鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第四章 ほろ苦い秋

37th Mov. イメージと理解

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 初めて結先生の前で、ミニ発表会用の演奏曲を通しで弾くことになった。
 弾いてみて改めて思ったが、自分ではそれなりに形になった気がする。だけど結先生から伝わってくる雰囲気はそうじゃない。
 鍵盤に向けていた視線を恐る恐る先生の方へ向ける。

「うーん……。野田君の中で、この曲のイメージとか解釈ってどうなってる?」

 ミニ発表の演奏曲、ブルグミュラーの『アラベスク』。
 自分の中ではやっと完成といったところまで漕ぎつけたのだが、先生から演奏の大前提ともいえる質問を投げかけられた。

「アラベスクっていう言葉がアラビア風って意味らしいので何となくそういう雰囲気で。後は、出だしで言うとAllegro scherzandoアレグロ スケルツァンド(早く戯れるように)とかleggieroレッジェーロ(軽く)とかを注意して弾いてるくらいです」
「間違ってないんだけどねぇ。何というか面白くないのよ、野田君の演奏は」

「面白くないですか……」
「上手なのよ? これだけ短期間で弾けるようになってるのも凄いことだし、自宅での練習量が良く分かるわ。だけどね、野田君らしさがないっていうか、譜面そのままって感じで、演奏に奥行きがないのよね」

 これでもたくさん自主練して譜面通りに弾けるようになった。難しい箇所も楽譜で指示されているテンポは維持できるようになったし、弾き間違いも少なくなった。
 それでも完成は、まだまだ遠いらしい。

 結先生の言っていることは、おそらく紬《つむぎ》のような表現について何だと思う。ただ、それがどうやったら表せるのか想像もつかない。

「分かるようで分かりません」
「そうよねぇ。ピアノを始めて半年なのに、そこまで求めちゃ酷なのは分かるんだけど。野田君の目指すところはそういうレベルだから」

「紬さんのように表現力を身に付けろってことですよね?」
「必ずしもすべての演奏に表現力を求めてるわけじゃないわ。アラベスクだけでも理解を深めて、自分なりの演奏に落とし込んで欲しいの。先生としての立場ではそう言うしかないかな」

「自分なりの演奏ですか……。言葉では何度も聞いていますが、どうやったら良いか分からないんです」
「そうねぇ。一般的なのは作曲者について調べたり、他の人の演奏を聴いたりすることかしら。特殊なので言うと、曲を聴いて物語を作ったり、題材となった現地に行ってみたりなんかもあるわ」

 ブルグミュラーは生まれがドイツ。その後、フランスで生活した人。
 僕の結論としてはアラブ風という想像した世界観を曲にしたんじゃないかと思ってる。
 というかそれくらいしか想像がつかない。

 それに僕には、この曲で物語が生み出せそうな頭は持っていない。中東へ海外旅行するほどの資金もない。

 出来るのは、ネットで他の人の演奏を聴いてみることくらいか。でもそれは既にやってるんだよな。

「今の段階だと、それで理解が深まる気がしません……」
「正直に言っちゃうと、理解が深まったかどうかなんて正解はないの。自分でそう理解して、ピアノに落とし込むってことが大事になるかな。そうすると、譜面以上の演奏になることもあるわ」

「なること?」
「もちろん、その理解が聴く人に共感を得られなければ、単なる冒涜と取られかねないけどね」

「余計に分からなくなってきました……」
「大丈夫! コンクールって訳じゃないし、君なりの演奏が出来れば。譜面通りなら、CDでも聞いてればいいんだし!」

「CDですか?」
「やだ、今の子はCD見たこと無いわよね。先生も見たことない気がするんだけど、たしか小さいころには有ったかなぁ~」

 時折、先生は若いアピールをする。真偽が怪しいラインなら、普段は特に触れたりしないでスルーしている。
 けれども今回はさすがに厳しい。CDの存在は親から聞いて知っている。
 はっきりと覚えていないけど、高校生や大学生の時に有ったと言っていたはずだ。

 結先生がどれだけ若いころに出産していても、小さいころに有ったかどうかというレベルじゃないことは確かだ。

「僕の母が高校生のころは普通に有ったらしいですよ?」
「…………。さて、基本からおさらいしましょう。左手は2拍子で安定させておくこと。右手が加わってからも揺るがないように。それと音の粒を揃えること。ここ重要よ!」

 ……勢いで押し切ろうとするのは紬と一緒だ。

「……はい。わかりました」
「あとは野田君なりの演奏を考えていきましょう。楽譜を見ていて気になることはない?」

「楽譜ですか。……始まりから右肩上がりに上がっていって、曲の終わりには、いきなりガクンと下がるって感じです。全体のメロディーも高い音が多くて軽いのに、何となく悲しい雰囲気が混ざってきて。混沌? くすんだ感じと綺麗な感じが混ざってて、スッキリしないけど、それはそれで心地良いっていうか」
「あら! 結構、理解度が高いじゃない。野田君は感受性が豊かなのね。紬から聞いてた通り」

「そうなんですかね? 僕には良く分からないですけど」
「野田君なら、風景や建築物を見てみたりするのも良いかもね。多分、自分で感じ取れると思うの。それを演奏に当てはめてみて。混沌と感じる世界観を思い浮かべて弾いてみるの」

「出来るだけやってみます」
「じゃあ、先生からアドバイス。作曲ってね、一音一音意味を持たせて作るの。作曲家はイメージを曲に落とし込んでいってね。こういう場面だから明るくしようとか、重々しくしようとか。だから、演奏者はそれの逆をするのよ。何でこういう音なのか、何でこういう弾き方をさせるのか。何が正解って訳じゃないけど、私はそう理解している。それでね、そこが楽しくて、大変なところなの。分かるようになると、演奏がもっと楽しくなるわ。頑張ってみて!」

「はぁ。とりあえず頑張ってみます」

 ミニ発表会へのカウントダウンは着実に進んでいた。
 それなのに、僕はまだ譜面通りに弾けるようになっただけ。
 確かに始めて半年だし、多くを望み過ぎている気もするけど、僕が憧れた彼女の演奏に少しでも近づくには、自分なりの演奏というものを目指してみなければならない。

 その時の僕は、身の丈に合わないチャレンジを当然のように受け止めていた。
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