虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第一話「ドリームランド: 桐生圭介の場合」

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 警察署のロビーを出たとき、時計は22時を回っていた。


 長い事情聴取だった。
 警官たちは皆、困惑していた。
 彼が路地で襲われたこと。
 襲ってきた老人が車に跳ねられて死んだこと。
 圭介が被害者であること。


 彼が語ったのは事実だけだ。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 だが、彼自身の心は…



 晴れやかだった。



 本来なら気が滅入るはずだった。
 人が目の前で死に、血が飛び散り、頭が砕ける光景を見た。
 しかも襲われたのは自分だ。


 普通なら恐怖と疲労で押し潰されるはずだった。

 だが圭介は違った。


 帰り道の街灯がやけに明るく見えた。
 コンビニの看板。車のヘッドライト。遠くのビルの窓明かり。

 すべてがいつもより鮮やかに、輝いて見えた。


 夜風は心地よく、街の騒音さえ音楽のように聞こえた。
 彼の中から、あの音が消えていた。
 それが理由だと、圭介は理解していた。

 歩道橋を渡るとき、彼はふと足を止めた。
 ここ数週間、耳の奥にこびりついていたあの声。
 低く、重く、無数に重なった囁き。
 今は一切聞こえない。
 まるで初めから存在しなかったかのように。


 彼は深く息を吸い込んだ。

 冷たい夜気が肺に入り、頭の奥まで澄み渡る感覚があった。


 …解放


 その言葉が脳裏に浮かんだ。

 老人が車に跳ねられた瞬間、音が消えた。
 あのときの安堵感。恍惚。
 彼の世界は今、静寂と光に満ちていた。


 自宅に着いたのは23時を過ぎていた。
 タワーマンションのエントランス。
 いつもと同じ照明、同じフロント。

 だが圭介の目にはすべてが新鮮に映った。

 エレベーターのランプ。
 廊下のカーペット。
 ドアノブの金属の冷たさ。


 そのすべてが現実離れした輝きを帯びていた。


 部屋に入り、靴を脱ぎ、上着をソファに投げた。
 シャワーは浴びなかった。
 眠気が一気に押し寄せてきていた。

 ベッドに横たわる。天井の灯りを消す。
 カーテンの隙間から街の光が差し込み、天井にかすかな模様を作った。


 圭介は目を閉じた。


 その瞬間、意識が沈んでいった。
 重力が消え、身体がふわりと浮かび上がる感覚。
 耳鳴りのような高い音が遠ざかり、かわりに水の流れる音が近づいてきた。
 暗闇が溶け、色彩が滲み出す。
 気がつくと、彼は巨大な階段の上に立っていた。



 ドリームランド。



 夜空には無数の星々。
 現実のどの空よりも低く、大きく、光を放っていた。

 塔の上で風が旗を揺らし、澄んだ音を鳴らした。
 街の端には光の川が流れ、湖のように広がっていた。
 水面は青白く輝き、街全体を幻想的に照らしていた。


 やはり、現実とは比べものにならないほど美しかった。
 石畳の道。異国の建築。金色の尖塔。
 遠くの丘には花畑が広がり、風に揺れる音が音楽のように響いた。


 圭介は歩き出した。
 足音がやけに鮮明に響く。
 空気は甘く、風は柔らかい。

 前に進むほど、心が軽くなっていった。
 あの音も、視線も、現実の不安も、この場所には存在しなかった。


 ここではすべてが調和し、静謐で、完璧だった。


 圭介は理解した。
 自分がこの場所を求めていた理由を。
 現実では得られない安らぎ。
 恐怖も痛みもない世界。


 ここだけが彼を受け入れてくれる。


 風が吹いた。
 塔の鐘が鳴った。
 遠くで光が瞬いた。

 圭介はただ、その美しさに立ち尽くしていた。
 夢の中の都市は、彼を歓迎しているように見えた。
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