桜の下で、君に恋した春

ひかゆづ

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越えられない君 7

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放課後。

特別棟二階の視聴覚準備室には、まだ少し落ち着かない空気が漂っていた。

今年から正式にできたばかりの写真部。
部屋の隅には古い机や棚があり、まだ「部室」というよりは仮の場所のような雰囲気がある。

机の上には学校の備品の一眼レフカメラが数台並んでいた。

一年生の新入部員はまだ数人だけ。
二年生の先輩が二人と、顧問の森下先生。

どこか初々しい空気が流れている。

森下先生は柔らかな笑顔で言った。

「今日は最初なので、難しいことはしません」

机の上のカメラをそっと指さす。

「まずはカメラに慣れてみましょう」

新入部員たちは少し緊張した様子で頷いた。

「写真って、特別なものを撮らなくてもいいんです」

森下先生は続ける。

「自分が『いいな』と思った瞬間を残すだけでも、立派な写真になります」

少し間を置いてから言った。

「なので今日は――」

「春らしい写真を撮ってみましょう」

部室の空気が少し明るくなる。

「外出ていいんですか?」

一年生の男子が聞いた。

森下先生は微笑む。

「もちろん」

「校庭でも、中庭でも、廊下でもいいですよ」

「春を探してみてください」

カメラが一人ずつ手渡されていく。

すずもそっと一眼レフを受け取った。

少し重たい。

でも、その重さが嬉しかった。

(これで写真を撮るんだ……)

すずはカメラを大事そうに胸の前で抱える。

部員たちはそれぞれ校内へ散っていった。

校庭の端。

桜の木が並ぶ場所に、すずは立っていた。

春の風がやわらかく吹いている。

満開には少し早いけれど、淡い花が枝いっぱいに咲いていた。

すずはカメラを構える。

まだ少しぎこちない手つきでファインダーを覗いた。

(春らしい写真……)

桜。

青い空。

遠くで部活をしている生徒たち。

そのときだった。

ふわり、と風が吹いた。

桜の枝が揺れる。

花びらが空へ舞い上がる。

すずは思わずカメラを構え直した。

その瞬間。

桜の向こうに、小さな木造の建物が見えた。

弓道場。

引き戸が少し開いている。

その奥で――

一人の生徒が弓を引いていた。

藤沢湊だった。

背筋を伸ばし、静かに弓を構えている。

道場の中はしんと静まり返っていて、
外の風の音だけが微かに聞こえる。

桜の花びらが舞う。

その向こうで、湊がゆっくりと弓を引く。

指先の動き。

整った姿勢。

呼吸の静けさ。

すずは思わずシャッターを押していた。

カシャッ。

乾いた音が、小さく響く。

すずは慌ててモニターを覗いた。

そこには――

桜の花びら。

静かな弓道場。

そして、弓を引く湊。

まるで映画のワンシーンみたいだった。

すずは小さく息を呑む。

「……」

画面から目が離せない。

そのとき。

パンッ。

矢が放たれる音が聞こえた。

すずは思わず顔を上げる。

矢はまっすぐ飛び、

的の中心に突き刺さった。

湊は静かに弓を下ろす。

その横顔は、どこか凛としていて――

見たことのない表情だった。

すずの胸が、どくんと大きく鳴る。

(……)

なぜか目が離せない。

もう一度、写真を見る。

桜の中で弓を引く湊。

その姿が、やけに鮮明に胸に残る。

(あ……)

そのとき、すずは気づいた。

これはただの憧れじゃない。

胸の奥が、静かに熱くなる。

心臓の音が少し速い。

息が、うまく整わない。

(……好き)

言葉にした瞬間、

自分でも少し驚いた。

(私……)

(藤沢くんのこと、好きなんだ)

