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怖いはずなのに
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――あの男に、これ以上好き勝手にされるのは嫌だ。
頬を両手で叩いて、気合を入れた。
夜になって領主が来たら、家に帰らせろと言ってやろう。
そう考えていると扉を叩く音がして、老人が現れた。
「おはようございます」
もともと優しい顔をした老人が、今日はなんだか嬉しそうな顔をしている。思わず「おはよう。嬉しそうだけど、何かあったの?」と、聞いていしまった。
「……ああ、顔に出ていましたか」
少し目を丸くして、老人は自分の顔を撫でた。
「これは失礼致しました。領主様が久しぶりに笑顔をお見せになられたので、私めもついそういう顔になっていた様です」
「え、ア、アイツって笑わないのか! あ、……いや、あの、ごめん……」
もしかしなくても老人の主人は領主だ。その領主を『アイツ』呼ばわりするのはまずい気がする。怒られるかと思って緊張していると、老人は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「私めの前ではかしこまらず、気楽にお話し頂いて構いませんよ。……あの方が、あの様に気をお許しになられて表情豊かにお過ごしなさるのを見たのは、幼少の頃以来です」
「えぇ……?」
「それに、城へと招き入れて私めに事細かくお世話をお命じになられた御方は、貴方様が初めてございます」
「そ、そうなの? だ、だって、アイツ怖いし脅すし、ちっとも優しく、な……くもないのか」
出される食事は美味いし、寝床も上等だ。しかも、老人に世話を焼いて貰ってもいるのだから、扱いとしては確かにとてもいいのかもしれない。
……気を失うまで尻を掘られた後でなかったら、というのがつくが。
「うーん……」
老人の言葉に嘘はなさそうだが、なんだか信じられない。こんなふうに特別扱いをされているのは、どうしてなのかさっぱりわからない。
裏がありそうで恐ろしい。
「ところで、このままお起きになられますか。それとも、もう暫く横になられますか」
「あ、とりあえず起きるよ。寝てばっかりだと体が鈍りそうだし」
「分かりました。では朝餉あさげの前にまず、身支度を致しましょう」
「ああ、うん、お願いします……」
――渋々起きることにしたシタンだったが、その後はまた特別扱いだった。
老人が美味しい料理を運んで来てくれるし、眠くなれば上等な寝床で寝られる。ひと眠りして「まだ体が痛いよ」と言うと、薬草を漬け込んだ香油を使って脚や腰を揉んでくれた。
こんないい思いをしたのは、生まれて初めてだった。
夕暮れどきには体の痛みが消えて、いつもより調子が良いくらいになった。
あんなに酷い目のあわされたのにすっかり良い気分になって、夕餉も残さず平らげた。たっぷりと湯を使わせてもらい風呂などを済ませてから、新しい敷布に替えられた寝床にもぐりこむ。
ここで、シタンは領主が言っていたことを思い出してうんざりした気分になった。
「はぁ、今夜来るって言ってたし、またやられるのか……」
不貞寝したくなってきたが、寝込みを襲われるのも嫌だ。とにかく、頑張って帰りたいと言うことにしよう。
膝の上で両こぶしを握り締めて、シタンは領主を待った。
――やがて夜闇が深くなった頃に、領主が寝室を訪れた。
裾が長くゆったりとした藍染めの夜着を着ていて、撫でつけていた髪は下ろしていた。後ろ髪は意外と長くて、肩に流れたそれは胸元まであった。緩やかに波打つ黒髪と、広い襟ぐりからのぞく白い肌が綺麗だ。
女っぽくはないが、なんというか……とにかく綺麗だった。
どうしてこんな身分の高い綺麗な人が、しがない狩人の男を脅して抱いたのか。
「今夜の勤めはこれで終わりだ。下がって良い」
「かしこまりました。お暇させていただきます」
灯り点けなどの仕事を済ませて部屋の片隅に立っていた老人が、ゆっくりと礼をして出て行った。
