虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第一話「ドリームランド: 桐生圭介の場合」

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 朝の街は、いつもと変わらない顔をしていた。
 通勤の人波、バスのエンジン音、朝食のチェーン店から漏れるコーヒーの香り。
 すべてが“いつも通り”を装っている。


 だが俺の胸の内では、昨夜から続く不協和音が鳴り止まなかった。


 恐る恐るオフィスに向かう。
 足取りが妙に重い。
 昨日の光景が脳裏にこびりついて離れない。
 あの血の気配、折れ曲がった7番アイアン、そして……消えた彼女。


 エレベーターの扉が開き、職場のフロアに足を踏み入れた。


 そこにはいつもの景色が広がっていた。
 いつものデスク、いつもの上司、いつもの雑音。
 電話の呼び出し音、書類をめくる音、隣の席のタイピング。
 すべてが日常のBGMのように溶け合っている。


 いや、違う。


 デスクの向こうに“彼女”がいた。


「おはようございます、桐生さん」


 その声に、俺の体は反射的にのけぞった。
 心臓が胸を破って飛び出しそうになる。
 彼女はにこやかに微笑んでいる。
 まるで昨夜のことなど一切なかったかのように。


 だが…
 あの音がしない。


 昨日まで、彼女からはあの“音”がしていた。
 言葉にならないが、確かに聞こえていた。

 それが今はまるでしない。

 彼女の動作は自然で、声も表情も昨日と同じだ。だが、俺の直感は叫んでいた。


 …彼女じゃない。


 手のひらに汗が滲む。
 視界の端で同僚たちが笑い、書類を抱えて歩き回る。
 上司が誰かを呼ぶ声がする。
 周囲は普段通りの喧騒に包まれている。


 こんなにも騒々しいのに、この女が音を持たないという違和感。


 まるで絵の中に入り込んだ異物のように、そこに“いる”だけの存在。

 俺は挨拶を返すこともできず、ただ彼女を見つめてしまった。
 視線が合った。彼女は首をかしげ、柔らかく笑う。


「どうかしましたか?」


 喉がひりつく。声が出ない。
 昨日の惨劇が、折れたアイアンが、頭の奥で警告のように点滅している。

 違う。これは彼女じゃない。

 周りの誰も気づいていない。俺だけが異常を知っている。


 ドリームランド。


 あの世界に至った瞬間から、何かが俺を試している。
 そうとしか思えなかった。
 あの異様な高揚感、音の消えた静寂、そして今、音を持たない彼女。


 これは罰なのか、それとも招待なのか。

 俺をあの世界に引きずり込みたいのか、それとも俺自身が望んでいるのか。


「桐生くん、資料頼むよ」


 上司の声が飛んできた。

 俺は反射的に返事をし、席に戻る。
 彼女はそんな俺の様子を見て、また柔らかく笑った。
 その笑顔には、昨日までの温度がなかった。


 いや、昨日までの彼女自身が、もういないのかもしれない。

 背筋に冷たいものが走る。心臓が耳の奥でうるさく鳴る。

 だが、俺以外の全員は、いつも通りの世界を生きていた。

 この違和感を共有できる者は、どこにもいない。

 俺だけが、知ってしまったのだ。


 ドリームランドが、
 俺を望んでいることを。
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