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将は雪中に別れを綴る
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俗世の汚濁は──火傷のように心身を長く苛む。
二年の宮勤めを終え、ザキはあっさりと職を辞した。
政府と軍の実権はほぼザキが掌握していたが、己の権力基盤を固めようとはしなかった。
議員と軍の綱紀粛正を行い、可能な限り政府を健全化し、民主的選挙の再開を見届けると
「悪しき歴史を繰り返さぬよう」
それだけ言い残して、ザキは議会を去った。
表向きの辞職理由は、加齢による持病の悪化ということになっていた。
一切の我欲のない水鳥のごとく清廉な出立に、人々はザキを称えた。
だが、ザキを知る者は本当の理由に察しがついていた。
彼は俗世に嫌気がさして、隠者の生活に戻ったのだと。
ザキは一切の見送りを断り、馬に乗って未明の早朝に城門を出た。
中央府の裏手にある、小さな搦め手門だった。
出立は誰にも伝えなかったが、一人だけザキの行動を読んだ男がいた。
「先生! ザキ先生!」
弟子のサハジだった。
彼は先日、ザキの後任として正式に軍の司令長官に就任した。
そんな男が、荷物を括り付けた馬に乗って、朝靄の中を駆けてきた。
「先生! 私もお供させてください!」
サハジは本気だった。
それを見て、ザキは大きな溜息を吐いた。
「あのなぁ……わしはお前が苦労せんようにお膳立てしてやったんじゃがのお」
「分かっております! 先生の代理として軍を指揮した実績があるからこそ、議会も私を司令長官として認めてくれました!」
「アビシャ殿との婚約もスンナリ通ったじゃろ?」
「反対する者など……おりませんでした。全てはザキ先生のおかげです!」
「そこまで分かっとんなら……帰れっ!」
ザキはしっしっとサハジを追い払って、馬の歩みを速めた。
サハジまで辞職しそうな勢いだったので、ザキは溜息交じりに首を振った。
「わしは心底、俗世が煩わしくなったのじゃよ。何もかもウンザリじゃ。クソくらえじゃっ」
ザキは、サハジにだけは本心を明かした。
「生臭い人付き合い、腹の探り合いも飽き飽きじゃ。いまさら嫁もガキもいらん。戦を起こした責任は取った。後はお前らの好きにしろ。もう知ったことかっ!」
駄々をこねているわけではない。
人の裏表を知り尽くしたザキは、最初から表舞台に立つ気はなかった。
ザキに責任を押し付け、苦労を与えてしまったのはサハジ達だ。
「それにな、病気というのもあながち嘘ではない。目は遠くを見るとボヤけるし、徹夜も辛くなった。あまり年寄りに……頼ってくれるな」
見た目は若いが、ザキの実年齢は四十も半ばにさしかかろうとしている。
ガンダルヴァ人の平均年齢は五十歳。
それを考慮すれば、ザキは老齢と言って良い。
サハジは何も言い返せず、沈んだ表情で馬を止めた。
朝靄の中に、ザキの乗った馬が消えていく。
「わしは……子は残せなんだが、お前という弟子を残せた。それが……唯一の慰めじゃよ」
ザキの声に、サハジがはっと顔を上げた。
「先生!」
もはやザキの姿は見えなかった。
地平線に太陽が顔を出し、光が朝靄に乱反射している。
サハジの視界は眩い光に埋め尽くされ、聴覚だけが師の叫びを聞いた。
「達者でなーっ! 我が弟子よ!」
夜と朝の曖昧な境界の彼方に、ザキは消えていった。
群青の空と赤い大地の間の現実にサハジは一人、取り残された。
その日はガンダルヴァに新政府が樹立して、ちょうど二年目の夏の朝だった。
ザキは故郷のアワド藩に帰って、再びタジマ寺で隠遁生活に入った。
当初は、ザキにタカりにくる親戚や友人がいたが──
「わしはもう金なんかないぞ?」
と、小銭もほとんど入っていない侘しい財布の中身を見せたり
