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本編
77 夜明け前
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――夜が明ける少し前に、リィは目を覚ました。
誰かの腕に腰を抱かれていて、背後から穏やかな寝息が聞こえる。一瞬、どこに居るのか分からなくて混乱したが、すぐに昨日のことを思い出す。
情事で疲れ切った体を休めるために、日暮れまで二人で寄り添い合って眠り、夕飯は目覚めたときに寝台の上で食べた。慣れない行為で疲れていたとはいえ、毎日欠かさずしていた鍛錬をさぼってしまった。
……背中に感じる温もりが、とても心地いい。
まだ横になっていたかったが、さすがにいつまでもだらけているのはマズい。闘士は常に体を鍛えていなければならない。一日さぼれば取り戻すのに何日もかかると、師である父親から言い聞かされて育った。
昨日は夜が更ける前に平屋へ帰ろうとしたが、片時も離れたがらず甘えるイグルシアスがそれを嫌がって大騒ぎになり、結局は屋敷に泊まることになった。
首を巡らせて周囲を見回すと、脱がされた装束や下穿きが脇机に置かれているのが目に入った。昨日は気付けなかったが、酷く汚してしまった敷布もいつの間にか綺麗なそれに代えられている。
……身分の高い人間は、情事まで他人に世話をされるのか。
恵まれた生活というのも気疲れが多そうだが、生まれたときからそうなら恥ずかしさを感じないのだろうか。取り留めなくそんなことを考えながら、眠る彼を起こさないように腰を抱く腕を慎重にどけて寝床を降りる。
大きく伸びをしたり手足を曲げたりして、全身の筋を解して調子を確かめた。尻にまだ違和感があり体の筋も少し痛むが、鍛錬をすれば調子はそこそこ戻るだろう。イグルシアスは休んだ方がいいだの、僕のそばいてだのとうるさく騒いでいたが、これなら勤めを休む必要などない。
脇机の下穿きを手にしてみると、ほんのりと良い匂いがした。見違えるほど綺麗に洗濯されたそれに居た堪れない気分を味わいながら、夜着代わりに借りたイグルシアスの上着を脱いで身に着ける。
そうして、粗方の身支度を終えたところで、まだ眠っているイグルシアスの手になんとはなしに触れて、甲に薄く浮いた血管や関節の起伏を辿り、整えられた爪までを指先でなぞった。
――やっぱり綺麗な手だ。触るだけでも気持ちが良い。ずっと触っていたい。
初めて出逢ったときから、自分にためらいいなく触れてくるこの手が嫌いではなかった。もしこんな綺麗な手でなかったとしても……、好きになっていたのかもしれないが、この手に触られたあの瞬間に、この男を意識し始めたのは確かだ。
裏路地でイグルシアスを助けた日が、何年も前のことに感じる。出逢ったことを後悔するほど辛い目にも遭ったが、今となってはそれも遠い記憶になりつつある。
これまでの出来事を振り返りながら手に触れ続けていると、イグルシアスが眉根を寄せて身じろぎし始める。起こしてはマズいと手を引っ込めて離れようとしたが、時すでに遅く瞳が開いてしまった。
寝起きのとろりとした顔で彼は瞬きをして、空色の瞳でリィの姿を捉えると穏やかに微笑んだ。
「あれ。リィ……、起きて、しまったの? ねぇ、もう少し一緒にいてよ……」
「ダメに決まってんだろ。俺はいつもこのくらいには起きてんだよ」
少し掠れた色気のある声で誘惑されたが、キッパリと断った。二度寝などしていたら、今日の試合に穴を開けてしまう。そんな恥晒しで無責任なマネは冗談でもやりたくない。
「リィったら冷たい……。……ねぇ……お願いだよ」
「我がまま言うな。アンタ、眠いならもう少し寝てろよ」
「離れちゃ……嫌、……だ。寂しいよ……リィ……」
もにゃもにゃと甘えたことを言いながら、眠気に耐えきれなかったのか途中で声が途切れて瞼が下りていく。薄闇の中でも目立つ金髪を優しく撫でてやると、幸せそうに小さく吐息を漏らしてイグルシアスは眠りに落ちていった。
……これではどちらが年下なのか分からない。
子供じみた我がままな態度に呆れながらも、甘えてくる姿がとても可愛いらしく思えて顔が緩んでしまう。今日は駄目だが、たまにならもう少し一緒に寝てやるのも悪くない。
