カレに恋するオトメの事情

波奈海月

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1巻

1-2

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 彼はまだ、わたしのことを親友だと思ってくれているのだろうか。
 そう考えた瞬間、胸が苦しくなった。
 途絶えがちだった優真からの、最後のメール。それは、わたしが今の会社に就職したことを告げたときの、「頑張れ。どこにいても応援してるから」という返信メールだった。
 それから、何度かメールをしたけれど返事がくることはなく、わたしもメールを送らなくなってしまった。だけど彼に話したいことはたくさんあり、優真宛ての出せなかったメールが、携帯電話の未送信フォルダにまっていった。
 今日、優真を見たことは、このままわたしの胸にしまっておいたほうがいいのかもしれない。連絡して迷惑に思われるのは、やっぱり辛い。それに、優真の今の立場だって気遣わなくては。
 そんなことを考えていたら、涙は止まるどころかいっそうあふれて、ハンカチをぐっしょりらしてしまった。


「どうだい? 平常運転いけそう?」

 ショーに出演したモデルが全員ステージに登場し、ガルフェスは華やかなフィナーレを迎えた。

「なんとか……」

 うなずきながら答えたものの、わたしの涙腺るいせんはまだゆるんでいた。早く涙を止めて、目もと周辺の『修復作業』――メイク直しに取りかからないと、このあとの仕事に差し支えてしまうというのに。

「鹿島くん、普段は物事に動じない印象があるからね。いきなり泣き出して、びっくりしたよ」
「すみません。自分でもまさか、こんなに涙が止まらないとは思ってなくて」

 恥ずかしくてたまらない。いい年をした大人なのに、人目をはばからず泣いてしまうなんて。

「まあ、もう少しここにいるとしようか。すぐ席を立っても、帰る人で混雑しているだろうしね」
「はい」

 それにしても、いきなり部下が泣き出したというのに、人見部長は余裕の対応だ。変に詮索せんさくしてきたりもしない。大人だなぁと、ますます尊敬した。
 そうしてようやくわたしの涙が止まると、人見部長が声をかけてきた。

「そろそろ、花束を渡しにいこうか。いいかい? 鹿島くん」

 頭の芯がジンジンしびれているみたいな気がしたが、わたしは「はい」と返事をした。いつまでも泣いているわけにはいかない。これから仕事だと気合いを入れて、立ち上がる。
 ホールを出るとロビーは人でごった返していて、ショーの興奮がめやらぬ様子だった。それもそのはず、出演したモデルたちがロビーでメディアの取材を受けていたのだ。その周囲を一般客が取り囲んでいる。

「すみませんが、部長。ちょっとお手洗いに行ってきていいですか?」

 わたしは、人見部長におずおずと申し出る。早いところ、メイクを直さなければ。
 部長はすべてお見通しらしく、にっこり微笑ほほえんだ。

「泣きはらした顔もチャーミングだけど、行ってきなさい。この辺で待ってるから」
「はい」

 わたしは、持っていた花束を部長に預けてトイレに向かった。混雑していたが、メイクを直すだけなので、並んでいる人の横をすり抜けて、化粧スペースに入る。
 鏡の前に立ち、ポーチからファンデーションを取り出してさっそく顔の修復作業にかかる。どうったところで大して変わるわけではないが、涙のあとは消したほうがいい。

「ね、アリサと一緒に歩いてたモデルって誰?」
「わかんない。パンフに名前あった?」

 近くにいた女の子たちの会話が耳に入ってきた。優真のことを話題にしている。

「誰だっけ? どっかで見たことある顔なんだよね。でも思い出せない」

 優真が日本で活躍していたのは、五年以上前。日々、流行を追うファッション業界では、走り続けていなければ忘れられてしまうのだと肌で感じた。
 でも、YUMAのことだもの。モデルに復帰したら、すぐに巻き返せる。
 ほんの少し胸の奥がつきんとしたけれど、さんざん泣いたからか、涙があふれることはなかった。もう大丈夫。もう泣かない。もう――……
 気持ちを落ち着けるように息を吸って吐くと、わたしはメイクを再開した。目もとから頬にかけてファンデーションを重ね、アイシャドウを塗り直してチークをはたく。つけまつげもマスカラもつけない、シンプルなメイク。特別美人ではないわたしは、失礼にならない程度に化粧をしていればいい。これで充分だ。