「おうおう、若いころにわしを散々罵ったクソ野郎が掌大回転させてきやがったのぉ~? あそこの水車でも回してみっか? お?」
と、本気の言葉の暴力で殴り倒したり
「あ? 『ダンナと別れたい』だ? そんなことわしに言われても困るんだがのぉ~~? まあ、ハッキリ言わせてもらうとだな~、メスブタは死ねっちゅうこっちゃのぉ~~?」
と、二十年前に自分を捨てた幼馴染に唾を吐いて追い返したりと氷点下の対応を続け、半年後には誰も訪ねてこなくなった。
ザキは勝手に人々が作った英雄としてのイメージを破壊することで、俗世との縁を断ったのだ。
尤も、言ったことは全て本心なのだが──。
ザキは日中、寺内やメール山を散歩して過ごしていた。
傍から見れば老人の和やかな余生に見えたが、ザキはいつも何かの書物を持っていて、調べ物をしているようだった。
ある日、百年ぶりにタジマ寺の霊廟を開いて掃除をすることになった。
これはザキが言い出したことだ。
霊廟の地下に清掃具を持った僧たちがぞろぞろと入り、その中にザキもいた。
「ふん、タジマ様の棺……これもか」
かつてガンダルヴァ統一に寄与した異界の者は、天寿を全うして棺に収まったという。
その棺は、真っ青な氷のような石で出来ていた。
棺の表面に触れると、一気に体温の全てを奪われるような錯覚に、背筋がブルッと震えた。
「むうっ……矢張りか」
棺の放つ冷気に、ザキはある確信を得た。
更に半年が経ち──
ガンダルヴァ国に、暗雲が立ち込め始めた。
シューニャという災厄が、国境を越えてパールシーから帰ってきたのだった。
季節と共に風雨が巡り、嵐が吹くように、人の形の災いが還ってきた。
対処法はザキが文書にして残してきたので、各藩はそれに従った。
シューニャは災害と同じであるから、距離を取って避難せよと。
文字にすれば簡単だが、現実はそうはいかない。
シューニャの進路上にある全ての村、町、そして都市からの一斉避難は困難を極めた。
人々は混乱し、世は混沌とし、経済も政治もひび割れていった。
ついには禁忌を破り、シューニャに戦いを挑む者まで現れたが、屍を増やすだけに終わった。
新政府は、藁にもすがるを通り越し、崖っぷちで枯草を掴む気持ちでザキという英雄に頼った。
「ふ……お前ら、わしをなんだと思っておるのだ?」
寺内にある庵を訊ねてきた使者たちに、ザキは呆れ笑いを浮かべた。
「わしはただの人間じゃ。嵐を鎮める方法など知らぬ。ただ、安全に逃げる方法を教えてやった。後はお前たちの仕事じゃ。英雄の幻にすがるのは止めろ。愚かしきことよ……」
どうすることも出来ないし、どうする気もなかった。
「俗世の揉め事などわしの知るところではない。去れ」
ザキは使者を冷たくあしらって追い返した。
それから更に数か月が過ぎて──冬になった。
ガンダルヴァ国は更に乱れた。
秋ごろにシューニャの通った地域では収穫が出来ず、家も畑もなくした避難民がアワド藩都の路上にも溢れていた。
北方のテングル山脈からの雪風が舞う頃、再びザキの庵に使者がやってきた。
「ザキ先生……お久しぶりです」
かつて副官だったサハジだった。
今のサハジは、中央政府の要職に就いている。
そんな男が、自ら出向いてきたのだ。
「先生! どうか知恵をお貸しください!」
サハジはザキの庵に上がって、深々と頭を下げた。
もうどう仕様もないから、ザキを頼ってきたのだ。
「フン……テメーらで考えろっつーの……」
ザキは厭世の感たっぷりにぼやいた。これが本音であり本性だ。
俺を愛さなかった世界など好きになるわけがない。
俺を軽んじ、否定した連中のために命をかけろだと? いったい何様のつもりなのか。
俺を徹底的に見下し、黙殺し、老いるまで放置していた人間どもなど全員死ねば良い。
国も、故郷も、人も、俺を捨てた。
だから俺もお前らを捨てた。
俺はお前らが嫌いだから、お前らも俺を嫌ってくれていい。
慕うな。頼るな。鬱陶しい!
