虚声断ちのルグダン

深海 紘

文字の大きさ
14 / 19
第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」

しおりを挟む

 アパートに戻るなり、文子は鍵も閉めずにベッドに沈み込んだ。
 部屋の灯りも点けないまま、バッグが床に落ちる音がやけに遠くに聞こえた。

 靴を脱ぐのも忘れた。
 体が鉛のように重く、頭の中では何かがまだざわめいていたが、考えをまとめる気力さえ残っていなかった。

 視界がにじみ、天井の輪郭がゆっくり崩れていく。
 呼吸だけがやけに大きく響き、眠気というより、意識が少しずつ溶けていく感覚があった。


 少し目を閉じるだけ。


 そう思った。眠るつもりはなかった。
 けれど、まぶたの裏の暗闇がじわじわと広がり、遠くの雑踏の音が途切れ、世界が静かに落ちていく。

 耳の奥で血の音が鳴った。
 重力の方向が曖昧になり、体の輪郭が薄くなる。
 まるで誰かがスイッチを切ったように、現実がふっと遠ざかった。


 気づくと、文子は暗い場所に立っていた。

 どこまでも平らな地面。
 モヤがかかり、光源のないはずの白い光が足元だけを薄く照らしている。
 周囲は深い灰色で、風も音もなかった。

 一歩進むと、靴音が消えた。
 二歩目も同じ。世界そのものが呼吸をやめたみたいに静まり返っている。

 前方に、人影が見えた。しゃがみ込んでいる女性。

 文子は思わず声を出した。


「……真琴?」


 影がゆっくり顔を上げた。


「フミちゃん…」


 確かに真琴の声だった。

 文子が近づくと、真琴は立ち上がり、微笑んだ。
 その笑みは懐かしく、それでいてどこか遠い。


「私ね、上京してあまり知り合い出来なかったから不安だった。
 でもフミちゃんがいたから、やってこれたんだよ」


 声は優しかった。だが、次の言葉が空気を凍らせた。


「私、もうフミちゃんと同じ場所にはいない。でも大丈夫だから」

「え…どういうこと?」

「…気をつけて。こちらからそっちに行こうとしてる奴らがいる。
 私をまとって、完全に私になろうとしてる」


 文子は立ち止まった。胸の奥で警鐘が鳴る。


「こちら?奴らって……誰なの?」


 真琴は視線を伏せ、低く答えた。


「人間じゃない何か。だからフミちゃん、私を探さないで。巻き込まれないで」


 その声と同時に、真琴の輪郭が崩れはじめた。


「いままで、ありがとう…」


 笑顔だけを残し、彼女は砂のようにサラサラと消えていく。


「待って! 真琴! 私まだ」


 手を伸ばした瞬間、景色が一気に暗転した。

 文子は跳ね起きた。汗が額を伝い、呼吸が荒い。
 時計は午前三時を指していた。

 夢だとわかるのに、指先にまだ砂の感触が残っている気がした。

 部屋の明かりを点けず、彼女は服を乱暴に脱ぎ、冷たい白い光のバスルームへ向かった。

 シャワーの音だけが、夜の静けさを破った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

処理中です...