愛の鎖が解ける先に

赤井ちひろ

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第四章 紬

10 真実の朝

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 寝返りをして、布団ごと体制を変えた。開いた方の耳から綺麗な女の人の声が聞こえる。
 誰かが歌っている。
 音楽が鳴っているのか? 
 手を広げて横の温もりを確かめた。
 もういないその場所は、僅かにひんやりと感じる。徐々に覚醒する体をゆっくりと起こし、僕は目を開けた。
 ――今日は何日だ?
 ――僕の名前は、誰だ。
 あれ以来毎日欠かさず自分に課している質問は、自分が紬であると思い出すための作業だ。
 
 ああ、やはりCDかと、視線の先から流れてくるその音楽に合わせて指を打ち鳴らした。
 
「起きたのか」
「ええ……」
「起き上がれるか?」
「お腹がすきました」
 僅かに沈黙があった。
 何か失敗でもしたか?
 僕はそう思って、大和さんの動向を窺った。
「紬がお腹がすくなんて珍しいな」
 しまった。僕はそう思ったものの、今さら撤回もおかしな事だ。
「たまにはそんな事もあります」
「そうだよな」
 このタフな心臓に何度感謝したか知れない。
 貼り付けた笑顔で軽く乗り切り、足先から床につけ、ひんやりする床の温度を感じた。
「スリッパをはきなさい」
 大和さんに言われ出されたスリッパに足を入れた。
「いい子だね」
「ヤマト……」
 意識をしないとつい、大和さんと言ってしまいそうになる。
 今日は特にぼろを出さないようにしないと、不安しかなかった。
「リンゴを剥いた。後は何が食べたい?」
「料理できるんですか?」
 しまった。これは聞いてはいけない内容ではなかったか。
「できないものを探す方が難しい。あまり好きでは無いかも知れんがな」
 大和さんが普通に答えてくれたものだから、あの反応が大和さんに別人だと思わせる決定打を与えるラスト一打になったとは、到底気が付かなかった。
 ――嫌味なほど憎らしい。
 ――僕が葵なら、速攻突っ込みを入れている。
 ――こう考えると似ているのはなおのこと顔だけか。

 ――どこに行くかはわからないけれど、青山や銀座なら庭だ。ぼろが出ないように気をつけなくちゃ。

「スープにパンを用意したよ」
 東條が深い皿に濃厚なポタージュを入れ、スプーンを添えた。
「ありがとう」
「いつも食べる量より明らかに多いから、あまり無理はするなよ。ロールパン1つ食べきれなかったら、残していいんだからな」
 ――紬君はこんな量すら食べられないのか。僕には足りない。どう考えても明らかに。
 ――内緒で何かエネルギーになるような物でもゲットしておかないと早々にぼろが出る。
「美味しい」
 ぐー
 盛大に鳴り響いた腹の虫に、東條は腹を抱えて笑った。
「さぁ、朝飯を食ったら今日は付き合ってくれよ」
 こくんと黙って頷いた。


「どこに行くんですか」
 手を引かれ車庫に着いた。
「さぁ乗って」
 この車に乗るのは初めてではない。
 それでも居ずまいが正された。
「はい」
 なるべく少ない会話で乗り切りたい。
「目的地はどこですか?」
「青山だ」
 青山に何があるというのだろう。
 何か別の会話を――。葵は青山にある素敵なドライフラワーショップを思い出した。
「青山に……」
 って駄目だ。紬が知っている訳が無い。
「青山になんだ?」
 ――聞き流しちゃあ、くれないか。
「青山ってどこかなぁって」
 我ながら苦しい。
 目的地に近くなって来たからには何かアクションがあるはずだ。
 車がサイドブレーキをかけて止まった。
「ここは?」
 僕は見知ったそこに血の気が引いた。
 異様な雰囲気が二人を襲い、帰ろう! そう言いたかった。
「墓地だ、青山墓地」
 ――知っています。
「こんなところに何が?」
 ――嫌な空気。
 そういう予感ほど当たる。葵の心臓が飛び跳ね、紬であることを一瞬忘れそうだった。
 胸の中央が熱く、乾ききった喉がむず痒い。アレルギーで喉の中が腫れてしまっている様だった。
 僕はこれから起きるであろう事に腹をくくると、息を吸った。
「ここからは歩きだ。辛かったら抱いて行ってやるぞ」
 なるべく無言がいい。
 イヤイヤをするように僕は首だけを振った。
 伸ばされた手に何度か躊躇しながらも、指先を絡める。
 ぎゅっと握りしめられたその手に、堪らなく涙が出そうだった。
 いい匂いのする小道を通り、一つの墓地にたどり着く。
「読んで、紬」
 ……………………。
 何で――。

 

 
 
 
 
 
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