お願いだから、もう静かに放っておいてくれ。
これ以上、誰も恨みたくないから……。
ザキは心底そう思う。
賢人だ英雄だと称えられようが、心の奥底にあるのはシンプルな怒りと失望だ。
かつてザキを無視した連中に賞賛されても、見返してやったなどと良い気分になるわけがない。
更に世の中が厭で厭で、人間を憎らしく思うだけだった。
しかし──そんな嫌気とは相反する情もまた、ザキの本心なのだ。
ザキは卓上に筆を置いた。
卓上には本として纏められた真新しい書物と、使い古された筆があった。
「──アビシャ殿とは、結婚したのか」
ふいに、ザキは別の話題を振った。
「はい。昨年……私が婿入りいたしました」
サハジは頭を下げたまま答えた。子が親に、気恥ずかしく報告するように。
ザキは小さく溜息を吐いた。子を思う親のように。
「名実ともにクリシュナ将軍の跡継ぎというわけか。めでたいことじゃ。子供は……出来たのか」
「まだ……生まれてはおりません。妻の胎内におります」
「そうか……」
しみじみと、溜息を吐く。
ザキは一冊の本を書き終えていた。
紙面に綴った文字の墨が乾いているのを確認して、ザキは本をそっと閉じた。
「顔を上げて、近う寄れ」
言われて、サハジは膝を擦ってザキの近くに寄った。
ザキは、先程の本をぐいっと差し出した。
「この本をくれてやる」
「それは? もしや、シューニャに勝つ術が……」
「兵法書ではない。戒めの書じゃ。人間が人間である限り、どんな国家でも三代目で腐敗する。俗世の呪縛からは決して逃れられぬ。驕れる者よ、いつかくる滅びの日を忘れるな──という年寄りの説教本じゃ」
とん、とザキは本の角をサハジの腹に押し付けた。
仮にも新政府の高官をしているサハジは困惑した。
「しかし……我々は旧政府とは違います!」
「みんなそう言う。わしらの先祖、何千、何万人と繰り返し言ってきた。『俺たちはあいつらとは違う』『同じ失敗はしない』と。何を根拠にそう言う?」
「人は失敗から学ぶ生き物です! それは……ザキ先生に教えて頂きました!」
「そして忘れる生き物でもある。お前らは苦労を知る世代だ。その次の世代も親の辛苦は分かるだろう。だが孫の世代になれば、そんなものは昔話だ。知ったことじゃない。親の経験なぞ子には引き継がれんのだよ。歴史など都合よく忘れるし改竄される。人の世とは忘却と滅びと再建の繰り返しでかない。神話の時代からな」
久方ぶりの弟子との議論で、ザキは熱く饒舌だった。
俗世への辟易、人の愚かしさへの失望が滲んでいた。
「我が国も五百年前は一つの大きな帝国だった。それが腐敗し、瓦解し、数多の藩王国に分かれた。それが三百年前に再統一され、また腐敗し、わしらに打倒された。こんな歴史があるのに、人は何も学んでおらん」
「では本なぞ……」
「意味はない。戯れでしかない。わしという人間の、ちっぽけな遺言でしかない」
突き放すようなザキの物言いに、不穏な言葉が混じった。
「遺言……? 先生! いったい何を!」
「フン……」
ザキは厭世の感たっぷりに皮肉の鼻息を吐くと、すっと立ち上がった。
「妹がな……寺に来た」
「妹御様が……?」
「お前らと同じことを言ってきおった。災厄を鎮めてほしい……とな」
サハジに背を向けて、ザキが肩を落とした。
縁側に向かい、庵の外を眺める。
ザキが霜降りの竹林に向けた表情は、サハジからは見えなかった。
「わしはもう俗世との縁は切った。妹が何を言おうと聞く義理はない……んじゃがのう」
竹林が風に揺らいだ。
肩を落としたザキが、「はぁぁぁ……」と苦悶の溜息を吐いた。
情と無情の狭間で悩む、哀れな俗人の呻き声だった。
