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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」
Ⅶ
しおりを挟む頭の奥に、突然、音が鳴り響いた。
最初は映像ではなかった。
金属が何かを叩きつける低い衝撃音が脳の内側から響き、続いて匂いがした。
鉄の匂い。赤く生ぬるい気配が一瞬で部屋の空気を変える。
目の前の景色が溶けるように崩れ、代わりに流れ込んできたのは、桐生圭介だった。
彼が握っていたのは、ゴルフクラブ。
スーツの袖をまくり、額には汗が光っていた。
だが表情は妙に無機質で、感情が切り落とされた機械のように静かだった。
目の前には桐生の顔。
その手がゆっくりとクラブを振り上げる。
視界が揺れる。文子はすぐに理解した。これは自分の目線ではない。真琴の。
次の瞬間、何かが割れる鈍い音が耳の奥で爆ぜた。
視界の端に赤いしぶきが飛び散り、世界がぐにゃりと歪む。
恐怖の感情が一気に流れ込んできた。
“え?なんで? どうして? 怖い……”
文子の胸が締め付けられる。これは真琴の思いだ。
彼女がその瞬間に感じた恐怖と困惑が、言葉よりも速く文子の頭に突き刺さってくる。
二発目が振り下ろされた。
時間がねじれたように、動きが異様に遅い。
クラブのヘッドが空気を切り裂き、真琴の視界のど真ん中に迫ってくる。
ガンッ
頭蓋骨が砕ける音が骨伝導で脳を直撃する。
痛みはなかった。
だが、痛みの先にある絶望だけが胸を満たしていった。
“そっか、私もうダメなのか……”
真琴の思考が、文子の脳を通して呟いた。
“お母さん…”
赤黒い床が目の前に広がる。
視界の端で桐生の靴が動き、クラブが振り上げられる。
“フミちゃん…”
かすれた声と共に、三発目が振り下ろされた。
衝撃の瞬間、視界が暗転し、代わりにあの顔が割り込んできた。
目も鼻もなく、耳まで裂けた口だけが異様に大きな笑みを浮かべ、歯が二重に並んで光っていた。
文子は声を出そうとしたが、喉が凍りついていた。
「あ……あが……あっ……」
音が空気にならない。
肺が呼吸を忘れ、舌が動かない。
裂けた口が、ゆっくりとしゃがみ込み、文子と視線を合わせる。
「辛いよね」
声は柔らかかった。
真琴の声に似せているのかもしれない。
だがその響きの奥には冷たい金属のような硬さが潜んでいた。
「しんどいよね」
文子の体は震えていた。
夢なのか現実なのか、恐怖が輪郭を失い、何が起きているのかさえ理解できない。
だがその声だけが異様に鮮明に耳に届く。
「いいこと考えた!」
その瞬間、裂けた口の笑みが大きく広がった。
「フミちゃんも同じになろうよ」
恐怖、痛み、絶望。
そのすべてが重なり合い、闇に沈んでいく中で、その言葉にほんのわずかに光のようなものを感じた。
終わりにできる。
苦しみを、孤独を、全部。
それは甘い誘いのようだった。
文子の心がわずかに傾いた。
逃げ出したいのに、逃げ場がない。誰もいない。助けてくれる声もない。
そしてその時だけは、同じになることで楽になれる気がした。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、
文子は自分の心がもう自分のものではない気がして、喉の奥からかすれた音を漏らした。
「あ……あぁ……」
裂けた口が笑っていた。
その笑みは、すべてを終わらせる者の笑みだった。
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