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(だって皇太后様の力が強くたって、龍仁様ならきっと言ったことを実行なさるはずで……)
それくらいできる人だ。
彼はお飾り皇帝ではない。
ずっと見ていたから知っている。
でも朱音は同時に見てきた。
龍仁が政務が終わった後も各所に文を届け、人と会っていたことを。
邸に閉じ込められたままだった朱音でも、皇太后の影響力は知っている。
(で、でも大丈夫、龍仁様は負けたりしない。
だから私にさぐれって命じられたんだし!)
自分に言い聞かせる。
さすがに各階位が決定済なら候補たちを調べろと命じるわけがない。
朱音が後宮入りした後に階位が決まったのなら、もう決まったから後宮から引き上げるようにと言ってきてくれるはずで。
(そ、そうよ、だから私は安心して仕事していればいいの。
確かにあの時の龍仁様、口実を考えながらっぽかったけど、きっと気のせいよ!)
絶対に自分の存在は忘れられたりしていない。
信じなきゃ。
もし忘れられていて、後宮でずっと暮らすことになっても前向きに考えればいい。
いっそこのまま女官として頑張って出世するとか、寵姫と戯れる皇帝の身から玉を取り戻すとか。
龍仁だって好きな相手の前ではきっと無防備になるはずで……。
何だろう。
そこまで考えて眼の奥が痛くなってきた。
床についたあかぎれだらけの手に、ぽとりと熱い滴が落ちそうになる。
朱音はあわてて袖で顔をこすった。
(どうしてあの人のことを考えちゃうのよ。
後宮にきてあの嫌味な声を聞かずにすんでほっとしてるのに。
これじゃが恋しくて迎えを待ってるみたいじゃないっ)
そんな自分がしゃくで、つい、朱音は雑巾をふりあげて空に向かって叫んでいた。
「あー、後宮に来られてよかった、意地悪主人と離れられてせいせいした!」
「ち、ちよっと、白白、いきなり何!?」
「って、きゃっ、まずいわ、あれ!」
端女たちがあわてた声をあげて、朱音も背後をふり向く。
血の気が失せる思いがした。
誰もいないと思っていたのに、人がいた。
歩廊の向こうから、よりにもよって皇帝一行が歩いてくるところだった。
「噓、どうしてこんなに早くに?」
「朝賀が終わられてからではなかったの?」
他の端女たちもおろおろしている。
それよりまずい。
(さ、さっきの叫び、聞かれた!?)
いや、距離もあったし、後ろ向きに叫んでいたから声は聞こえても内容までは大丈夫なはず。
真っ青になりつつ、あわてて歩廊から降りて苑にひざをつく。
皇帝一行はゆっくりと近づいてきた。
何人くらいいるのだろう。
先導する宦官や侍従、お供の護衛官などがぞろぞろと朱音の前を通り過ぎていく。
その真ん中に、いた。
龍仁だ。
顔を伏せていてもわかる。
四年も彼の傍仕えをしてきたのだ。
眼をつむっていても彼の足音や気配を間違えたりしない。
もし持ち主のわからない百の腕が並べられていたとしても、自分は眼をつむったままどれが彼のものか当てられるだろう。
皇帝らしい堂々たる足取りで、龍仁が通り過ぎていく。
朱音の前まできた時、一瞬、龍仁が止まったような気がした。
そして彼の眼にさらしているうなじの辺りに視線を感じたような。
でも、それだけだ。
龍仁は何も言わず歩み去った。
お供の官たちも後に続く。
あっという間に一行は見えなくなって、朱音たち端女だけが取り残される。
周りの端女たちがほっと息をはく音が聞こえた。
「あー、よかった。
何事なく通りすぎてくださって」
「叱責されたらどうしようって、私、陛下のお姿を盗み見する勇気もなかったわ。
こんな機会、もう一生ないでしょうに。
ひと目、お沓の先だけでも見て、親に自慢したかったなあ」
肩の力を抜いた端女たちが、きゃいきゃいと明るい声で話している。
朱音もゆっくりと顔をあげた。
なんだろう。
自分が急に空っぽになった気がした。
いくら朱音が名を偽っていても龍仁のことだから、さりげなく皆にわからないように嫌味を言ってくると思っていたのに。
顔を伏せていたから朱音とわからなかったのだろうか。
ずりと、前に香凜に踏まれた手が痛くなった。
別に龍仁に泣きつきたいわけじやない。
もう傍仕えの女端ではないのだから声をかけてもらおうと思っていたわけでもない。
ただ、もしかしたら何かあるかもしれない、そう気を張っていたから少し拍子抜けしただけだ。
そう、少し気が抜けただけ。
妙に胸が苦しくなって視界がぼやけているのは、決して寂しいからじやない……。
「どうしたの、白白。
泣いてるの?」
杏佳に心配そうにのぞき込まれて、朱音は自分だけ地面に座ったままなのに気がついた。
他の端女たちはもう掃除道具を手に立ちあがっていて、こちらをけげんそうに見ている。
「立てないの?
