虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」

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 三人は窓際の四人掛けに座った。
 ガラス越しにネオンがにじみ、テーブルの木目に薄い光の川をつくる。
 厨房の油の匂い、遠くで皿が擦れる音。
 どこにでもある夜のファミレスだが、今日だけは周囲の色が一段トーンダウンして見えた。


「何か食べますか?」


 兼松茜が、置かれた水のコップを文子の前へそっと寄せながら訊いた。
 抑えた声。会話の温度を一定に保つ術を知っている人の話し方だ。

 昼から何も食べていないはずなのに、腹は鳴らない。
 胸の奥が張り付いて、空腹という感覚がどこかへ置いてきぼりになっていた。


「…いえ、大丈夫です。コーヒーで」


 文子が答えると、東城司が指先だけ軽く上げてウェイトレスを呼ぶ。
 注文を告げる間、彼の視線は店内を一周して戻ってくる。


「コーヒーを三つ、ホットで」


 簡潔に告げると、東城はタブレットをテーブル脇に伏せて置いた。


「お疲れのところ押しかけてしまって、すみませんでした」


 兼松は軽く頭を下げると、姿勢を戻し、目線の高さを合わせた。


「柊木真琴さんと親しい方として、坂口さんのお名前が上がりまして」


 文子はうなずく。


「真琴とは同期です。プライベートでも、よく一緒に出かけてました。
 3ヶ月前くらいに二人で熱海まで行ったりして…」


「そうでしたか。少し伺います。最近、彼女に何か“変化”はありませんでしたか。
 仕事でも私生活でも、気づいたことがあれば」

 変化。言いかけて、喉で言葉が絡まる。
 笑い方、瞬きの間、声の温度。全部“ほとんど同じ”なのに、どこかが違う。
 説明できるほど輪郭が立っていない違和感は、証言にならない。


「……いえ、特には」

「わかりました」


 否定を責める色はない。兼松は頷くだけで、次の質問を急がない。
 その代わり、東城がタブレットを起こした。


「少し映像を見ていただけますか」


 そこには桐生の住むマンションの監視カメラの映像が流れていた。

 天井灯が等間隔に並び、白い光が床のタイルを切り取るように照らしている。
 カメラ特有の荒い粒子が闇の奥でざわめき、遠くの非常口のランプが緑色に滲んでいた。
 フレームの袖から二人の影が現れる。

 先に男、桐生圭介。

 落ち着いた足取りでカードキーを指に挟み、一直線に自分の部屋の前へ向かう。
 その後ろから、柊木真琴が笑みを浮かべながらついてくる。
 彼女の髪が軽く揺れ、何かを楽しそうに語りかけている様子が、音のない映像でも伝わってきた。


「桐生圭介さんと柊木真琴さん。日時はこのとおりです」


 説明は最小限。文子は自然と身を乗り出した。
 真琴が振り返って笑う。見慣れた笑顔。
 少し顎が上がる癖も、肩の力の抜け方も、彼女のものだ。

 胸の内側が、音もなく破れた。

 理由はわからない。けれど涙は理由を待たない。
 器の縁から静かに溢れる水のように頬を伝い、止められなかった。
 自分の体なのに、他の体かの様に制御が効かない。


「坂口さん」


 兼松の声が近づく。白いハンカチが差し出される。受け取る指先が震え、コーヒーの湯気が揺れた。


「……ごめんなさい。何でだろう……そんなはず、ないのに」

「いま感じたことを、そのままで構いません」


 兼松の言葉はやわらかいが、余計な色は乗らない。文子は涙を拭い、画面を指さす。


「おかしいですよね。今映っているのは真琴なんです。
 でも、最近の彼女はこの真琴じゃない気がするんです」

 数秒の沈黙。店のざわめきが一度近づき、すぐ遠ざかる。
 東城は再生バーを進めた。二人がドアの前で立ち止まり、桐生が鍵を差す。
 開く。真琴が振り返り、何か言う。音声はない。二人は室内に消える。
 閉まるドア。無人の廊下。時間が通り過ぎる。

 静止した画の上で、見えないものだけが動いている気配があった。

 しばらくして、ドアが再び開く。

 出てきたのは……真琴だった。
 髪を耳にかけ、バッグの紐を肩で直し、やや速い歩幅。
 映像としては何の変哲もない。だが、皮膚の下が逆撫でされる。


 違う。


 どう違うのか、言葉が追いつかない。
 歩幅のリズムか、重心の置き方か、視線が止まる位置か。
 ほんの半拍ずつズレている。そのズレは、長くそばにいた人間にだけ見える幅だ。


「……やっぱり、違う」


 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
 泣き止んだ後の透明な音。ハンカチに残る涙の冷たさが、指先に戻ってくる。


