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小さな復讐をした私

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 ダイダイは呼べばすぐに来る。……というか呼ばずとも大体一緒にいる。
 母猫たちは言葉が分かるので当然呼べばすぐに来る。
 他の猫たちはどうだろう?
 生まれた時から名前を呼び続けているわけだから、そろそろ聞き慣れてきた頃だろうか。
 自分の名前を憶えてくれただろうか。
 最近そんなことが気になっている。
 というのも、先日の閉店後、皆が帰っていったあとのこと。
 翌日の準備も家事も全て終わらせたと思って猫たちとまったりしていた。
 ステファンさんが帰っていった後の猫たちはわりと静かなもので、各々好きなところでくつろいでいる。
 毛づくろいをしている猫ちゃんなんか延々と眺めていられるなぁかわいいなぁ。
 あの前足をきゅっとして肉球や指先……指先っていうのか? とりあえずおててをぺろぺろする仕草がかわいくて仕方ない。
 ぺろぺろしたりかみかみしたり、たまに爪あたりをぐっと噛んで引っ張ってぶちっとやってることがあるんだけどあれは何をしているんだろう……と、そこまで考えたところでふと翌日の準備のうちの一つを忘れていたことに気が付いた。
 そんな私が小さな声で「あ」と零した時だった。
 私の声に、アカとアオとアイが顔を上げてこちらを見たのだ。
 三匹とも別々の場所で毛づくろいをしたり寝転がったりしていたのになぜ示し合わせたようにこちらを向いたのか。
 そこで私は気が付いた。
 三匹とも、頭文字が「あ」なのである。
 そして私が零した言葉は「あ」だったのである。
 要するに何が言いたいかというと、うちの猫は皆天才なのでは?
 と、まぁ親バカはともかくとして「あ」に反応したのが見事に頭文字「あ」の三匹だったので、この子たちは名前を覚えたのかなと気になっているわけだ。
 確信に至っていないのは、アオとアイは単にデカい声に反応しただけの可能性があるから。
 一人の時にデカい声を出すことは滅多にないのだが、猫たちが勝手に引っ張り出して適当に放置したおもちゃをうっかり踏んでしまった時に「痛い!」とか言っちゃうと結構な確率でアオアイコンビと目が合う。
 そしてあの子たちは「ごはん? それともあそぶ?」とでも言いたげな顔をする。
 もしかしたら私がデカい声を発するときは多分ごはんの時とインプットされているのかもしれない。
 名前を憶えていてくれたらかわいいのだけど。
 いや、ごはん? って顔をするのも超かわいいけども。
 ちなみにその放置されていたおもちゃを片付けるときに「ないないしようね」というとダイダイが「ンー」と返事をするので、ダイダイも名前をしっかりと憶えているわけじゃないのかも、と思っている。
 だって似てるでしょ「ダイダイ」と「ないない」って響き。
 まぁでも響きだけでも憶えているんだからやっぱり天才だよね。
 響きだけでもね。
 ……呼んでみるか。

「アオ!」

 いや、全員こっち向くんかい!
 突然デカい声を出せば皆びっくりしてこっち向くよな、というお話。

 その翌日の閉店後、まだステファンさんがいる時間にその話をしてみた。

「名前? 一応は覚えてる気がするけどなぁ」

 と、アイに猫キックをくらいながらステファンさんが言う。

「覚えてるかなぁ」

「少なくともアオとアイは覚えてる気がする」

 今度はアオにタックルを決められながら言う。
 慣れたもんだなステファンさん。

「昨日アオって呼んだら全員が振り向いたよ」

「そうなんだ。でもアオとアイはなぁ、暴れまわって噛んじゃダメなものとか噛んだときに『アオ!』って言えばちゃんとアオが逃げていくし『アイ!』って言えばアイが逃げていく」

 ステファンさんに怒られると逃げるんだ、あの暴れん坊コンビ。

「アカとミドリはアランに懐いてるしアランが呼んだらちゃんと反応してくれそうではあるよね」

「確かに」

「今度アランが来たら呼んでみてもらおう」

「……うん」

「今日は来ないみたいだけど。っていうか最近来ないな。忙しいのかな?」

「どうだろう」

 実は最近、ルーチェの評判がよろしくない。
 なんでも新商品が軒並みハズレているらしい。
 業績は悪化しているのにお姫様がやってきたりとか、とにかくごたごた続きでアランはきっと大変だろう。
 ま、今更私には何も関係ないんだけど。

 ……と、思っていたときもありました。
 それから数日後、その日はお休みだった。
 ステファンさんが来る予定もアランが来る予定もなく、何かと忙しそうなアイナも来ないし、ヴェロニカさんはお買い物に出かけている。
 ここにいるのは私と猫たちだけ。そんな日。
 新メニューでも考えるか、それとも猫たちと遊ぶか、そんなタイミングだった。
 室内に軽快な呼び鈴の音が響く。
 来客の予定はないはずなのに、いったい誰だろう。そんなことを考えながら外を見ると、そこには二度と顔を合わせることはないだろうと思っていた人物がいた。