「部長、お待たせしました。わ、すごい人」

 人見部長のもとに戻ると、先ほどよりも多くの人であふれていた。どうもロビーで取材を受けているモデルが増えたようだ。ここからは誰が取材を受けているのか見えないが、絶え間なくカメラのフラッシュが光り、シャッター音が響く。
 人見部長は、わたしを見て口を開いた。

「取材を受けているのは、アリサたちだよ。つい今しがた、こちらに来てね。フィナーレのときに着ていた服と違うけど、見覚えはある。どこかのブランドに、取材の際は着てくれって頼まれたのかもしれないね」
「そうなんですか」
「少し様子を見よう。これでは近寄れないしね」

 アリサに挨拶あいさつをするのが今日の目的。だけど、この取材が終わるまでは無理そうだ。

「すごい人気ですね、アリサは」
「いや、それだけじゃないみたいだよ」

 どういう意味だろう。わたしは首をかしげる。
 そのとき、取材陣たちの声が響いた――『こっちを向いてください』『にっこりお願いします』『久しぶりの日本ですよね』『ロンドンと比べてどうでしたか?』。
 もしかして、アリサと一緒にいるのは優真? いや、この場合はYUMAか。

「彼女、すごいな。YUMAって言うんだってね。さっきからひっきりなしに質問されているみたいだけど、一言もしゃべってない」
「一言も……?」

 すごいって、そっち? でも、それは仕方がない。見た目は完璧な女性でも、声を聞けば性別がわかってしまうからだ。雑誌モデルをしていたころも、優真が取材で喋ることは決してなかった。

「すみませーん。彼女、こういう場に出るの久しぶりだから、質問、勘弁してくださいねー」

 女性の声が聞こえた。誰だろう、この声。スタッフの人かな?

「じゃあ、アリサさん、かわりにお願いします。YUMAさんとは親しいんですか?」
「じゃあって――。YUMAとは仲良しよ。同じ事務所だし、私の妹分。以上、質問終わりー。まだこれから仕事なの」

 この声はアリサだったらしい。彼女は明るく受け流すように答えていたが、「じゃあ」と言ってアリサに質問を向ける記者は失礼だと思った。

「待ってくださいよ。これだけお願いします。アリサさん、――さんとお付き合いされている話は本当ですか?」

 誰とお付き合いされているって? 名前の部分がよく聞こえなかった。

「はあ? 言っている意味がよくわかりませ――」
「一緒に歩いていたって目撃証言もあるんですけどー。答えてくださいよ」

 アリサの言葉をさえぎって、記者は続ける。先ほど「じゃあ」と言った男の声だ。

「仕事がありますので失礼します」
「まだ答えてくれていないですよ」

 男は食い下がる。まったくどこのどいつだ。さっきから、失礼なことを訊いているやつはっ!
 だいたいそんな質問、今日のファッションショーにはまったく関係のない話だ。囲んでいた観客たちも、ざわざわしはじめる。

「うーん、ちょっと雲行きがまずそうだ」

 すっと目をすがめた人見部長はそう言うと、花束を抱えたまま人垣を割って中に入っていく。

「部長、待ってください」

 わたしは慌ててあとを追った。
 人垣の中心には、思ったとおりアリサとYUMAが並んで立っていた。すぐそばには、カメラとICレコーダーを手にした報道陣たち。その中の一人が、先ほどから失礼千万な質問をしていたのだ。