「理由を、言語化できる範囲で」


 兼松の視線は真っ直ぐで、揺れない。


「笑い方。口角の上がる角度が、ほんの少し違います。
 それと……真琴は階段を降りる時、左手で手すりに触れる癖があるんです。
 映像の彼女は、それをしない。細かいんですけど」

「ありがとうございます」


 兼松は短く礼を述べ、視線だけで東城に合図した。
 東城がタブレットの画面をスワイプする。動画が一旦縮小され、別のサムネイルがいくつか並ぶ。
 蛍光灯の光が平らに落ちるワンルーム。
 整然とした机。床に走る細いスリキズに、白いメジャーが添えられている。
 撮影角度の違う室内写真が数枚、淡々と切り替わった。

 説明は付かない。だが、映像の並び自体が「確認済み」の手順を匂わせる。
 むやみに触れられた痕はない。
 積み重ねられた紙束の端、レンズに映り込む蛍光灯の反射、置かれたままのカップ…どれも静かだった。

 東城はすぐに画面を戻し、机の端にそっと伏せた。


「いまのは参考までに」


 兼松がコーヒーに口をつけ、カップを正面に戻す。


「坂口さん。確認できる事実と、感じられた印象は、分けて記録します」


 淡々とした言い回し。否定はしない。ただ、境界線は引いておく……そんな距離感だ。


「……はい」


 文子はうなずいた。胸の中のざらつきは消えない。
 コーヒーに口をつける。苦味が舌に触れた瞬間、喉がきゅっと縮む。
 飲み込めない。置いたカップの底が、コト、と軽い音を立てた。


「坂口さん」


 兼松が姿勢を正す。


「彼女の最近の行動で、普段と違っていた時間帯や場所、連絡の取り方の変化はありますか。
『思い込みかもしれない』という前置きは不要です。時系列だけで結構です」


 文子は考え、ぽつりぽつりと話した。
 夜にメッセージの既読がつく時間がずれたこと。
 ランチの誘いの断り方が、定型句に近くなったこと。
 資料の共有フォルダで、保存の癖が微妙に変わったこと。
 どれも些細で、だが長く一緒に働いた者にしか拾えない違いだ。

 兼松は遮らず、必要なところだけを短く確認する。質問は具体から具体へ、寄り道をしない。彼女の“現実に立つ”重心が、テーブルの上にも置かれているのがわかった。


「……以上です」

「助かります」

 
 兼松は手帳を閉じ、ペン先を拭った。結論めいたことは言わない。言える段階ではないのだろう。東城は窓の外を一度だけ見て、コーヒーを飲み干した。気怠い仕草の奥で、視線が遠くの一点を測る。


「最後に一つだけ」


 兼松が言った。


「いまの映像を見て、坂口さんは『違う』と感じた。その感覚を、あなたは自分の中でどのくらい信じていますか」


 文子は膝の上で両手を握る。嘘をつけば楽になる。でも、それは違う。


「……強く、です。理由を求められると困るんですけど。……でも、違います」


 兼松は静かに頷いた。評価もしない、慰めもしない。ただ、置く。


「わかりました。いまのは『本人の所感』として扱います」


 店の空調が低く唸る。どこかの席でフォークが皿に当たる乾いた音。
 現実の音が、現実であることを主張する。

 それでも、文子の頭の中では映像が繰り返される。
 笑う真琴。閉まるドア。無人の廊下。時間。再び開くドア“いつもの真琴のような何か”。

 胸の奥で、確信だけが形を持ち始めた。


「……あの部屋に、真琴がいる」


 自分でも驚くほど小さな声だった。
 呟きはテーブルの木目に吸い込まれ、三人のあいだに沈む。
 兼松は目線を落とし、次の言葉を探すように一拍置いた。
 東城は表情を変えず、タブレットをケースに戻す。

 店のドアが開き、夜風が一瞬流れ込む。
 誰かが入ってきて、誰かが出ていく。世界は変わらず回っている。
 だが文子には、回転の中心がほんの少しずれて見えた。

 コーヒーの湯気はもうほとんど残っていない。
 窓の外、車のテールランプが赤い線を引く。
 その向こう側に、見えない境目がある。
 こちらと向こう、日常とその外側を分ける、薄いガラスのような境目。


 兼松はカップを受け皿に静かに戻した。


「今日はここまでにします。ご協力、感謝します」


 礼は簡潔だった。立ち上がる気配はない。
 もう少し、沈黙を置くつもりなのだろう。
 事情聴取は、話す側の言葉が底を見せるまで待つ時間も含まれている。

 文子はハンカチを折りたたみ、膝の上に置いた。
 呼吸は戻ってきたが、胸の中心にだけ冷たい核が残る。
 そこにあるのは、説明できないけれど確かな感覚…“違う”。
 そして、その感覚と正面からぶつからずにいられるほど、自分は器用ではない。

 文子はもう一度、小さく息を吸った。


 あの部屋に、真琴がいる。

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