寝台に腰かけて見上げるシタンの前へと言葉もなく近寄ってきた領主は、白い手を伸ばしてシタンの頬に触れてきた。どきどきと心臓が鳴って、体が熱くなる。
ここで雰囲気に流されるとまた抱かれて、そのまま帰れなくなりそうだ。
「――あ、あのさ、家に帰りたい……ん、だけど、だ、駄目かな……」
意を決して、か細く声を絞り出す。
「……何故だ」
触れた手はそのままに、冷たい声が返ってきた。
「か、狩り、して、稼がなくちゃ、蓄えもなくなるし、お、俺やもめ暮らしだから家もほっとらかしはちょっと、まずいし……、やっぱり帰りたいんだよぉ……」
必死になって声を絞り出していってみたが、領主は無表情でじっと見詰めているだけだ。
やっぱり怖い。怖すぎる。
言うだけって怖くなって、シタンは下を向いた。体が震えているのが自分でもわかる。
「怯えるな。何もしない」という、深い溜め息混じりの声が聞こえた。
「そ、そんな事いっても、あ、あんた、怖いんだよぉ」
身震いをしながら横目で様子を伺うと、まだ無表情だった。……その無表情もやたらと怖いが、睨まれるよりはずっと良い。そろそろと姿勢を正して、領主の方へと向き直る。
「明日には帰らせよう。それで良いな」
「へっ? いいの?」
どんな返答を返されるかと身構えていたが、予想外のあっさりとした返しだ。安心するよりも逆に、何か企んでいるのではないかと疑ってしまう。
「留まれと言えば、留まるのか? 貴様は」
「い、いや、留まりたくないっ!」
首を激しく振って拒絶すると、領主の目がすっと鋭く細められた。獰猛な獣を思わせる視線に「ひぃっ!」と、悲鳴を上げて涙目になってしまう。怖すぎる。例えでなく頭から喰われそうだ。
「他所へ逃げようなどと考えるな。もし逃げるのなら、腕を斬り落とす。狩りなど出来ない体になると思え」
「にっ、逃げないっ! 逃げないからっ! そういうのやめてくれよぉ……!」
頭を抱えて強く目を閉じて叫ぶ。ガタガタと体が震えて、声も上ずり始めていた。これ以上睨まれ続けたら、泣くどころか情けないことだが失禁するかもしれない。
「逃げなければ良いだけの事だ」
「う、ううっ……」
身を縮めて恐怖に耐えるが、閉じたまぶたの狭間から涙が落ちるのは止められなかった。
「……それほど私が恐ろしいか」
「アンタみたいな貴族が怖くない平民なんて、い、いるわけないだろっ……」
辺境地では聞いたことは無いが、他所の土地では罪を犯した罰として本当に腕を斬り落とされた者がいるらしい。平民にとって貴族という存在は、決して気安いものではないのだ。
「――そうか」
ぽつりと、領主が声を漏らした。今までとは違い威圧感のない静かな呟きだった。
「もう、貴様が何をしたとしても、腕を斬るつもりはない。約束しよう」
寂し気にさえ聞こえる声ともに、さらりと頭を撫でられる。
「今夜は、対価は払わせない。……心配せずに眠れ」
「えっ」
泣き出したシタンに何を思ったのか、領主はあっさりと立ち去って行った。やっと家に帰れる。そう思ってほっとした途端、どっと疲れが襲ってきた。多分、気疲れだ。
「……もう嫌だ……」
泣き言を漏らしながら寝台へと潜り込む。
……今夜は抱かれないどころか、口付けすらされなかった。
「無理矢理抱いたくせに、今日は何もしないなんて、変だな」
あんな怖い男に、触れられるのは嫌だ。何もされないのに越したことはない。越したことは無いのだが、一人で横なっていると、腹の奥が微かに疼いて物寂しい気持ちすら湧いてくる。
「ん……」
尻の辺りが落ち着かない。
抱かれた余韻が残っているからだろうか。何度寝返りを打っても、一度くすぶり始めた疼きは消えない。美しい笑顔や、口付けや、さっきの寂しげな声ばかりが頭の中に繰り返し浮かんでくる。もしかしたら、恐ろしいだけの奴ではないのかもしれないという考えすら浮かんできて、わけが分からなくなってきた。
「なんでだよ……。眠くならない……」
平民を慰み者にする、ろくでなしの貴族だ。なにを気にする必要があるのか。
