虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」

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朝の光がオフィスビルのガラスを照らし、反射した光が街路に広がっていた。
文子が出社した頃には、いつもと変わらない人の流れがそこにあった。

ビルのエントランスを抜け、エスカレーターに乗る。
吹き抜けのアトリウムには、コーヒー片手に談笑する同僚たち、
パソコンを開いたまま急ぎ足で通り過ぎる営業部の社員、観葉植物の緑に隠れた受付の女性。
どれも昨日までと同じ景色。

だが、胸の奥の重さは昨夜のままだった。

フロアに着くと、真琴がデスクの脇に立っていた。電話を終え、こちらに気づいて微笑む。


「フミちゃん、おはよう!」


明るい声。柔らかい笑顔。
一見すれば何も変わらない。
だが文子の耳には、その声が少しだけ空洞を通ったように響いた。


「……おはよう」


口にした言葉はぎこちなかった。

デスクに着き、パソコンの電源を入れる。
画面が立ち上がる青い光の中で、文子は深呼吸を一度した。
今日のスケジュールがモニターに並ぶ。
会議、資料作成、クライアント対応。現実の仕事は否応なく流れ込んでくる。

昨日の夢のことを口に出すことはない。いや、出せない。



“奴らが来る、完全に私になろうとしてる”



真琴が言った言葉が耳の奥にこびりついて離れなかった。



***



定時になり、オフィスの照明が少しだけ落ちた。
帰宅する同僚たちの足音がフロアに響き、コピー機の稼働音が途切れる。
文子も席を立ち、バッグを肩に掛けた。

エレベーターへ向かう途中で、真琴の後ろ姿が視界に入った。
彼女も帰宅するのだろう。

だが足の向きが違った。
いつもなら最寄り駅の方へ行くはずなのに、彼女は別の通りへと折れていった。

文子の足が自然とついていった。

信号を一つ渡り、夜の街を抜ける。
歩道には飲み屋帰りのサラリーマンが二、三人、笑いながら通り過ぎていく。
コンビニの明かりが等間隔に並び、車のヘッドライトが濡れた舗道に帯状の光を描く。

真琴は振り返らない。歩幅は一定で、迷いがなかった。

しばらくして、高層マンションの前に着いた。
そこは、桐生圭介が住んでいたタワーマンションだった。
真琴の姿はもう既にエントランスに消えていた。
文子は立ち止まり、しばらく夜風に晒された。

…このまま帰ればいい。そう思った。

胸の奥で、昨日の夢の残響が警告のように鳴り続けていた。



“私を探さないで。巻き込まれないで”



真琴の声が蘇る。だがその言葉を裏切るように、足は自然と前へ進んでいた。


エントランスは高い天井と大理石の床が広がる無人の空間だった。
白い照明が冷たく反射し、無機質な空気が漂っている。

中央にフロントデスク。
その脇に住人用の呼び出しダイヤルがあり、ガラス張りの自動ドアが奥の居住エリアと外界を隔てていた。

文子はポケットからメモを取り出した。
ファミレスで見た監視映像の中で、桐生と真琴が入っていった部屋番号。
最上階の部屋は少なく、数字は覚えやすかった。

指先でダイヤルを押す。

呼び鈴の音がガラス越しに低く響いた。


しんとした沈黙。


数秒待っても反応はない。


やはり無理か。
そう思った瞬間、足元で機械音が鳴り、自動ドアが静かに開いた。

文子の心臓が一拍跳ねた。
夜の冷気が背中を押す。


…桐生の部屋に、真琴がいる。


その確信が、胸の奥で形になった。

エレベーターの中は異様に静かだった。
扉が閉まると同時に、外の世界の音がすべて断たれる。
上昇する感覚だけが体を支配し、階数表示の数字がひとつずつ赤く点灯していく。

十六、十七、十八……最上階に近づくほど、胸の鼓動が速くなる。

夢の中で真琴が言った言葉が、また頭をよぎった。
完全に私になろうとしてる。
それが何を意味するのか。問いただす術はなかった。

数字が最上階を示し、エレベーターが停止した。

扉が開くと、廊下が静かに伸びていた。
厚いカーペットが足音を吸い込み、壁に取り付けられた照明が一定の間隔で白い光を落としている。

文子は歩いた。

例の部屋の前に着く。

扉が開きっぱなしを伝える一定の警告音を鳴らしながら少しだけ開いていた。

人の気配はない。
だが、その隙間はまるで自分を誘うように、冷たい口を開けていた。

文子は立ち止まり、呼吸を整えた。
胸の奥で鼓動が波打ち、指先がかすかに震えている。

帰るなら、今しかない。

頭のどこかでそう言葉がした。
足は動かない。
視線は扉の隙間に縫い付けられたまま、微動だにできなかった。



“いままで、ありがとう…”



しかし、やがて文子の足の緊張は緩みしだいに動き出した。

そして、部屋へと足を進めた。
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