「あやつめ……自分の子を……姪と甥たちを連れてきおった」
「はい?」
「わしの情に訴えかけてきおったんじゃよ! 押し売りの手口なんじゃよ、子連れは……!」
言われて、サハジは得心した。
確かに子連れで物売りに来られると断り難い。流石にザキの妹といったところか。
「まあ、妹に悪気はなかったんじゃろうて。妹は言っておった。『この子たちが生きられる世の中がほしい』と。姪は……わしの辛苦など知らずに、ニコニコと笑ってな。無邪気に……わしの膝の上で寝転がって……」
「先生……」
「末の姪は……まだ三才じゃ」
ザキは、地に視線を落とした。
自分の影を見る。
決して逃れられない、人の情という呪縛を幻視する。
それを捨てれば、きっと今よりも強くなれるのだろう。
今よりもずっと、楽になれるのだろう。
だが死ぬまで後悔し続けることになる。
人生の苦しみも幸せも知らぬ幼子と、まだ太陽すら知らぬ胎内の赤子から未来を奪うなど……ザキには出来なかった。
「わしも結局……俗世からは逃れられなかった、ということじゃ」
ザキの声は、諦めのようであり、覚悟のようでもあった。
その日、ザキは別の本を持って寺の奥院に向かった。
香木の煙が漂う奥院には、法師が三年前と変わらぬ姿で待っていた。
「殿下、お別れに参りました」
ザキは床に坐して、深く頭を下げた。
法師はザキの真意を悟って、暗澹たる面持ちになった。
「お前だけ……私を置いて行ってしまうのか」
「それが運命でございます。山に入って仙人にもならず、半端に俗世と関わり続けた者の……」
ザキは脇に抱えていた一冊の本を差し出した。
「世の乱れを抑える術を書き残しました。象徴として王が君臨し、人心の拠り所となる。しかし統治はせず……という政治の形でございます。立憲君主制と名付けました。先人の知恵を、私なりに解釈したものです」
「私に……還俗しろと言うのか」
ザキは頷いた。
「五百年前にガンダルヴァを統治していた帝国は滅んでも、その血筋は未だに強い権威を持っております。伝統と血統……これほど人心掌握に使いやすいものはありません」
「だから太守を選ぶ選挙でも血統が重んじられる。結果が、とっくに滅んだ帝国の子孫同士の跡目争いだ。そんなもののために身内が憎み合い、兄弟が殺し合う……。バカげている。何もかもバカげている! 私は……それがイヤになった」
法師は頭を抱えた。
彼は、アワド藩に残る帝国の血脈の末端にいた。
しかし政治の世界に嫌気がさし、権力争いから自ら身を引き、このタジマ寺に篭った。
結果としてアワド藩は暗愚の太守に支配され、ガンダルヴァを揺るがす反乱の遠因になった。
自らの選択の正否に、法師は今も苦しんでいる。
そして、市井の現状から目を背け続けている。
「殿下にも順番が回ってきたのです。どうか衆生を救うためにお立ちくださいませ。殿下は年に一回か二回、議会で挨拶したり、大臣を任命したり……少し我慢するだけで良いのです」
ザキの射抜くような真っ直ぐの視線の先で、法師は顔を覆って悲嘆に暮れていた。
これから人の上に立つ者としては、あまりにも頼りない。
法師が現実から逃げようと耳を塞ぐ素振りを見せたので
「それが、私の最後の願いでございます」
ザキは少しだけ呪いの言葉を刻み付けた。
今生の別れを終えたザキは立ち去り、奥院には法師と本だけが残された。
「あぁ……やりたくない。やりたくないというのに……。ザキめ……! これでは逃げられんではないか! 私はもう逃げられんではないか……っ!」
運命に対面させられた痛苦と、ザキとの永訣の悲しみに焼かれる男の咽び声が、いつまでも響いていた。
二年の宮勤めを終え、ザキはあっさりと職を辞した。
