虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」

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 アパートの二階、薄暗い通路の先にある古いドア。
 その横に、白地に黒文字で「坂口」と書かれた小さな表札が掛かっている。
 街灯が遠く、光は頼りなく、夜の湿気が階段の手すりをじっとりと濡らしていた。

 買い物袋を片手に立ち止まり、家の鍵を取り出す。玄関の取手に指が触れた瞬間。


「坂口文子さん、ですよね」


 不意に背中へ声が落ちてきた。

 息を呑み、文子は反射的に振り返る。夜の細い通路、階段の手前に二人の男女が立っていた。
 スーツ姿。暗がりの中でも姿勢は真っ直ぐで、こちらをまっすぐ見ている。


「夜分に失礼します」


 女が名刺を差し出した。低く落ち着いた声だ。


「私、警視庁捜査一課の兼松茜と申します」


 すぐ横にいた男も軽く会釈する。
 目つきが鋭いが、声は落ち着いている。


「同じく、東城司です。…少し“柊木真琴”さんのことでお話を伺いたいのですが」


 文子の手がドアの取手から離れた。
 心臓の鼓動が耳の奥で高鳴る。数日間の真琴の様子の違和感。

 兼松が淡々と続ける。


「急で申し訳ありません。数分だけで結構です。場所はお任せします」


 文子は迷った。ドアの向こうは彼女の私生活だ。
 狭い部屋に刑事二人を通す気にはなれない。
 しかし、柊木真琴の件それは彼女自身、ずっと胸に引っかかっていた。


「……ええ。近くにファミレスがあります。そこでもいいですか?」

「ご協力、感謝します」


 兼松が深く頷いた。東城も軽く頭を下げる。
 二人は無駄のない動きで踵を返し、文子を先導することもなく並んで歩き出す。
 その後ろに文子が続いた。

 夜のアパートの通路は狭く、三人が横に並ぶことはできない。
 階段を降りる足音がコンクリートに反響し、妙に規則正しいリズムを刻む。


 この人たち、本当にただの刑事なのだろうか。


 文子は歩きながら横目で二人を見た。
 兼松茜は三十代前半だろうか。
 髪をきっちりと後ろで結び、表情は冷静そのもの。
 感情の揺れを一切表に出さない。
 都会的で、仕事の匂いがする女性だ。

 一方の東城司は三十代後半。
 肩まで伸びた髪にゆるいパーマ。
 スーツの上着は皺が寄り、ネクタイもわずかに曲がっている。
 刑事というより、夜の街に流れてきたサラリーマンのような気配。
 気怠そうな目つきの中に、時折見せる鋭い目つきだけがそれらしさを醸し出している。


 文子は自分の足音がやけに大きく響くことに気づいた。
 二人の足取りがあまりにも静かだからだ。


 階段を降り切ると、夜風が頬を撫でた。
 アパートの前の細い路地を抜ければ、大通りに出る。
 そこに二十四時間営業のファミレスがある。
 文子はいつも仕事帰りに時々立ち寄る店だが、今夜ほど落ち着かない気分で入ることになるとは思わなかった。

 三人は並んで歩いた。互いに口を開かない。
 街灯の下を通るたびに、兼松の横顔が一瞬だけ明るみに出る。
 無表情。だがその沈黙は、ただの静けさではない。
 まるで言葉を選んでいるかのような、そんな緊張が張り詰めていた。

 東城がふと視線を横に向けた。
 夜道の奥、ビルの影。誰もいないはずの場所を、一瞬だけ鋭い目で探る。
 その仕草は、刑事というより何か別の…もっと違うもののように見えた。

 文子は無意識に鞄の持ち手を握り直した。
 心の奥に、小さな警鐘が鳴る。
 彼らがこれから話すことは、きっと平凡な日常の外側にある。
 そんな予感が、歩くたびに強まっていった。


 やがてファミレスの明かりが見えてきた。
 赤と白の看板が夜の街にぽつんと浮かび、ガラス越しに客の姿がちらほらと見える。


「ここで構いませんか?」

「ええ、ありがとうございます」


 兼松は短く返事をした。
 東城は周囲を一瞥し、先にドアを押さえた。
 仕草は自然だが、どこか護衛のような気配を帯びている。


 文子は胸の奥に重たいものを抱えたまま、店内の光の中へ足を踏み入れた。
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