明日はできるだけ早く城を出たいから、さっさと眠ってしまいたい。敷布を頭の上まで被って目を閉じたが、しばらくのあいだ眠りに落ちることができなかったのだった。
頬を両手で叩いて、気合を入れた。
夜になって領主が来たら、家に帰らせろと言ってやろう。
そう考えていると扉を叩く音がして、老人が現れた。
「おはようございます」
もともと優しい顔をした老人が、今日はなんだか嬉しそうな顔をしている。思わず「おはよう。嬉しそうだけど、何かあったの?」と、聞いていしまった。
「……ああ、顔に出ていましたか」
少し目を丸くして、老人は自分の顔を撫でた。
「これは失礼致しました。領主様が久しぶりに笑顔をお見せになられたので、私めもついそういう顔になっていた様です」
「え、ア、アイツって笑わないのか! あ、……いや、あの、ごめん……」
もしかしなくても老人の主人は領主だ。その領主を『アイツ』呼ばわりするのはまずい気がする。怒られるかと思って緊張していると、老人は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「私めの前ではかしこまらず、気楽にお話し頂いて構いませんよ。……あの方が、あの様に気をお許しになられて表情豊かにお過ごしなさるのを見たのは、幼少の頃以来です」
「えぇ……?」
「それに、城へと招き入れて私めに事細かくお世話をお命じになられた御方は、貴方様が初めてございます」
「そ、そうなの? だ、だって、アイツ怖いし脅すし、ちっとも優しく、な……くもないのか」
出される食事は美味いし、寝床も上等だ。しかも、老人に世話を焼いて貰ってもいるのだから、扱いとしては確かにとてもいいのかもしれない。
……気を失うまで尻を掘られた後でなかったら、というのがつくが。
「うーん……」
老人の言葉に嘘はなさそうだが、なんだか信じられない。こんなふうに特別扱いをされているのは、どうしてなのかさっぱりわからない。
裏がありそうで恐ろしい。
「ところで、このままお起きになられますか。それとも、もう暫く横になられますか」
「あ、とりあえず起きるよ。寝てばっかりだと体が鈍りそうだし」
「分かりました。では朝餉あさげの前にまず、身支度を致しましょう」
「ああ、うん、お願いします……」
――渋々起きることにしたシタンだったが、その後はまた特別扱いだった。
老人が美味しい料理を運んで来てくれるし、眠くなれば上等な寝床で寝られる。ひと眠りして「まだ体が痛いよ」と言うと、薬草を漬け込んだ香油を使って脚や腰を揉んでくれた。
こんないい思いをしたのは、生まれて初めてだった。
夕暮れどきには体の痛みが消えて、いつもより調子が良いくらいになった。
あんなに酷い目のあわされたのにすっかり良い気分になって、夕餉も残さず平らげた。たっぷりと湯を使わせてもらい風呂などを済ませてから、新しい敷布に替えられた寝床にもぐりこむ。
ここで、シタンは領主が言っていたことを思い出してうんざりした気分になった。
「はぁ、今夜来るって言ってたし、またやられるのか……」
不貞寝したくなってきたが、寝込みを襲われるのも嫌だ。とにかく、頑張って帰りたいと言うことにしよう。
膝の上で両こぶしを握り締めて、シタンは領主を待った。
――やがて夜闇が深くなった頃に、領主が寝室を訪れた。
裾が長くゆったりとした藍染めの夜着を着ていて、撫でつけていた髪は下ろしていた。後ろ髪は意外と長くて、肩に流れたそれは胸元まであった。緩やかに波打つ黒髪と、広い襟ぐりからのぞく白い肌が綺麗だ。
女っぽくはないが、なんというか……とにかく綺麗だった。
どうしてこんな身分の高い綺麗な人が、しがない狩人の男を脅して抱いたのか。
「今夜の勤めはこれで終わりだ。下がって良い」
「かしこまりました。お暇させていただきます」
灯り点けなどの仕事を済ませて部屋の片隅に立っていた老人が、ゆっくりと礼をして出て行った。
寝台に腰かけて見上げるシタンの前へと言葉もなく近寄ってきた領主は、白い手を伸ばしてシタンの頬に触れてきた。どきどきと心臓が鳴って、体が熱くなる。
ここで雰囲気に流されるとまた抱かれて、そのまま帰れなくなりそうだ。
