花の精霊はいじわる皇帝に溺愛される

アルケミスト

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 朱音は見知らぬ場所に立っていた。

 周囲は深い闇、木立の中のようだった。

 どこからともなく、ねっとりとまといつく闇のような声が聞こえてくる。

『日の当たる場所に戻るには、こうするしかないのよ』

 声は、若い女のものだった。

『お願い、私を見て』

 声は必死だった。

 自分に注意を引こうと、血を吐くような叫びを放っていた。

『こんなところで消えるのは、飼い殺しにされるのは嫌っ。
 私はまだやれるわ、機会さえ与えてもらえればっ、だから私たちを消さないで!』

 悲痛な叫びの源には、一人の女がいた。

 闇に似た陰の気が渦巻く苑で、髪をふり乱して空は星ひとつ見えない闇夜。

 だが女は少しも恐ろしくないようだった。

 それは女がこれからおこなおうとしている大逆の罪と比べたらなんでもないことだから。

 女の腕の中には、意識を失った娘の体があった。

 ただの娘ではない。

 孕み女だ。

 そしてまた、自分も身ごもっている。

 ただし二人ともまだ腹はふくれていない。

 月のものが少し遅れているだけだ。

 だがそれだけのことで見捨てられ、〈女〉としての命を絶たれようとしている。

 だから女は今夜ここに来た。

 生き残るために。

 星宿を読み、所定の場所へいけば後宮に巣食う、女怪に会えるという噂がある。

 女怪は寿命の半分と引き換えに、どんな願いでもかなえてくれるという。

 噂は噂だ。

 今のこの世に妖怪がのさばっているとは思えない。

 それでも女はすがりたかった。

『たとえ寿命のすべてを持っていかれたとしても、迷うことなどないわ』

 なんのために自分は崔国の皇帝が統べる後宮へ入ったのか。

 すべて我が一族から皇帝の子をあげるため。

 そしてその子を即位させ、国母を出すためだ。

 一族の期待を受けて、自分はここにいる。

 そのためだけに幼い頃から厳しい教育を受けてきた。

 なのに、〈不幸な偶然〉、〈運命〉などという理不尽なものに未来を絶たれてなるものか。

『姿を現しなさい!』

 女は叫んだ。

 この場所、この時間にここへくればいい、そう、自分は確かにあの老婆に聞いたのだ。

 かつてこの手を使って栄華をほしいままにした醜悪な女に取り入って、聞きだした。

 お願い、あれが噓ではないと、私に示してっ。

 必死の願いが聞き届けられたのか、陰の気が、うごめきだす。

 質量などないはずの気に意志を持つものが生まれて形をとりはじめる。

 女はそれに向かって手をのばした。

『おいで、代償ならたっぷりあげるわ。
 私があなたの伴侶になってあげる』

 願いが成就される予感に、女は笑う。

 その笑みはまさしく獲物を捕らえた毒蜘蛛の笑みだった。

 そして、女は突然、ふりかえった。

 朱音ははっと息をのむ。

 女の眼は確かに朱音を捕らえていた。

 そしてはっきりと言った。

『見たな、お前、私の秘密を……!』

 途端に周りの光景がゆがんだ。

 すべてがぐずぐずと陰の気の中に溶けていく。

 形を失い、朱音を捕らえようとするかのように迫ってくる。

 朱音は本能で悟った。

 この光景は過去のもの。

 陰の気の記憶だと。

 そして今、朱音を押し包むように迫ってくる陰の気には意思がある。

 捕まれば自分は消される。

 陰の気に同化されてしまう。

「い、嫌あっ」

 朱音は腕をふった。

 夢中で逃れようとする。

 その時、激しく叱責する声が聞こえて、朱音の意識を現実に戻した。

「何を見ているのです、端女の分際で!」

 眼をまたたかせて顔をあげると、倒れた令嬢に従っていた侍女が、すごい形相でこちらをにらんでいた。

 朱音はいつの間にかもとの後宮の苑に戻っていた。

 黄昏の光が去りかけた苑のどこにも、あの髪をふり乱した女の姿も、追ってくる陰の気の気配もない。

(た、たすかった……)

 朱音はほっとしながら頭をさげた。

 体中ががくがくふるえていた。
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