「茅野アリサさん、今日のショーはとても素晴らしかった!」
「は……い……?」

 突然アリサに向かって花束を差し出した人見部長は、悪くなりかけていた場の空気を一変させた。当のアリサも、目をまたたかせている。

「ステキな花束。あらトルコ桔梗ききょう。私の好きな花だわ」

 しかしアリサはトップを張っているモデルなだけあり、動じることなく花束を受け取った。

「ええ、あなたに贈りたくて用意しました。もしご迷惑でなければ、サインをいただけませんか? ずっとファンだったんです」

 部長、さすがです。今この場を制しているのは、間違いなく部長です。
 わたしは胸のうちで、空気の読めないファンを演じる上司に向かって拍手する。まぁ、彼の言葉は本音なんだろうけど。

「はあ……、でもペンが」

 部長の行動に、アリサも戸惑っているようだ。メディアが囲んでいるこの状況でいきなり現れ、花束を渡されてサインをくれなんて、普通なら迷惑なファンだ。でもそれは普通のとき。

「そうですね、サインにはサイン用のペンが必要です。ですから、取りに戻られてはいかがですか? 花は、そのままお持ちください」
「……! ええ、わかったわ。ありがとう」

 ぱっとあでやかに微笑ほほえんだアリサは、優真に目配せをして一緒に関係者エリアへ戻っていった。
 残されたのは、部長と報道陣の方々、そしてわたし。

「おっさん、あんなこと言って。アリサは戻ってきやしねえよ。花も取られ損だな」

 去っていくアリサの後ろ姿を見ていた部長に向かって、口汚い声がかかった。さっき失礼な質問をして、せっかくのショーの余韻よいんをぶち壊してくれた男だ。

「いえいえ、これでいいんです。では失礼」

 部長は穏やかに返事をして、きびすを返した。

「おい、アリサのサインをもらうんじゃなかったのかよ」

 男が怪訝けげんそうに言い放つと、部長は立ち止まる。

「あなたも今、言ったじゃないですか。彼女はここには戻ってきませんよ? サインは残念ですが、花を渡せただけで満足です」
「はあ?」

 男はわけがわからないという顔をしたが、部長はそれ以上彼に構うことなく歩きはじめた。他の報道陣たちも、次の取材相手のもとへ散っていく。
 わたしは男が忌々いまいましげに舌打ちするのを横目に、部長を追いかけた。てっきり控え室に向かうと思っていたのに、部長が向かっている先は正面の出入り口だ。

「部長、アリサへの挨拶あいさつはどうされるんですか?」
「花を渡した時点で済んだよ」
「はい?」

 あの、それはいったいどういうこと? というか、花束を渡すのが目的だったっけ?

「おや、わからないって顔してるね。花束にはメッセージと僕の名刺をつけてあるからね。うちの会社が仕事を依頼していることは事務所から聞いているだろうし、名刺を見ればこっちの正体はわかるだろ」

 名刺をつけてあるって……あんな一瞬で、そんなことまでしていたんですか? やはり部長。抜かりがない。

「もう少し話ができるかなって期待していたが、仕方ないな」

 部長は、いかにも残念そうだった。でもアリサと顔を合わせるチャンスはまたあるはず。仕事を依頼しているのだから、なかったら逆に困るのだけど。
 そう、アリサとは……。だったら、優真とは? アリサがYUMAとは同じ事務所だと言っていたから、もしかしたら何かのはずみで会う機会が巡ってくるかもしれない。
 そう思ったとたん、わたしの胸はきゅっと締めつけられた。でも――
 優真のことは、もういいではないか。連絡が途絶えたのが答えなのだから。
 そんなことを考えていたわたしは、部長が足を止めたことに気づいて、慌てて立ち止まった。どうしたのだろうと顔を上げると、部長はジャケットの内側に手を入れて、スマートフォンを取り出す。そしてディスプレイをタッチして耳に当てた。
 なんだ、電話がかかってきたのか。マナーモードにしていたみたいで、着信音は聞こえなかった。

「はい、アドワークス創新堂、人見です」

 雰囲気から、どうも仕事の話らしいと当たりをつける。

「あ、はい。え? 今からですか?」

 聞くつもりはなかったけれど、隣にいると会話が予測できてしまう。仕事の呼び出しがかかったに違いない。部長ともなると、休日のこんな時間まで大変だと思った。時刻はそろそろ九時を過ぎようとしているのに。