一目見て好きになったわけじゃない。

でも、

図書室で話したこと。

静かな声。

優しい雰囲気。

そして今、

弓を引く姿。

全部が胸の中でつながっていく。

気づいたときにはもう、

戻れないくらい好きになっていた。

すずはもう一度写真を見る。

桜の花びらの中で、

静かに弓を引く湊。

すずは小さく呟いた。

「……偶然」

少し照れたように笑う。

「すごい写真、撮れた……」

でも本当は。

その写真の中に写っているのは、

ただの春の景色ではなかった。

すずの初めての恋が、

静かに始まった瞬間。

すずがもう一度カメラの画面を見つめていた、そのときだった。

弓道場の引き戸が、すっと開く音がした。

すずは思わず顔を上げる。

そこに立っていたのは、東雲花音だった。

弓道場の外の光の中に立つその姿は、やけに目を引いた。
長い髪が春の風にふわりと揺れる。


「湊」

やわらかい声だった。

湊が振り向く。

「東雲さん?」

花音は少しだけ困ったように笑う。

「もう戻る時間だよ」

「坂本先生、呼んでる」

その言い方がどこか自然で、でもどこか甘い。

湊は少し驚いたように頷いた。

「あ、そうなんだ」

弓を片付けながら言う。

「ありがとう」

花音は小さく首を振った。

「ううん」

それから、ふっと柔らかく笑う。

「練習してた?」

湊は少し照れたように笑う。

「まあ……ちょっとだけ」

花音はさっき湊が射っていた的の方を見る。

「やっぱり湊、弓道似合うよね」

その言葉は、さらっとした調子なのに、どこか特別な響きがあった。

湊は少し困ったように視線を逸らす。

「そんなことないよ」

花音はくすっと笑う。

「そんなことあるよ」

ほんの一瞬、二人の間に静かな空気が流れた。

花音は軽く振り返る。

「ほら、行こ」

当たり前のような仕草で言う。

まるで最初から隣にいるのが自然みたいに。

湊も頷く。

「うん」

二人は並んで弓道場を出ていく。

春の風が吹く。

桜の花びらが舞う。

その中を歩いていく二人の後ろ姿は、認めざる負えないほど似合っている。

すずは、少し離れた場所からその光景を見ていた。

カメラを持ったまま、動けない。

胸の奥が、きゅっと小さく締めつけられる。

(……あ)

さっき気づいたばかりの感情が、胸の中で静かに広がる。

好き。

そう思ったばかりなのに。

その人の隣には、もう別の誰かがいる。

花音の歩き方は、軽くて自然だった。

でも、どこか計算されているようにも見える。

少しだけ肩を寄せて歩く距離。

ふと顔を向けて笑うタイミング。

どれもさりげないのに、目を引く。

(……ずるいな)

すずは小さく思う。

あんなふうに自然に隣に立てる人。

自分には、きっとできない。

二人の背中は、ゆっくりと遠ざかっていく。

桜の花びらが、その後ろ姿に重なる。

すずはそっとカメラを見下ろした。

画面の中には、さっき撮った写真。

桜の花びらの中で、弓を引く湊。

凛とした姿。

その瞬間を、確かに自分は見ていた。

胸が少しだけ苦しくなる。

それでも、視線は写真から離れなかった。

(……好きなんだ)

改めて思う。

そして同時に、気づく。

この気持ちは、きっと簡単じゃない。

すずはゆっくりカメラの電源を落とした。

春の風がまた吹く。

桜の花びらが、静かに舞い落ちる。

すずは小さく息を吐くと、踵を返した。

写真部の部室へ向かう廊下は、もう夕方の光に染まっていた。

足音が、静かに響く。

胸の奥には、まだ消えないざわめきが残っている。

それでも。

すずはカメラを胸に抱きながら、ゆっくり歩き出した。

写真部の部室の扉が、少しだけ開いている。

中から、楽しそうな声が聞こえた。

すずはそっと扉を開ける。

「……戻りました」

その声は、思ったよりも静かだった
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