政府と軍の実権はほぼザキが掌握していたが、己の権力基盤を固めようとはしなかった。
議員と軍の綱紀粛正を行い、可能な限り政府を健全化し、民主的選挙の再開を見届けると
「悪しき歴史を繰り返さぬよう」
それだけ言い残して、ザキは議会を去った。
表向きの辞職理由は、加齢による持病の悪化ということになっていた。
一切の我欲のない水鳥のごとく清廉な出立に、人々はザキを称えた。
だが、ザキを知る者は本当の理由に察しがついていた。
彼は俗世に嫌気がさして、隠者の生活に戻ったのだと。
ザキは一切の見送りを断り、馬に乗って未明の早朝に城門を出た。
中央府の裏手にある、小さな搦め手門だった。
出立は誰にも伝えなかったが、一人だけザキの行動を読んだ男がいた。
「先生! ザキ先生!」
弟子のサハジだった。
彼は先日、ザキの後任として正式に軍の司令長官に就任した。
そんな男が、荷物を括り付けた馬に乗って、朝靄の中を駆けてきた。
「先生! 私もお供させてください!」
サハジは本気だった。
それを見て、ザキは大きな溜息を吐いた。
「あのなぁ……わしはお前が苦労せんようにお膳立てしてやったんじゃがのお」
「分かっております! 先生の代理として軍を指揮した実績があるからこそ、議会も私を司令長官として認めてくれました!」
「アビシャ殿との婚約もスンナリ通ったじゃろ?」
「反対する者など……おりませんでした。全てはザキ先生のおかげです!」
「そこまで分かっとんなら……帰れっ!」
ザキはしっしっとサハジを追い払って、馬の歩みを速めた。
サハジまで辞職しそうな勢いだったので、ザキは溜息交じりに首を振った。
「わしは心底、俗世が煩わしくなったのじゃよ。何もかもウンザリじゃ。クソくらえじゃっ」
ザキは、サハジにだけは本心を明かした。
「生臭い人付き合い、腹の探り合いも飽き飽きじゃ。いまさら嫁もガキもいらん。戦を起こした責任は取った。後はお前らの好きにしろ。もう知ったことかっ!」
駄々をこねているわけではない。
人の裏表を知り尽くしたザキは、最初から表舞台に立つ気はなかった。
ザキに責任を押し付け、苦労を与えてしまったのはサハジ達だ。
「それにな、病気というのもあながち嘘ではない。目は遠くを見るとボヤけるし、徹夜も辛くなった。あまり年寄りに……頼ってくれるな」
見た目は若いが、ザキの実年齢は四十も半ばにさしかかろうとしている。
ガンダルヴァ人の平均年齢は五十歳。
それを考慮すれば、ザキは老齢と言って良い。
サハジは何も言い返せず、沈んだ表情で馬を止めた。
朝靄の中に、ザキの乗った馬が消えていく。
「わしは……子は残せなんだが、お前という弟子を残せた。それが……唯一の慰めじゃよ」
ザキの声に、サハジがはっと顔を上げた。
「先生!」
もはやザキの姿は見えなかった。
地平線に太陽が顔を出し、光が朝靄に乱反射している。
サハジの視界は眩い光に埋め尽くされ、聴覚だけが師の叫びを聞いた。
「達者でなーっ! 我が弟子よ!」
夜と朝の曖昧な境界の彼方に、ザキは消えていった。
群青の空と赤い大地の間の現実にサハジは一人、取り残された。
その日はガンダルヴァに新政府が樹立して、ちょうど二年目の夏の朝だった。
ザキは故郷のアワド藩に帰って、再びタジマ寺で隠遁生活に入った。
当初は、ザキにタカりにくる親戚や友人がいたが──
「わしはもう金なんかないぞ?」
と、小銭もほとんど入っていない侘しい財布の中身を見せたり
「おうおう、若いころにわしを散々罵ったクソ野郎が掌大回転させてきやがったのぉ~? あそこの水車でも回してみっか? お?」
と、本気の言葉の暴力で殴り倒したり