「――あ、あのさ、家に帰りたい……ん、だけど、だ、駄目かな……」
意を決して、か細く声を絞り出す。
「……何故だ」
触れた手はそのままに、冷たい声が返ってきた。
「か、狩り、して、稼がなくちゃ、蓄えもなくなるし、お、俺やもめ暮らしだから家もほっとらかしはちょっと、まずいし……、やっぱり帰りたいんだよぉ……」
必死になって声を絞り出していってみたが、領主は無表情でじっと見詰めているだけだ。
やっぱり怖い。怖すぎる。
言うだけって怖くなって、シタンは下を向いた。体が震えているのが自分でもわかる。
「怯えるな。何もしない」という、深い溜め息混じりの声が聞こえた。
「そ、そんな事いっても、あ、あんた、怖いんだよぉ」
身震いをしながら横目で様子を伺うと、まだ無表情だった。……その無表情もやたらと怖いが、睨まれるよりはずっと良い。そろそろと姿勢を正して、領主の方へと向き直る。
「明日には帰らせよう。それで良いな」
「へっ? いいの?」
どんな返答を返されるかと身構えていたが、予想外のあっさりとした返しだ。安心するよりも逆に、何か企んでいるのではないかと疑ってしまう。
「留まれと言えば、留まるのか? 貴様は」
「い、いや、留まりたくないっ!」
首を激しく振って拒絶すると、領主の目がすっと鋭く細められた。獰猛な獣を思わせる視線に「ひぃっ!」と、悲鳴を上げて涙目になってしまう。怖すぎる。例えでなく頭から喰われそうだ。
「他所へ逃げようなどと考えるな。もし逃げるのなら、腕を斬り落とす。狩りなど出来ない体になると思え」
「にっ、逃げないっ! 逃げないからっ! そういうのやめてくれよぉ……!」
頭を抱えて強く目を閉じて叫ぶ。ガタガタと体が震えて、声も上ずり始めていた。これ以上睨まれ続けたら、泣くどころか情けないことだが失禁するかもしれない。
「逃げなければ良いだけの事だ」
「う、ううっ……」
身を縮めて恐怖に耐えるが、閉じたまぶたの狭間から涙が落ちるのは止められなかった。
「……それほど私が恐ろしいか」
「アンタみたいな貴族が怖くない平民なんて、い、いるわけないだろっ……」
辺境地では聞いたことは無いが、他所の土地では罪を犯した罰として本当に腕を斬り落とされた者がいるらしい。平民にとって貴族という存在は、決して気安いものではないのだ。
「――そうか」
ぽつりと、領主が声を漏らした。今までとは違い威圧感のない静かな呟きだった。
「もう、貴様が何をしたとしても、腕を斬るつもりはない。約束しよう」
寂し気にさえ聞こえる声ともに、さらりと頭を撫でられる。
「今夜は、対価は払わせない。……心配せずに眠れ」
「えっ」
泣き出したシタンに何を思ったのか、領主はあっさりと立ち去って行った。やっと家に帰れる。そう思ってほっとした途端、どっと疲れが襲ってきた。多分、気疲れだ。
「……もう嫌だ……」
泣き言を漏らしながら寝台へと潜り込む。
……今夜は抱かれないどころか、口付けすらされなかった。
「無理矢理抱いたくせに、今日は何もしないなんて、変だな」
あんな怖い男に、触れられるのは嫌だ。何もされないのに越したことはない。越したことは無いのだが、一人で横なっていると、腹の奥が微かに疼いて物寂しい気持ちすら湧いてくる。
「ん……」
尻の辺りが落ち着かない。
抱かれた余韻が残っているからだろうか。何度寝返りを打っても、一度くすぶり始めた疼きは消えない。美しい笑顔や、口付けや、さっきの寂しげな声ばかりが頭の中に繰り返し浮かんでくる。もしかしたら、恐ろしいだけの奴ではないのかもしれないという考えすら浮かんできて、わけが分からなくなってきた。
「なんでだよ……。眠くならない……」
平民を慰み者にする、ろくでなしの貴族だ。なにを気にする必要があるのか。
明日はできるだけ早く城を出たいから、さっさと眠ってしまいたい。敷布を頭の上まで被って目を閉じたが、しばらくのあいだ眠りに落ちることができなかったのだった。
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