「こちらは構いません。願ってもないお話です。――わかりました。レイトンの……。はい、ではのちほど」

 電話を終えた部長はスマートフォンをジャケットにしまい、わたしに向き直った。

「アリサのマネージャーからだったよ」
「マネージャーさんですか」

 わたしがそう言うと、部長はうなずいて話を続ける。

「それでね、さっきのお礼も兼ねて食事はどうかと言ってきた」
「は? さっきのって……」

 部長の機転で、不本意なインタビューをかわしたことだよね。
 そうか、アリサの話を聞いて、すぐに電話をしてきたのか。花束と一緒に渡した部長の名刺は、さっそく功を奏したわけだ。

「君はどうする? 一緒にいた女性の方もぜひ、と言っているんだが」
「え、わたしもですか?」

 思わず聞き返す。部長に連れがいるって、なぜわかったのだろう。わたしは少し離れたところに立っていたのに。

「遅くなるかもしれないから、無理することはないよ。だが何事も経験だと思って、行ったほうがいいことは確かだ。先方は、アリサと電話をかけてきたマネージャー氏が来るらしい」
「ご迷惑でなければ、ご一緒させてください」

 部長の言うとおり、何事も経験。平社員のわたしがトップモデルと一緒に食事だなんて、この先あるかわからないし、明日も休みだ。実家を出て一人暮らしだから、どれだけ遅くなろうが平気。仕事で会社に泊まりこむことだって、あるしね。
 それに来るのは、アリサとそのマネージャー。YUMA――つまり優真はいない。それなら大丈夫。

「わかった。じゃあさっそく向かおうか」

 わたしの返事を聞いた部長は、どこか満足したように頷いた。


 会場からタクシーを使い、指定された店の前に乗りつけた。
 全国でも有数のホテル、プリンス・レイトンの正面にあるそのお店は、とても落ち着いた雰囲気。雑誌でもよく紹介される、人気のお店だ。
 さっそく中に入り、部長が店員に名を告げると、すぐに個室へ案内された。掘りごたつ式の席で、中央には厚みのある黒りのモダンなテーブル。和紙を使ったシェードの照明は、温かみのある空間を演出している。雑誌に掲載されていた内装そのままの座敷だった。
 アリサたちはまだ着いていなかったが、テーブルには四人分のはしとお通しが用意されていた。部長とわたしは、入ってすぐ手前の席に並んで座る。

「部長。貸していただいたハンカチは、月曜日に新しいものを買ってお返しします」

 洗って返してくれればいいから、と人見部長は優しく言ってくれたが、ただ返すのはなんだか申しわけない。せめて、何かお礼はしようと思っていた。

「それにしても、ずいぶん長く泣いていたね。そんなにYUMAってモデルに感動したのかい?」
「は、はい……、わたしずっと、か、彼女のファンだったので。久しぶりに姿を見て、感動しちゃいました」

 詳しく話すのもはばかられ、ひとまずYUMAのファンだということにした。これも間違いではない。
 そのときだった。

「すみません、お待たせしてしまって」

 花束を抱えたアリサが現れ、部屋の中が一気に明るくなったように感じた。さすがモデル。プライベートでも、その存在感は半端ない。

「茅野さん、お待ちしていましたよ」

 素早く立ち上がった部長がアリサを出迎える。わたしも急いで立ち上がり、頭を下げた。

「先ほどはありがとうございました。助かりました」

 アリサの言葉に、部長は「いやいや」と首を横に振る。

「なに、大したことではありませんよ。おかげで僕は、その花束をあなたに渡すことができました」
「ええ。私、嬉しくって持ってきてしまいました。早く水切りして活けてあげたほうがいいんですけど」
「そんなに気に入っていただけたなら、贈った甲斐かいもあるというものです」