「あ? 『ダンナと別れたい』だ? そんなことわしに言われても困るんだがのぉ~~? まあ、ハッキリ言わせてもらうとだな~、メスブタは死ねっちゅうこっちゃのぉ~~?」
と、二十年前に自分を捨てた幼馴染に唾を吐いて追い返したりと氷点下の対応を続け、半年後には誰も訪ねてこなくなった。
ザキは勝手に人々が作った英雄としてのイメージを破壊することで、俗世との縁を断ったのだ。
尤も、言ったことは全て本心なのだが──。
ザキは日中、寺内やメール山を散歩して過ごしていた。
傍から見れば老人の和やかな余生に見えたが、ザキはいつも何かの書物を持っていて、調べ物をしているようだった。
ある日、百年ぶりにタジマ寺の霊廟を開いて掃除をすることになった。
これはザキが言い出したことだ。
霊廟の地下に清掃具を持った僧たちがぞろぞろと入り、その中にザキもいた。
「ふん、タジマ様の棺……これもか」
かつてガンダルヴァ統一に寄与した異界の者は、天寿を全うして棺に収まったという。
その棺は、真っ青な氷のような石で出来ていた。
棺の表面に触れると、一気に体温の全てを奪われるような錯覚に、背筋がブルッと震えた。
「むうっ……矢張りか」
棺の放つ冷気に、ザキはある確信を得た。
更に半年が経ち──
ガンダルヴァ国に、暗雲が立ち込め始めた。
シューニャという災厄が、国境を越えてパールシーから帰ってきたのだった。
季節と共に風雨が巡り、嵐が吹くように、人の形の災いが還ってきた。
対処法はザキが文書にして残してきたので、各藩はそれに従った。
シューニャは災害と同じであるから、距離を取って避難せよと。
文字にすれば簡単だが、現実はそうはいかない。
シューニャの進路上にある全ての村、町、そして都市からの一斉避難は困難を極めた。
人々は混乱し、世は混沌とし、経済も政治もひび割れていった。
ついには禁忌を破り、シューニャに戦いを挑む者まで現れたが、屍を増やすだけに終わった。
新政府は、藁にもすがるを通り越し、崖っぷちで枯草を掴む気持ちでザキという英雄に頼った。
「ふ……お前ら、わしをなんだと思っておるのだ?」
寺内にある庵を訊ねてきた使者たちに、ザキは呆れ笑いを浮かべた。
「わしはただの人間じゃ。嵐を鎮める方法など知らぬ。ただ、安全に逃げる方法を教えてやった。後はお前たちの仕事じゃ。英雄の幻にすがるのは止めろ。愚かしきことよ……」
どうすることも出来ないし、どうする気もなかった。
「俗世の揉め事などわしの知るところではない。去れ」
ザキは使者を冷たくあしらって追い返した。
それから更に数か月が過ぎて──冬になった。
ガンダルヴァ国は更に乱れた。
秋ごろにシューニャの通った地域では収穫が出来ず、家も畑もなくした避難民がアワド藩都の路上にも溢れていた。
北方のテングル山脈からの雪風が舞う頃、再びザキの庵に使者がやってきた。
「ザキ先生……お久しぶりです」
かつて副官だったサハジだった。
今のサハジは、中央政府の要職に就いている。
そんな男が、自ら出向いてきたのだ。
「先生! どうか知恵をお貸しください!」
サハジはザキの庵に上がって、深々と頭を下げた。
もうどう仕様もないから、ザキを頼ってきたのだ。
「フン……テメーらで考えろっつーの……」
ザキは厭世の感たっぷりにぼやいた。これが本音であり本性だ。
俺を愛さなかった世界など好きになるわけがない。
俺を軽んじ、否定した連中のために命をかけろだと? いったい何様のつもりなのか。
俺を徹底的に見下し、黙殺し、老いるまで放置していた人間どもなど全員死ねば良い。
国も、故郷も、人も、俺を捨てた。
だから俺もお前らを捨てた。
俺はお前らが嫌いだから、お前らも俺を嫌ってくれていい。
慕うな。頼るな。鬱陶しい!
