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42 ハイレリウス

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 ひとしきり泣き散らかして、やっと気分が落ち着いてきた。外はもうとっぷりと陽が暮れて、窓硝子越しに町の灯りが揺らめいている。

目蓋まぶたが腫れてしまうから、少し冷やした方が良いね」と、青年が給仕を呼びつけて顔を洗う水を入れた白磁の器や布巾を用意してくれる。

「少し飲み過ぎてしまった。彼は泣き上戸だそうだよ」

 冗談を混ぜてにこやかに話しながら酔い覚ましの水や果実水、軽い口当たりの菓子なども追加して頼んだ。

「……ほんと、すみません。こんなに泣くなんて。はぁ……」

 細々と世話を焼かれて、有難いやら申し訳ないやら。思わずため息をつきながら背中を丸めて小さくなってしまう。泣くほど辛くて仕方がなかったとはいえ微笑む青年を前にしていると、さすがに羞恥を感じて顔が熱くなった。

「恥ずかしいことではないよ。すっきりした顔をしているのだから、楽になれた証拠だ。泣きたいときに泣けるのは、とても良い事だよ」
「まあ、すっきりはしましたがね……」

 酔いもすっかり抜けている。もう一度酒を飲む気にはなれなくて、ちびちびと水を飲んから菓子を摘まむと、そのやんわりとした甘みに癒された。

「それなら良かった。遠慮なく甘えてくれれば良いよ。君は私の恩人なのだから」
「甘えるだなんてそんな……」
「気にしない気にしない。ああ、私は、ハイレリウスという。ハルとでも呼んでくれないか」
「あ、ああ、えっと、ハル様……?」
「様なんて要らないよ。私なんて貴族とはいえだから」
「いや、流石にまずいんで」

 もしかしたら、愛称でもまずいのではと言いそうになったが、そうしても無駄な気がして言葉を飲み込む。青年――ハイレリウス――は、自分のことを『端くれ』とか言っているが、どの程度の端くれなのか分からないし、シタンからしてみれば雲上の存在には違いない。呼び捨てなんてとんでもないというやつなのだ。

「うーん。固いね。まあ、許してあげよう」
「はぁ……、どうも。あ、俺は、シタンです」

 人懐っこいのは良いが、こっちは平民なのだから勘弁してほしい。そう思いながらも律儀に名乗りを返す。素材屋の店主にシタンと呼ばれていたのを聞いてただろうから、今さらだが。

「とても良い響きの名だね。君に似合っている」
「は、はぁ。そう、ですか。自分ではなんとも、思いませんが」
「ふうん。私はとても良いと思うよ。君の名前だからかな」

 ……『良い響き』って、『似合っている』って、なんだ。別嬪を口説く詩人みたいな言い回しだ。

 とても自分には真似のできない返しに戸惑う。「ふふ。よろしく、シタン」と、甘く微笑む顔は見惚れるほど綺麗だ。整っていると最初に思いはしたものの、微笑み方ひとつで大きく変わる。領主も大概だが、ハイレリウスも相当な美形だと、今更だが意識した。
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