口元を緩めながら綺麗な彼の手をひと撫でしてから、リィは静かに寝室を出た。
誰かの腕に腰を抱かれていて、背後から穏やかな寝息が聞こえる。一瞬、どこに居るのか分からなくて混乱したが、すぐに昨日のことを思い出す。
情事で疲れ切った体を休めるために、日暮れまで二人で寄り添い合って眠り、夕飯は目覚めたときに寝台の上で食べた。慣れない行為で疲れていたとはいえ、毎日欠かさずしていた鍛錬をさぼってしまった。
……背中に感じる温もりが、とても心地いい。
まだ横になっていたかったが、さすがにいつまでもだらけているのはマズい。闘士は常に体を鍛えていなければならない。一日さぼれば取り戻すのに何日もかかると、師である父親から言い聞かされて育った。
昨日は夜が更ける前に平屋へ帰ろうとしたが、片時も離れたがらず甘えるイグルシアスがそれを嫌がって大騒ぎになり、結局は屋敷に泊まることになった。
首を巡らせて周囲を見回すと、脱がされた装束や下穿きが脇机に置かれているのが目に入った。昨日は気付けなかったが、酷く汚してしまった敷布もいつの間にか綺麗なそれに代えられている。
……身分の高い人間は、情事まで他人に世話をされるのか。
恵まれた生活というのも気疲れが多そうだが、生まれたときからそうなら恥ずかしさを感じないのだろうか。取り留めなくそんなことを考えながら、眠る彼を起こさないように腰を抱く腕を慎重にどけて寝床を降りる。
大きく伸びをしたり手足を曲げたりして、全身の筋を解して調子を確かめた。尻にまだ違和感があり体の筋も少し痛むが、鍛錬をすれば調子はそこそこ戻るだろう。イグルシアスは休んだ方がいいだの、僕のそばいてだのとうるさく騒いでいたが、これなら勤めを休む必要などない。
脇机の下穿きを手にしてみると、ほんのりと良い匂いがした。見違えるほど綺麗に洗濯されたそれに居た堪れない気分を味わいながら、夜着代わりに借りたイグルシアスの上着を脱いで身に着ける。
そうして、粗方の身支度を終えたところで、まだ眠っているイグルシアスの手になんとはなしに触れて、甲に薄く浮いた血管や関節の起伏を辿り、整えられた爪までを指先でなぞった。
――やっぱり綺麗な手だ。触るだけでも気持ちが良い。ずっと触っていたい。
初めて出逢ったときから、自分にためらいいなく触れてくるこの手が嫌いではなかった。もしこんな綺麗な手でなかったとしても……、好きになっていたのかもしれないが、この手に触られたあの瞬間に、この男を意識し始めたのは確かだ。
裏路地でイグルシアスを助けた日が、何年も前のことに感じる。出逢ったことを後悔するほど辛い目にも遭ったが、今となってはそれも遠い記憶になりつつある。
これまでの出来事を振り返りながら手に触れ続けていると、イグルシアスが眉根を寄せて身じろぎし始める。起こしてはマズいと手を引っ込めて離れようとしたが、時すでに遅く瞳が開いてしまった。
寝起きのとろりとした顔で彼は瞬きをして、空色の瞳でリィの姿を捉えると穏やかに微笑んだ。
「あれ。リィ……、起きて、しまったの? ねぇ、もう少し一緒にいてよ……」
「ダメに決まってんだろ。俺はいつもこのくらいには起きてんだよ」
少し掠れた色気のある声で誘惑されたが、キッパリと断った。二度寝などしていたら、今日の試合に穴を開けてしまう。そんな恥晒しで無責任なマネは冗談でもやりたくない。
「リィったら冷たい……。……ねぇ……お願いだよ」
「我がまま言うな。アンタ、眠いならもう少し寝てろよ」
「離れちゃ……嫌、……だ。寂しいよ……リィ……」
もにゃもにゃと甘えたことを言いながら、眠気に耐えきれなかったのか途中で声が途切れて瞼が下りていく。薄闇の中でも目立つ金髪を優しく撫でてやると、幸せそうに小さく吐息を漏らしてイグルシアスは眠りに落ちていった。
……これではどちらが年下なのか分からない。
子供じみた我がままな態度に呆れながらも、甘えてくる姿がとても可愛いらしく思えて顔が緩んでしまう。今日は駄目だが、たまにならもう少し一緒に寝てやるのも悪くない。
口元を緩めながら綺麗な彼の手をひと撫でしてから、リィは静かに寝室を出た。
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