お願いだから、もう静かに放っておいてくれ。
これ以上、誰も恨みたくないから……。
ザキは心底そう思う。
賢人だ英雄だと称えられようが、心の奥底にあるのはシンプルな怒りと失望だ。
かつてザキを無視した連中に賞賛されても、見返してやったなどと良い気分になるわけがない。
更に世の中が厭で厭で、人間を憎らしく思うだけだった。
しかし──そんな嫌気とは相反する情もまた、ザキの本心なのだ。
ザキは卓上に筆を置いた。
卓上には本として纏められた真新しい書物と、使い古された筆があった。
「──アビシャ殿とは、結婚したのか」
ふいに、ザキは別の話題を振った。
「はい。昨年……私が婿入りいたしました」
サハジは頭を下げたまま答えた。子が親に、気恥ずかしく報告するように。
ザキは小さく溜息を吐いた。子を思う親のように。
「名実ともにクリシュナ将軍の跡継ぎというわけか。めでたいことじゃ。子供は……出来たのか」
「まだ……生まれてはおりません。妻の胎内におります」
「そうか……」
しみじみと、溜息を吐く。
ザキは一冊の本を書き終えていた。
紙面に綴った文字の墨が乾いているのを確認して、ザキは本をそっと閉じた。
「顔を上げて、近う寄れ」
言われて、サハジは膝を擦ってザキの近くに寄った。
ザキは、先程の本をぐいっと差し出した。
「この本をくれてやる」
「それは? もしや、シューニャに勝つ術が……」
「兵法書ではない。戒めの書じゃ。人間が人間である限り、どんな国家でも三代目で腐敗する。俗世の呪縛からは決して逃れられぬ。驕れる者よ、いつかくる滅びの日を忘れるな──という年寄りの説教本じゃ」
とん、とザキは本の角をサハジの腹に押し付けた。
仮にも新政府の高官をしているサハジは困惑した。
「しかし……我々は旧政府とは違います!」
「みんなそう言う。わしらの先祖、何千、何万人と繰り返し言ってきた。『俺たちはあいつらとは違う』『同じ失敗はしない』と。何を根拠にそう言う?」
「人は失敗から学ぶ生き物です! それは……ザキ先生に教えて頂きました!」
「そして忘れる生き物でもある。お前らは苦労を知る世代だ。その次の世代も親の辛苦は分かるだろう。だが孫の世代になれば、そんなものは昔話だ。知ったことじゃない。親の経験なぞ子には引き継がれんのだよ。歴史など都合よく忘れるし改竄される。人の世とは忘却と滅びと再建の繰り返しでかない。神話の時代からな」
久方ぶりの弟子との議論で、ザキは熱く饒舌だった。
俗世への辟易、人の愚かしさへの失望が滲んでいた。
「我が国も五百年前は一つの大きな帝国だった。それが腐敗し、瓦解し、数多の藩王国に分かれた。それが三百年前に再統一され、また腐敗し、わしらに打倒された。こんな歴史があるのに、人は何も学んでおらん」
「では本なぞ……」
「意味はない。戯れでしかない。わしという人間の、ちっぽけな遺言でしかない」
突き放すようなザキの物言いに、不穏な言葉が混じった。
「遺言……? 先生! いったい何を!」
「フン……」
ザキは厭世の感たっぷりに皮肉の鼻息を吐くと、すっと立ち上がった。
「妹がな……寺に来た」
「妹御様が……?」
「お前らと同じことを言ってきおった。災厄を鎮めてほしい……とな」
サハジに背を向けて、ザキが肩を落とした。
縁側に向かい、庵の外を眺める。
ザキが霜降りの竹林に向けた表情は、サハジからは見えなかった。
「わしはもう俗世との縁は切った。妹が何を言おうと聞く義理はない……んじゃがのう」
竹林が風に揺らいだ。
肩を落としたザキが、「はぁぁぁ……」と苦悶の溜息を吐いた。
情と無情の狭間で悩む、哀れな俗人の呻き声だった。
「あやつめ……自分の子を……姪と甥たちを連れてきおった」
