虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第一話「ドリームランド: 桐生圭介の場合」

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 夜の街は、週末の喧噪に包まれていた。
 ネオンの光、飲み屋のざわめき、信号機の電子音。
 圭介は人混みを縫いながら歩いていた。


 イヤホンはしていない。だが彼の耳には、相変わらずあの音があった。


 低い唸り声のような、地下深くから響いてくる囁き。
 何層にも重なり、意味はわからないが、確かに声だった。

 ここ数日、音のする人間に視線を向けられることが増えた。
 だが彼らは何もしてこない。ただ見ているだけだった。

 圭介はスマホで調べ続けていた。
 都市伝説、精神疾患、幻聴、そして……ドリームランド。
 結論は出ない。だが音だけは確かにそこにあった。



 その時だった。



 背後から突然、腕を掴まれた。


「―ッ!?」


 引きずり込まれた。狭い路地。物陰。
 力は想像以上に強かった。
 追い剥ぎか? 強盗か?
 そう思った瞬間、男の顔を見て凍りついた。


 ホームレスのような老人だった。


 髪は伸び放題。服はボロ布のように汚れ、顔には深い皺。
 だがその瞳だけが異様に光っていた。


 そして、この老人からも音がした。


 鈍く、か細い音。
 今まで聞いたどの音よりも、古びて、錆びて、重かった。


「おい……」


 老人が低く唸った。
 口臭と酒と血の匂いが混じった息が圭介の顔にかかる。


「お前……綺麗な音がするな……」


 耳元で囁かれた瞬間、圭介の背筋に氷が這い上がった。

 老人の片手には刃物。錆びた包丁のようなもの。
 光を反射して冷たく光った。
 圭介は声が出なかった。
 老人の膝が圭介の腹を押さえつける。馬乗りだ。
 逃げられない。

 刃物が振り上げられた。


「どこだ……どこにあるんだ……?」


 老人の声は震えていた。狂気と執念が入り混じった声。


「教えろよォ!!」


 刃物が振り下ろされた。


 圭介は必死に身をよじった。
 金属の軌跡が頬をかすめ、壁に突き刺さる。


 錆びた匂い。老人の汗。

 圭介は腕を伸ばし、老人の肩を思い切り押し返した。


「離れろッ!」


 体重が傾いた。老人のバランスが崩れる。

 次の瞬間、老人の体が道路に転がり出た。
 街灯の下、車のヘッドライトが迫っていた。


 クラクション。ブレーキ音。


 そして、



 ドシャッ…

 ……

 …



 車のフロントガラスに老人の頭がぶつかった。
 首の角度がありえない方向に折れ曲がる。
 そのまま車体の下に巻き込まれ、タイヤが頭部を踏みつけた。


 ぐにゃり、と嫌な音がした。
 骨と肉が同時に砕ける音。


 車は急停車した。

 運転手が飛び出してくる。周囲の人々が悲鳴を上げる。

 だが圭介は動けなかった。

 目の前で老人の体がまだピクピクと痙攣していた。
 手が空を掴み、足が痙攣し、やがて完全に動かなくなった。



 その瞬間だった。



 音が消えた。
 まるで空気が抜けるように。
 低い唸り声も、囁きも、重なり合う声も…
 一切が。


 圭介の耳には静寂だけが残った。
 驚くほどの静けさ。
 街の喧噪も、車のクラクションも、すべてが遠ざかったように感じた。
 圭介は呼吸を忘れた。

 胸の奥から何かが溶けていくような感覚。
 全身が軽くなり、意識が白くなる。


 心地よかった。


 言葉にできないほどの安堵。
 苦痛も不安も消え、体の芯まで静けさに包まれる。
 まるで初めから音などなかったかのように。


 遠くで誰かが叫んでいた。


 救急車を呼べ、という声。警察を呼べ、という声。
 だが圭介にはもうどうでもよかった。

 耳の奥に残っていたあの声が、跡形もなく消えていたことが――
 何よりも重要だった。

 圭介はゆっくりと立ち上がった。
 足元には血だまりと、動かなくなった老人。
 だが圭介の耳には、もう何の音も聞こえなかった。
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