取られていると、ザキは目を丸くした。
「なんじゃ、珍しいのう。そなたも汗を拭いにきたか?」
とはいえ、ザキはシューニャが汗をかいた姿など見たことがなかった。
相変わらず、シューニャは生者とも死者ともつかない虚ろな表情をしていた。
シューニャの意識は現に戻り、ザキの顔に視線を移した。
「ザキ、お前は隠者だというが……他人と関わってばかりだ」
「うむ……それこそが、わしの執らわれじゃの」
ザキは溜息がちに、月夜の空を見上げた。
「わしは……連中を放っておけんのじゃ」
「お前が兵法を教えなければ、あいつらは──」
「出来もしない戦争を起こして……無駄死にじゃのう」
ザキは、井戸端の石に腰を下ろした。
「俗世とは、ままならぬものよ。商人連中は税への不満。坊主どもは寺の自治権を奪おうとする太守への怒り。ぐつぐつと煮え立った鍋は、もう溢れる寸前じゃ」
「反乱を起こすつもりか」
「乱とは、起こすのではなく起きるものじゃ。世の必然よ。イナゴが畑を食い荒らすように。魔物が山野に生じるように。台風が吹くように」
「自然(じねん)の理というなら、なぜお前が関わる」
「わしという人間が情に流され、加勢するのもまた自然の一部。わしが俗世から逃れ切れぬのも……運命なのじゃろうな」
月光と闇の狭間で……ザキは悟りか、あるいは諦めのように語った。
「本当に人の世から逃れたいのなら……山奥に篭って仙人にでもなれば良いのじゃ。わしは結局、それも出来なんだ。若い連中も、妹も、この国も……見捨てられなんだ」
「やはり……ここは地獄のようだな」
執着から逃れようとしても、人としての情がある限り業に縛られる。
シューニャは、業の呪縛に嫌気がさしたように目を逸らした。
ザキはシューニャの顔を見返した。
虚ろなる異界の男──その無表情の奥に、どうしようもない煩悶の蒼炎を感じた。
「シューニャ。そなたは一体、どんな人生を送ってきたのだ?」
「曖昧……なのだ」
「まだ記憶がハッキリしないと?」
「いや……。ずっと僧院の中で暮らしていたような気もする。諸国を放浪していたような気もする。全てを縛られた人生の中で、剣だけが自由だったような気もする。地獄のような炎の中で、誰かと斬りあっていたような気もする。全てが他人の人生のような、夢と幻が混ざり合って……俺という人間は最初から存在しなかったような気さえするのだ」
シューニャの物言いは起きながらに夢の中を生きる、病者のようであった。
しかしザキは……シューニャが狂っているとは思えなかった。
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お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
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