虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第一話「ドリームランド: 桐生圭介の場合」

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 夜の気配が濃くなっていく。
 暗闇は全てを曖昧にし、現実と非現実の境界を溶かしていく。


 その中で、俺は膝をつき、震える手で男の頭蓋を押し広げていた。


 やめろ。


 内側から聞こえる理性の声が、かすかに制止をかける。
 だが耳にまとわりつく“あの音”が、全ての思考をかき消していく。

 あの音が鳴っている限り、俺はまともではいられない。
 人の声とも獣の鳴き声ともつかない、耳鳴りのようでいて、確かに世界のどこかで誰かが囁いている気配。


 俺はもう何度もこれに追い詰められた。
 眠りの中でも、街の中でも、職場の中でも…
 あのざわめきは決して止まなかった。


「これもお前たちからする“音”のせいなんだ」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。
 ただ口が勝手に動き、怒りとも憎しみともつかない感情が、吐息とともに漏れ出す。

 ぐっ、と手に力を込める。
 骨の軋む感触の後、不意に音が止んだ。

 その瞬間、胸の奥に押し寄せてきたのは、罪悪感でも恐怖でもなかった。



 高揚感。



 世界がようやく静けさを取り戻したという、甘美な安堵。
 あれほど煩わしかった音が消え去り、俺の中に広がるのは、空っぽで、だがどこか祝福めいた静寂。


 …ようやく、終わった。


 そう思った。
 だが、その時だった。



 カツッ、カツッ。



 遠くから、規則正しい靴音が近づいてくる。

 一歩ごとに、また別の音が重なる。
 今度は耳鳴りではない。確かに、この現実の中で鳴っている足音だ。


 俺の背筋が、ぞわりと粟立った。


 その“足音”には、“音”がある。


 あの男からしていたのと同じ、いや、それ以上に濃い音が、鼓動のように響いてくる。


 何かが来る。
 しかも、俺の知るこの世界の存在ではない。


 暗闇の奥で、影がゆっくりと輪郭を得ていく。

 俺は手にした刃物を握り直した。
 指先に汗がにじみ、呼吸が荒くなる。


 近づいてくる気配は、俺の想像を超えて重い。
 まるで空気そのものが重力を増したかのように、身体が鈍くなっていく。

 暗がりの向こうで、シルエットが立ち止まった。


「誰だ、おま」


 言いかけた言葉が、最後まで出なかった。

 世界がぐにゃりと揺れたように感じた次の瞬間、俺の視界は急激にスライドし、地面に叩きつけられる。


 何が起きたのか理解できない。
 視線だけがまだ動き、見下ろした先で、自分の下半身がまだ立っていることに気づいた。


「ふ……へ?」


 乾いた笑いが、喉の奥から洩れた。
 だがその直後、胸の奥から血が噴き上がり、口の端からあふれ出す。

 視界の端で、自分の下半身が膝をつき、やがて地面に崩れ落ちるのが見えた。


 あぁ…。


 聞こえてはいないが俺は自分の音が、急速にしぼんでいくのを感じていた。
 これまで世界を満たしていた音の一部として鳴っていた自分自身の気配が、砂のようにさらさらと消えていく。


 カツッ、カツッ。


 足音が再び近づき、やがて暗がりの中から姿を現した。

 黒い影。


 鎧のような身体。
 だがそれは金属ではなく、どこか有機的で、呼吸する生き物の皮膚のように見えた。
 鎧の隙間からは、無数のうねる触手のようなものがゆっくりと蠢いている。

 その存在が俺の上半身を抱き上げるようにして、初めて口を開いた。


「外なる神々に踊らされた者よ。せめて、人としてこの世を去れ」


 声は低く、重く、だが不思議と温かみがあった。
 恐怖ではなく、安らぎを与える響き。

 俺は血で霞む視界の中で、その顔を見ようとした。
 だが兜の奥は闇に沈み、何ひとつ読み取れなかった。


「俺は……もう、あそこには行けないのかな」


 口が勝手に動いた。
 気づけば、胸の奥の本音が言葉になっていた。

 もう一度…あのドリームランドに。
 あの静寂と幸福と狂気の広がる、あの場所に。

 黒い影はしばらく黙っていた。
 鎧の隙間のうねりだけが、ゆっくりと動き続けていた。

 そして言った。


「大丈夫だ。もっといい場所がお前を迎えてくれる…」


 その声音は、どこか哀しげだった。
 まるでこの世のすべての終わりを知っている者の、深い慈悲の響き。


「そっか……よかった…」


 胸の奥で何かがほどける音がした。
 力が抜けていく。

 いつの間にか、どこにいても聞こえた“あの音”は完全に消えていた。
 世界が静まり返り、夜風の冷たさだけが頬を撫でる。

 それでも不思議と恐怖はなかった。

 これまでの高揚とも違う、穏やかな眠気が身体を満たしていく。
 俺はただ、そのまま闇に身を委ねた。

 最後に見たのは、黒い影がどこか祈るように立ち尽くす姿だった。

 そして、世界は完全に静寂に包まれた。
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