虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第一話「ドリームランド: 桐生圭介の場合」

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 圭介は毎晩、同じ手順を繰り返した。

 照明を落とし、椅子に腰を下ろし、イヤホンを耳に押し込む。
 古い呪文の音声ファイル。低い詠唱。意味のわからない言語。


 だが、あの夜のようにはならなかった。


 あの夜だけが特別だった。

 夢の中で見た巨大な階段。
 塔。光の川。あの美しさ。現実よりも鮮明な色彩。

 それ以来、一度もそこに戻れなかった。
 日数を重ねるごとに渇望だけが大きくなっていった。

 仕事中も、取引先との会議中も、彼の頭の片隅には常にあの光景があった。
 夢ではない。幻覚でもない。あれは現実に存在している。


 そうでなければ、なぜ音だけが残っている?


 最初に聞こえたのは足元だった。
 オフィスの床下。マンションの廊下。通勤電車のホーム。
 どこにいても、低い唸り声などあらゆる音が聞こえた。

 耳鳴りではなかった。
 耳の奥ではなく、確かに下から響いていた。

 音は言葉のようでもあり、雑音のようでもあった。
 複数の声が重なり、笑い、囁き、うめき、時に何かを訴えているようにも聞こえた。


 数日後、圭介は気づいた。


 この音はランダムではない。
 特定の条件で、大きさが変わる。

 街中で。オフィスで。家の中でも。
 人に近づくと音が大きくなる。


 最初は偶然だと思った。


 だが三日観察して確信した。

 同じフロアの同僚。昼休みに入ったカフェの客。通勤電車の隣の乗客。
 彼らに距離を詰めると、音が強くなる。

 まるでその人間の内側から響いているように。

 圭介は試した。
 一人ずつ、慎重に。

 隣の席の女事務員に近づいた。音はしない。
 出入りの業者の男に歩み寄った。やはりしない。

 だが、総務部の中年課長に三メートルまで近づいた瞬間…


 音がした。
 それもはっきりと。


 課長が何をしていても関係なかった。
 書類をめくっていても、電話をしていても、その体のどこかから声が響いていた。


 足元から、ではない。
 彼自身から音が漏れているように聞こえた。


 さらに別の日。


 夜の繁華街。バーのカウンター。
 隣の席の男からも音がした。

 男はただグラスを傾けていただけだ。表情は普通。だが音は確かにあった。
 低く、深く、幾重にも重なり、まるで誰かが必死に何かを訴えているようだった。


 その頃からだ。


 圭介は気づき始めた。
 不特定多数の視線が、自分に向けられていることに。

 オフィスのエレベーター。
 いつも同じ時間に乗り合わせる社員たち。
 その中の一人が、時々こちらを見ていた。

 視線は鋭くはない。無表情だ。だが妙に長い。

 取引先の応接室。
 担当者が資料をめくる手を止め、一瞬だけ圭介を見た。

 理由はない。だが目が合った瞬間、心臓が冷たくなる感覚があった。


 街中でも同じだ。


 雑踏の中で、通りすがりの誰かが振り返る。
 カフェのレジに並んでいると、前の客が一瞬だけこちらを見る。

 それは敵意でも好奇心でもなかった。


 ただ見ている。


 圭介は理解した。
 音がする人間と、視線を向けてくる人間は…

 同じだ。

 そこからだ。
 彼の生活は静かに崩れ始めた。
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