「はい?」
「わしの情に訴えかけてきおったんじゃよ! 押し売りの手口なんじゃよ、子連れは……!」
言われて、サハジは得心した。
確かに子連れで物売りに来られると断り難い。流石にザキの妹といったところか。
「まあ、妹に悪気はなかったんじゃろうて。妹は言っておった。『この子たちが生きられる世の中がほしい』と。姪は……わしの辛苦など知らずに、ニコニコと笑ってな。無邪気に……わしの膝の上で寝転がって……」
「先生……」
「末の姪は……まだ三才じゃ」
ザキは、地に視線を落とした。
自分の影を見る。
決して逃れられない、人の情という呪縛を幻視する。
それを捨てれば、きっと今よりも強くなれるのだろう。
今よりもずっと、楽になれるのだろう。
だが死ぬまで後悔し続けることになる。
人生の苦しみも幸せも知らぬ幼子と、まだ太陽すら知らぬ胎内の赤子から未来を奪うなど……ザキには出来なかった。
「わしも結局……俗世からは逃れられなかった、ということじゃ」
ザキの声は、諦めのようであり、覚悟のようでもあった。
その日、ザキは別の本を持って寺の奥院に向かった。
香木の煙が漂う奥院には、法師が三年前と変わらぬ姿で待っていた。
「殿下、お別れに参りました」
ザキは床に坐して、深く頭を下げた。
法師はザキの真意を悟って、暗澹たる面持ちになった。
「お前だけ……私を置いて行ってしまうのか」
「それが運命でございます。山に入って仙人にもならず、半端に俗世と関わり続けた者の……」
ザキは脇に抱えていた一冊の本を差し出した。
「世の乱れを抑える術を書き残しました。象徴として王が君臨し、人心の拠り所となる。しかし統治はせず……という政治の形でございます。立憲君主制と名付けました。先人の知恵を、私なりに解釈したものです」
「私に……還俗しろと言うのか」
ザキは頷いた。
「五百年前にガンダルヴァを統治していた帝国は滅んでも、その血筋は未だに強い権威を持っております。伝統と血統……これほど人心掌握に使いやすいものはありません」
「だから太守を選ぶ選挙でも血統が重んじられる。結果が、とっくに滅んだ帝国の子孫同士の跡目争いだ。そんなもののために身内が憎み合い、兄弟が殺し合う……。バカげている。何もかもバカげている! 私は……それがイヤになった」
法師は頭を抱えた。
彼は、アワド藩に残る帝国の血脈の末端にいた。
しかし政治の世界に嫌気がさし、権力争いから自ら身を引き、このタジマ寺に篭った。
結果としてアワド藩は暗愚の太守に支配され、ガンダルヴァを揺るがす反乱の遠因になった。
自らの選択の正否に、法師は今も苦しんでいる。
そして、市井の現状から目を背け続けている。
「殿下にも順番が回ってきたのです。どうか衆生を救うためにお立ちくださいませ。殿下は年に一回か二回、議会で挨拶したり、大臣を任命したり……少し我慢するだけで良いのです」
ザキの射抜くような真っ直ぐの視線の先で、法師は顔を覆って悲嘆に暮れていた。
これから人の上に立つ者としては、あまりにも頼りない。
法師が現実から逃げようと耳を塞ぐ素振りを見せたので
「それが、私の最後の願いでございます」
ザキは少しだけ呪いの言葉を刻み付けた。
今生の別れを終えたザキは立ち去り、奥院には法師と本だけが残された。
「あぁ……やりたくない。やりたくないというのに……。ザキめ……! これでは逃げられんではないか! 私はもう逃げられんではないか……っ!」
運命に対面させられた痛苦と、ザキとの永訣の悲しみに焼かれる男の咽び声が、いつまでも響いていた。
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