もしかして陛下の前で叫んだりしたから緊張してた?」
「ご、ごめんなさい、そうみたい……」
眼をこすって立ちあがる。
朱音は傍らの水桶を、現実にすがるように持ちあげた。
考えちゃ駄目、考えちゃ駄目と自分に言い聞かせる。
でないともう二度と立ちあがれなくなる、そんな気がした。
それくらいできる人だ。
彼はお飾り皇帝ではない。
ずっと見ていたから知っている。
でも朱音は同時に見てきた。
龍仁が政務が終わった後も各所に文を届け、人と会っていたことを。
邸に閉じ込められたままだった朱音でも、皇太后の影響力は知っている。
(で、でも大丈夫、龍仁様は負けたりしない。
だから私にさぐれって命じられたんだし!)
自分に言い聞かせる。
さすがに各階位が決定済なら候補たちを調べろと命じるわけがない。
朱音が後宮入りした後に階位が決まったのなら、もう決まったから後宮から引き上げるようにと言ってきてくれるはずで。
(そ、そうよ、だから私は安心して仕事していればいいの。
確かにあの時の龍仁様、口実を考えながらっぽかったけど、きっと気のせいよ!)
絶対に自分の存在は忘れられたりしていない。
信じなきゃ。
もし忘れられていて、後宮でずっと暮らすことになっても前向きに考えればいい。
いっそこのまま女官として頑張って出世するとか、寵姫と戯れる皇帝の身から玉を取り戻すとか。
龍仁だって好きな相手の前ではきっと無防備になるはずで……。
何だろう。
そこまで考えて眼の奥が痛くなってきた。
床についたあかぎれだらけの手に、ぽとりと熱い滴が落ちそうになる。
朱音はあわてて袖で顔をこすった。
(どうしてあの人のことを考えちゃうのよ。
後宮にきてあの嫌味な声を聞かずにすんでほっとしてるのに。
これじゃが恋しくて迎えを待ってるみたいじゃないっ)
そんな自分がしゃくで、つい、朱音は雑巾をふりあげて空に向かって叫んでいた。
「あー、後宮に来られてよかった、意地悪主人と離れられてせいせいした!」
「ち、ちよっと、白白、いきなり何!?」
「って、きゃっ、まずいわ、あれ!」
端女たちがあわてた声をあげて、朱音も背後をふり向く。
血の気が失せる思いがした。
誰もいないと思っていたのに、人がいた。
歩廊の向こうから、よりにもよって皇帝一行が歩いてくるところだった。
「噓、どうしてこんなに早くに?」
「朝賀が終わられてからではなかったの?」
他の端女たちもおろおろしている。
それよりまずい。
(さ、さっきの叫び、聞かれた!?)
いや、距離もあったし、後ろ向きに叫んでいたから声は聞こえても内容までは大丈夫なはず。
真っ青になりつつ、あわてて歩廊から降りて苑にひざをつく。
皇帝一行はゆっくりと近づいてきた。
何人くらいいるのだろう。
先導する宦官や侍従、お供の護衛官などがぞろぞろと朱音の前を通り過ぎていく。
その真ん中に、いた。
龍仁だ。
顔を伏せていてもわかる。
四年も彼の傍仕えをしてきたのだ。
眼をつむっていても彼の足音や気配を間違えたりしない。
もし持ち主のわからない百の腕が並べられていたとしても、自分は眼をつむったままどれが彼のものか当てられるだろう。
皇帝らしい堂々たる足取りで、龍仁が通り過ぎていく。
朱音の前まできた時、一瞬、龍仁が止まったような気がした。
そして彼の眼にさらしているうなじの辺りに視線を感じたような。
でも、それだけだ。
龍仁は何も言わず歩み去った。
お供の官たちも後に続く。
あっという間に一行は見えなくなって、朱音たち端女だけが取り残される。
周りの端女たちがほっと息をはく音が聞こえた。
「あー、よかった。
何事なく通りすぎてくださって」
「叱責されたらどうしようって、私、陛下のお姿を盗み見する勇気もなかったわ。
こんな機会、もう一生ないでしょうに。
ひと目、お沓の先だけでも見て、親に自慢したかったなあ」
肩の力を抜いた端女たちが、きゃいきゃいと明るい声で話している。
朱音もゆっくりと顔をあげた。
なんだろう。
自分が急に空っぽになった気がした。
いくら朱音が名を偽っていても龍仁のことだから、さりげなく皆にわからないように嫌味を言ってくると思っていたのに。
顔を伏せていたから朱音とわからなかったのだろうか。
ずりと、前に香凜に踏まれた手が痛くなった。
別に龍仁に泣きつきたいわけじやない。
もう傍仕えの女端ではないのだから声をかけてもらおうと思っていたわけでもない。
ただ、もしかしたら何かあるかもしれない、そう気を張っていたから少し拍子抜けしただけだ。
そう、少し気が抜けただけ。
妙に胸が苦しくなって視界がぼやけているのは、決して寂しいからじやない……。
「どうしたの、白白。
泣いてるの?」
杏佳に心配そうにのぞき込まれて、朱音は自分だけ地面に座ったままなのに気がついた。
他の端女たちはもう掃除道具を手に立ちあがっていて、こちらをけげんそうに見ている。
「立てないの?
もしかして陛下の前で叫んだりしたから緊張してた?」
「ご、ごめんなさい、そうみたい……」
眼をこすって立ちあがる。
朱音は傍らの水桶を、現実にすがるように持ちあげた。
考えちゃ駄目、考えちゃ駄目と自分に言い聞かせる。
でないともう二度と立ちあがれなくなる、そんな気がした。
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