 部長にうながされたアリサは、奥の席に回ると、花束をそっと脇に置いて腰を下ろした。

「おひとりですか? 確かお電話では、マネージャーの方も同席されるということでしたが」

 アリサが落ち着いたところを見計らい、わたしたちも座った。

「ええ。彼、車を駐車場に停めているの。お待たせしていると思って、私は先に来ました。でも……」

 アリサがわたしのほうをちらりと見る。

「そちらのお嬢さんは、私よりYUMAのほうが良かったのね。でも、ごめんなさい? あの子はちょっとフクザツなのよ」
「す、すみませんっ!」

 しまった、直前まで話していた内容を聞かれていたのか。同じ事務所とはいえ他のモデルのファンだなんて、アリサにとって気分の良い話ではない。とにかく、わたしは平謝りだ。

「あら、別にいいのよ? YUMAのことを知っているなんて、そんな子、なかなかいないもの」

 アリサはにっこりと目を細めた。同性ながら思わずドキリとしてしまうその表情は、写真で見るよりも何倍も迫力がある。
 アリサはYUMAの秘密を知っているのだろうか。さっき「あの子はフクザツ」だと言っていたけれど、どういう意味で言ったのか、わたしにはわからない。
 そのとき、男性の声がした。

「申しわけありません、遅くなってしまって」

 アリサのマネージャーが到着したのだ。
 しかしその声が聞こえた瞬間、わたしは個室の入り口に背を向けたまま、体を硬直させた。
 部長は、すぐに向き直って彼を迎える。でも、わたしは動けない。誰か、嘘だと言って。夢なら覚めて。お願い。

「広戸、遅いわ」
「すみません、車を入れるのに手間取りました――人見さん、急なお話にもかかわらず、お時間を取っていただきありがとうございました」

 わたしは視界の端っこで、アリサに「ヒロト」と呼ばれた男性が膝をついて部長に挨拶あいさつするのを見た。
 どうしよう。わたしはどうしたらいい? こんなことなら、来なければよかった。けれど、時すでに遅し。後悔先に立たず。嘘だと思いたくても、これが現実。

「いえ、こちらこそ席をもうけていただき感謝しています。どうぞ奥へ」
「失礼します」

 男はするりと立ち上がって、アリサの隣に腰を下ろす。

「あなたが、先ほど電話をかけてこられた方ですか?」
「はい、アリサのマネージャーの広戸優真と申します」

 そう、彼は間違いなく優真だった。

「では改めまして、アドワークス創新堂の人見と申します。彼女は、部下の鹿島です」
「……鹿島です」

 顔を上げなければ、変に思われてしまう。覚悟を決めて、わたしは正面を見た。そして、ふたたび固まる。
 そこにいたのは、わたしが知っている優真ではなかった。今日、ショーで観たYUMAとも違う。優しげな容貌、メガネの奥の澄んだ眼差まなざし。形のいい鼻も口もとも、一つひとつ見ていけば、あのころの記憶に重なる。けれど、今わたしの目の前にいるのは、少年から鮮やかに成長をげた男の人だった。そんな彼から目を離すことができない。

「鹿島くん? どうした?」
「え? あ、す、すみませんっ」

 部長の声でハッと我に返ったわたしは、慌てて下を向く。
 恥ずかしいっ。いくらその変貌ぶりに驚いたからといって、あまりにもじっと見すぎだ。

「広戸に見惚みとれちゃったのね。その気持ち、わかるわ。だって男にしておくのはもったいないくらい、綺麗だもの。ね、広戸」

 うつむいたわたしの耳に、どこか楽しげなアリサの声が届く。
 わたしが優真を見つめてしまった本当の理由は違うけれど、誤解されても仕方がない。

「アリサさん、そういう話はちょっと……」

 優真は困惑した様子で話をさえぎろうと口を挟んだが、アリサは構わず続けた。

「あら、本当のことじゃない。うちの事務所、広戸が入ってから、モデルだけでなくマネージャーも顔でるのかって言われているでしょう。ま、広戸は特別なんだけど」
「アリサさん――」

