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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」
Ⅵ
しおりを挟む部屋の電気はすでに点いていた。
最上階の静かなフロアに似つかわしくないほど、リビングの明かりは暖色で、
生活感の匂いをわずかに残していた。
だが人の気配はなかった。空気が乾いている。
ソファとテーブルが整然と並び、観葉植物が窓際に立っている。
見慣れた都心のタワーマンションの一室
そのはずだった。
文子は足を踏み入れ、数歩進んだ。
扉の隙間から入ってきた夜風が背中を押す。
躊躇していた心を、そのまま中に追いやった。
リビングに到達するより早く、背後で扉が音を立てて閉まった。
バタン。
振り返るより先に、電子ロックのピピッという機械音が室内に乾いた響きを落とす。
文子の呼吸が浅くなる。
胸が硬く締め付けられ、指先が冷えていく。
「……真琴?」
呼びかけた声は自分のものなのに、耳に届いた瞬間には他人の声のように聞こえた。
リビングの中央。
窓際に立っている…それ。
両手をゆっくりと広げ、ガラスの向こう、夜景を眺めている。
背中だけがライトに照らされ、輪郭は確かに真琴のものに見えた。
肩の線、髪の長さ、立ち方の癖さえも。
だが、何かが違う。
返事は背を向けたまま返ってきた。
「あぁ、フミちゃん。待ってたよ」
声は真琴のものだった。音程も、語尾の柔らかさも。
なのに耳に触れた瞬間、氷の破片のような冷たさが首筋を這った。
「……貴方は真琴じゃない。貴方は誰?」
恐怖に飲み込まれないよう、文子は絞り出すように言葉を放った。
声が震えないよう必死に喉を抑えながら。
それはゆっくりと笑った気配を背中越しに見せた。
「真琴だよ。真琴の姿、真琴の声、真琴の記憶……
全部持ってる。だから私は真琴なの」
文子の足が一歩後ずさる。
冷たい汗が背中を伝い、呼吸のたびに胸の奥が痛む。
言葉の意味が、頭に入るたび恐怖が形を持ち始めた。
「……真琴は、どこ?」
自分でも気づかぬうちに問いかけていた。
それは少しだけ首を傾げ、答えた。
「ここには、真琴の切り離された時のカケラがある。この空間に、この時の流れの中に……」
その声はゆっくりと湿った闇を広げるように響いた。
「それを見つけると、私は真琴になれる。また、フミちゃんとも仲良くなれるかな」
文子の足が床に縫いつけられたように動かない。
逃げ出すことも、叫ぶこともできない。
それがゆっくりと振り返った。
文子の心臓が一度止まった。
顔。
そこには目も鼻もなかった。
人の顔としてあるべき器官がすべて剥ぎ取られた代わりに、耳まで裂けた巨大な口があった。
そして二重に重なる歯。
光を受けて鈍く濡れた白い歯列が、不自然に並んでいた。
文子は息を呑んだまま動けなかった。
喉が凍りつき、声が出ない。全身の血が一瞬で足元へ落ちていく感覚。
それが一歩近づく。
「せっかくだから、フミちゃんにも見せてあげる」
次の瞬間、文子の頭に鋭い痛みが走った。
脳の奥に何かが流れ込んでくる。映像。断片。
見覚えのない景色。
血のように赤い夕暮れ、歪んだ空、叫び声とも笑い声ともつかない音。
文子の呼吸が乱れる。頭を押さえても止まらない。
映像は容赦なく脳内に叩きつけられ、視界と記憶の境界がぐちゃぐちゃにかき回される。
やめて。
声にならない声が口の中で乾いて消えた。
足が震え、膝が勝手に折れそうになる。
床の感触が遠のき、立っているのか倒れているのかさえわからない。
それは裂けた口で笑っていた。
文子の頭の中に溢れ続ける映像を、まるでプレゼントでも与えるかのように。
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