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7話.心を休ませる
しおりを挟む「心を休ませる」
真夏の蝉が喧しく鳴く昼下がりの会社、
尚子は給湯室でコーヒーを淹れながら、
ふと手が止まった。
指先に力が入らず、マグカップを落としそうになる。
最近、こんなふうに気が遠くなる時が
増えている。
「大丈夫?顔色悪いよ」
隣席の沙織が声をかける?
「うん、ちょっと寝不足なだけ。ありがとう。」
そう答える自分の声が一瞬遠のく。
確かに眠れていなかった。
けれど、それが一番の理由じゃないと
感じていた。
自分の中で何かが壊れかけている、と
悟っていた。
尚子の仕事は立て込んでいた。
新人のミスをカバーし、部長の機嫌をとり、
会議では誰もやりたがらない役割を引き受ける。
そうする事で一日が少しでも順調に流れ
終わることをいつも考えるのが彼女だった。
だけど、1人になれる時間になると、
この頃思うようになった。
気づけば、いつも周りに合わせてばかりいて、
自分の本当の気持ちは置き去りになっている。
尚子は自分が人に優しくするのが得意な
人間だと思っていた。
相手の立場を考えて、言葉を選び、
時に励まし、時に助けたり。
でも、最近は違ってきている。
誰かが話しかけてくるたびに、
つい声を荒げそうになり、
慌てて自制する事が多くなった。
小さなことで苛立ち、
頭の中がチクチクして
優しい言葉が口から出てこない。
と言うより優しい言葉が浮かばない。
「人に優しくできない、思いやれない。
わたし...どうかしてる。」
心の中でその気持ちが彼女を少しづつ
追い詰めていく。けして持たなくいい
罪悪感が増していく。
だから、無理をして、ぎこちない笑顔を作る。
いつもの自分を演じていると実感する。
何気に鏡に映る自分の顔を見て、
息苦しくなった。
私、嫌な顔をしている。
ひとりぼっち、ひとりで抱える感情。
その夜、久しぶりに母親から電話がかかってきた。
「最近、どうなの?ちゃんと食べてる。?」
「うん、食べてるよ。そろそろダイエット
考えなくちゃいけないくらい。」
と、母の声に、泣きそうな自分を堪え
心配を掛けないように
おどけるように答えた。
でも、母親にはそんな尚子の気持ちは
容易に察せられて、だから、
言葉をゆっくり選ぶように話した。
「尚子、人に優しくできないって思い苦しむ時が
もしあったら、そんな時は無理して
優しくしなくていいのよ。それはね尚子、
あなたがあなたに、心を休ませて
上げなさいって言うサインなんだよ。」
尚子の性格をよく知る母からの言葉だった。
心を休ませる...サイン。
尚子はその言葉を胸の中で反芻した。
確かに、心はもう限界だと叫んでいた。
けれど、それと同時に休むことへの
罪悪感があった。休めば、誰かに迷惑をかける。
誰かに失望される。そんな恐怖が、
尚子を縛り付けていた。
母の言葉に、自分の心の現状を悟った尚子は、
翌日、いつもより早く出社した。
いつものようにパソコンを起動させ、
あとはぼんやり画面を見つめたままだ。
デスクに座ってしばらく動けなかった。
頭の中で大きな波の音が聞こえる。
張り詰めていた何かが解けたように
なっていく気がした。
ふと、視界が滲み、
頬を涙が伝った。
「もう...無理だね...尚子...一度やすも。」
そう言った瞬間、尚子は立ち上がり、
部長のデスクへ足早に行った。
「すみません、少し休ませてください。」
尚子は深くお辞儀をする。
部長は驚いた顔をしたが、
次第に優しい笑顔になり
何も言わずに頷いた。
尚子は荷物をまとめ、会社を出た。
外に出ると、真夏の空が高く、
蝉の声が遠くで響いている。
忘れていた暑さを体いっぱいに感じた。
「夏だ!」
電車に揺られながら、尚子は思った。
優しくできない自分を、責めるのは
やめよう。人に優しくできないのは、
自分が壊れそうなほど疲れているから。
心が限界だと教えてくれているから。
尚子は子供の頃から何でも自分が
背負おうとする性格だった。大人にな
なっても変わらないままだった。
家に着き、尚子はカーテンを閉めて
ベッドに倒れ込む。深呼吸をすると、
少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。
昼間に聞いた母の言葉が、胸の奥で
温かく光っていた。
「心を休ませなさいっていうサイン。」
尚子はその言葉を噛み締め、
しばらく目を閉じた。
何もしない自分を、
許してあげようと思った。
誰かに優しくするより先に、
自分に優しくすること。
それはきっと、明日を生きる力になる。
尚子の母親は娘にこう思っていた。
「正義感や責任感を持つこと自体は
いい事だろう。だからといって
一人で抱えこみ心が疲れ果てては
意味がなくなる。
もっと、人を頼ってほしいし、
弱みも相手に見せて力を貸してもらう。
そうする事で人との信頼関係を、
築いていってくれたら、尚子ももっと
幸せになれるのに。」
ただ、それは自分が言い聞かせる
のではなくて、尚子が自分で気づいて
変わっていってくれる事を願った。
大切なことだから自身で気づき
成長していってほしいと。
蝉の声が遠ざかり、代わりに静かな風が
カーテンを揺らした。
すでに尚子は深い眠りへと落ちていた。
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