 やはり、優真はアリサのマネージャーなのだ。
 親しげな二人の会話を聞きながら、わたしの胸はどういうわけかきゅっと痛み、息がつまる。
 モデルとマネージャーなのだから親しいのは当たり前なのに、疎外感そがいかんみたいなものを感じてしまった。
 今日のわたしはいろいろと失態が続いて、ちょっとしたことでもひどく気になってしまうのだろう。そうでなければ、二人を見て羨ましいだなんて……おこがましすぎる。優真は、わたしのことを親友とは……ううん、友人とさえ思っていないかもしれないのに。

「そろそろ何か頼みましょうか。このお店ははじめてなんですが、おすすめはありますか?」

 人見部長がメニューを広げて、アリサの前に置いた。

「ここのおすすめはね、さけの唐揚げなのよ」
「ほう、とりではなく鮭ですか。うまそうですね。ではそれを頼みましょう。飲み物はどうされます?」
「ビールがいいわ。そのあとでワインも飲みたいな。いいでしょ? 広戸。もう飲んでも」
「はい。でも飲まれる前に、何か胃に入れてください。今日はほとんど食べていないんですから」
「それは、あなたもじゃない。あ、そうだわ。チーズフライもいいかしら。カマンベールチーズにころもをつけて、オリーブオイルで揚げたものなの。ビールによく合うのよ。それから揚げだし豆腐も」
「アリサさん、揚げ物が多すぎです。根菜類こんさいるいき合わせもお願いします」
「なんでも遠慮なくどうぞ。鹿島くん、君は何を頼む? そういえば、我々も昼に食事してから何も食べてなかったね」
「え、あの、わたしは……」

 一瞬だったけれど、優真は目を伏せて眉間にしわを寄せた。これは、苛立いらだっているときに見せる彼のくせだ。こういう癖は変わらないのだな、とほっとしたのもつかの間。この状況、もしかしてわたしにイラッとしているの――?
 わたしは、思わず立ち上がった。

「すみません。ちょっと顔を洗いにいってきます!」

 バッグをつかみ、パンプスに急いで足を突っこんだわたしは、部屋を出てトイレを探した。店の廊下は長く、ギリギリまで照明が落とされているせいで、非常口はわかるけどその他の案内がよく見えない。
 ちょうどすれ違った店員に場所を聞き、ようやくトイレの前に行くと、そこには優真が立っていた。

「どっち行ってるんだよ」
「――はい。逆方向でした」

 トイレは部屋を出てすぐのところにあったのだが、わたしは気づかずに反対側へ向かってしまったのだ。

「さっさと済ませてこいよ。ここで待ってるから」
「待ってるって?」

 優真もトイレ? 男性用は隣にあるのに、どうしてだろう。

「美咲に、話がある」

 ああ、そういうこと。わたしが席を立ったのをいいことに、アリサや部長の前ではできない話をしにきたというわけか。

「今?」

 何を話す気だろう。昔のことを口止めされるのかな。

「美咲のトイレが終わってからだ。早く行ってこいって」

 暗くてよくわからなかったけれど、優真の左の目もとがピクリと動いたように見えた。これは、かなり苛立いらだっているときのくせだ。
 わたしは素早くトイレに駆けこみ、用を済ませた。洗面台で手を洗い、鏡に映った自分の顔を見る。
 ひどい顔をしていた。疲れていて、えない顔色、れぼったい目蓋まぶた。これはショーを観ながら泣いてしまったせいなのだけど。そしてパサついた髪。
 ただでさえあまり高くない女子力なのに、大幅ダウン。
 今週かかりきりだったCMのアイデア出しのせいかな。先輩の久世さんに、ことごとくボツにされてしまった仕事だ。昨日、なんとかOKをもらえたけど、来週はそのアイデアをまとめて、企画書を作らなければならない。
 蛇口をひねって両手で水を受けると、えいやっと顔を洗った。それを何度も繰り返す。どうせこれ以上ぼろぼろになることはないし。
 そのあと、れた顔をハンカチでぬぐって外に出た。

「ずいぶん派手にやったね。顔を洗ってくるって言ったとおり」
「うん、ちょっとね」

 前髪が濡れてるよ、と優真はわたしの髪に指先をからめ、水滴をはじいた。


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