「なにしてんの、ケヴィン」

 そう、ケヴィンだ。
 己が結婚するからと私を追い出した、あのつむじ男だ。
 ケヴィンは私の地の這うような声を聞いて少し怯んだようだが、その場を立ち去ることはない。

「何か用?」

 用がないのなら私は室内に戻るけど、と言いかけたところで、ケヴィンが私に向かって頭を下げた。
 まさかまたコイツのつむじと対峙することになろうとは。

「……助けてほしい」

 ケヴィンは蚊の鳴くような声でそう言った。
 私を正当な理由なく追い出した張本人が私に助けを求めるだなんて、とっても滑稽な話だ。

「嫌だ」

「……っ」

 私の声に、ケヴィンは顔を上げて目を丸くした。
 何を驚くことがあるのだろう。
 まさか自分がしたことを覚えていないのか?
 まだ生まれてさほど経っていない小さな猫にだってちゃんと学習能力が備わっているというのに、お前は何も学習せずここまで生きてきたのか?

「お、俺が悪かった。全部俺が悪かった。なんでもする。君が欲しいものはなんでも作る。だから助けてくれ」

「嫌だ」

「そんな……」

「え、そんなってなに? 私追い出されたんだけど?」

「それは」

「店から追い出されて一人ぼっちにされた恨みがないとでも思ってる?」

「それは、謝る。い、今大変なんだ」

「知らないよ。自分が蒔いた種じゃん」

「頼れるのは君しかいないんだよ」

「だから知らないってば。っていうかそういう話ならアランを通してもらえる?」

「……アランを通せば助けてくれるのか?」

「そんなわけなくない?」

 なんだこの甘っちょろい考えの男。
 私、こんな奴と仕事してたんだな。よく頑張ってたなぁ。

「んにゃーーーーー」

 あ、ダイダイがご乱心だ。

「じゃ、もう話すこともないし帰って」

「頼むイリス! 助けてくれよ……」

「やだ。私を追い出したこと、精々後悔すればいいよ」

「してるよ……」

 してるんだ。やってやったな私。

「……まぁ、私は今もあんたを許してないし今後許す気も、助ける気だって全くないよ」

「……」

「でも、一応助言はあげるよ」

「え」

 ケヴィンが、期待を込めた目で私を見る。

「私の言いなりで店を開いて、女の言いなりで私を追い出して、あんた全部人の言いなりじゃん」

「そ、それは」

「誰もいなくなったんだから、そろそろ自分で考えて行動しなよ。あんたはもう自由でしょ」

 そう言うと、ケヴィンは完全に黙り込んだ。しかしその場から動こうとはしない。
 さっさと帰ってほしいんだけど。ダイダイも呼んでることだし。
 と、思っていた時のこと。ケヴィンの向こう側にステファンさんがいることに気が付いた。
 何をしているのだろうと思ったのはほんの一瞬だった。なぜならステファンさんの手には猫のおもちゃが入った紙袋があったから。
 また買ってきたんだ、ステファンさん。ステファンさんもなんだかんだで親バカだよな。
 物を買い与えるタイプの親バカ。

「ステファンさん」

 大きな声ではなかったけれど、ステファンさんは気が付いてくれた。
 様子がおかしいことには気付いていたみたいだから急いで駆け寄ってきてくれる。

「イリスさん。この人は?」

「昔の知り合い」

 ケヴィンはステファンさんを見て目を丸くしている。
 そんなケヴィンの顔を見て、ちょっとした悪戯を思い付いた。
 意趣返し、ってやつだ。

「この人、私の恋人」

 私は紙袋で手が塞がっているのをいいことに、ステファンさんの腕にすり寄って見せる。

「彼、私が他の男といるの嫌がるの。だから、さっさと帰って。入ろう、ステファンさん」

「あ、うん」

「待っ……」

 ケヴィンが私を引き留めようとする声に気が付かない振りをして、私はステファンさんの腕にしがみついたまま室内へと戻ったのだった。

「……え、なに? ど、どど、どういうこと!?」

「あれ、ケヴィンよ。私を追い出した」

「……え!?」

 ステファンさんは混乱している。

「ンニィィィィィ!」

 ダイダイは興奮している。

「余程危ないらしいね、あの雑貨屋は」

 私はそう呟きながらダイダイを抱き上げる。

「ンー! んにゃー!」

 抱き上げられたダイダイは私の胸元に頭突きをかましている。かわいい。

「え、っと、彼は何をしに?」

「助けて、だってさ。自分で追い出したくせに」

「厚かましい」

「ンー!」

「でしょ!? ……だからイラっとして、あいつと似たようなことをして、ちょっとだけ復讐してやろうと思って」

「似たようなこと」

「そう。恋人が嫉妬するからどっか行って、って、言いたくて。その、巻き込んでごめんね、ステファンさん」

「え、あ、いやいや別に俺は……そ、そうか、じゃあ俺ももっとちゃんと演技すればよかったな」

 ステファンさんはあははと渇いた笑いを零していた。




 
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