花の精霊はいじわる皇帝に溺愛される

アルケミスト

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 必死に祈る。

 だが朱音の緊張は杞憂だった。

 身分の高い父を持つ令嬢とその侍女たちにとって、端女などそこらの石と同じ。

 平伏している者になどまったく注意をむけずに歩いていく。

 その様子にほっとしながら、朱音は冷たい手が心をなでていくのを感じた。

 空気、だ。

 自分はここにいるのに、いない。

 ちゃんと存在しているのに、他の人から見ればいないのと同じ。

 気にもとめてもらえない。

 周囲に人がいるからよけいに哀しい。

 もう何日まともに会話を、いや、何日人と眼を合わせていないだろう。 

 自分はなんのためにここにいるの?

 これは生きているといえるの?

 ただ空気を吸って決められたことをこなしているだけ。

 冷たいざらざらする砂に埋まって、そのまま飲み込まれていくような感触。

 つんと鼻の奥が熱くなってきた。

 朱音が小さく鼻をすすると、そのせいでもないだろうに、妃候補の一人が足を止めた。

 きゃっと小さく悲鳴が聞こえる。

「何よ、この泥水っ」

 怒った声が聞こえてきた。

 端女の誰かが歩廊に水たまりをつくっていたらしい。

「誰? ここを掃除したのは!?」

 朱音の隣で、一人がびくりと肩をゆらした。

 そこを担当した端女らしい。

 野菊のように可憐な顔が真っ青になっている。

 駄目だ、端女の身で妃候補の不興をかえば、どんな処罰を与えられるか。

 龍仁に鍛えられた打たれ強い自分ならいいけど、こんなか弱そうな子をそんな目にあわせられない。

 そう考えると朱音は思わず名乗り出ていた。

「私です!」

 隣から驚いたような視線を感じるけど、額を地面につけたまま一気にいう。

「申しわけございません、水をふきとる時間がなくてっ」

「まあ、お前なの?
 沓先が濡れたじゃない、どうしてくれるの!」

 沓くらいいいじゃないと思うのに、その妃候補は苑に降りてきた。

 他の妃候補も暇なのか、おもしろがってついてくる。

「あなた顔をあげなさい。
 後で女官長に言っておかないと。
 名はなんというの」

「白白ともうします」

「は、白白!?」

 どっと笑う声が聞こえた。

「どこの猫の子よ、おもしろいわ、顔を見せなさい」

 それだけは勘弁してほしい。

 朱音は身を縮める。

「何をしてるの、顔をあげなさい、聞こえないの!?」

 駄目だ。

 顔を見せないことにはこの人たちは離してくれない。

 おそるおそる顔をあげると、令嬢と眼があった。

 みるみる彼女の顔が険しくなる。

「緑の眼」

 憎々しげな声がした。

「陛下が飼っておられる猫と同じね。
 胡人なの?」

 悪意をふくんだ声が、周囲に広がる。

 粗相をした端女を叱責する時の比ではない。

 一気にどろどろした陰の気がわきあがる。

 ああ、龍仁の影響力を甘く見ていた。

 彼はこんなにも妃候補たちの負の感情を引きだせる人だったのだ。

(ど、どうしよう……)

 嫌だ、こんなことで怖気づきたくなんかない。

 弱い自分になりたくない。

 朱音が思わず妃候補たちをにらみ返しそうになった時、澄んだ娘の声が聞こえてきた。

「お待ちなさい」

 声をかけたのは歩廊に残った女たちの中心にいる妃候補だった。

 ゆらゆらと背に流した長い髪、どこか龍仁に似た切れ長の艶を含んだ黒い瞳。

 形の良い赤い唇も、すっきり伸びた首筋も、身を飾る数々の豪奢で華やかな歩揺や簪に負けていない。

「香凜様!?」

 朱音に迫っていた妃候補が、あわててふり返る。
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