恋の魔法はAAA

波奈海月

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 定時に上がった純玲は、昨日にも増して足取りも重く帰途につく。
「スミレ! どうだった? 恋乳は誰かに嘗めさせたのか?」
 さっそくリリが出迎えに飛んでくる。
「それが、いいなって思った彼女には、他に気になる人がいるみたいでさ」
 カバンを下に置き、途中で買ってきたビールの入った袋を渡せば、よろよろとしたがリリは嬉しそうに受け取った。
「これで諦めるわけじゃないだろ? ターゲットに他にいい人がいても振り向かせるぐらいの気概がないと、恋は叶わないぞ?」
「そういうけど……」
 はぁと純玲は溜め息をつく。どうして上手くいかないのだろう。
 今までもこれはと思う御縁に、横槍が入ることはあった。だが立て続けになると「これが偶然なのか?」と考えてしまう。合コンの日は梅木戸。三ノ宮千種は不破。直接ではないが社長の野瀬も。
 それを愚痴っぽくリリに話す。
「ほー、そうか」
「ああ。何かさ、自分ではどうしようもない大いなる意思でも働いているんじゃないかって思っちゃうよ」
 現実とはいい難い存在のリリのせいか、こんな神がかった発想も出てきてしまう。
「大いなる意思、だと?」
 冗談のつもりで言ったのだが、リリが考え込むように腕を組んだ。
「どうかしたのか、リリ?」
「いや何でもない。お前は引き続きターゲットに恋乳を嘗めさせるよう努力しろ」
「でも彼女は……」
「恋人が欲しいんだろ? だったらガンバルしかないじゃないか」
 そのとおりだ。しかし千種の気持ちを無視してまで頑張ってもいいものだろうか。ふと見下ろせば、いつもの不遜さはなく頼りなさそうな顔をしているリリに気づく。
「リリ?」
 声をかければ、すぐにいつもの顔つきになった。
「お、おう。そうだスミレ、恋乳の成功率を上げるための方法があるんだが、やるか?」
「嘗めさせるだけじゃないのか?」
「ただ嘗めさせるだけなら、首尾は三十パーセントだな。それを確実にするためにはチュウ……キスをするんだ。恋乳の効果で相手はほんのりピンクな状態になっているからな。だからキスして相手に自分の存在を強く印象づける」
 何だ、それ!? 恋乳の説明のとき、そんな話はしなかったではないか。
「ピンクな状態ってさ、まさかあんな感じ?」
 昨夜自分が嘗めたときのことを思い出す。
「いや、あそこまではない。童貞のお前が特別なのだ」
「童貞言うな!」
 前を飛ぶリリをつかまえると、ぎりぎりと睨みつけた。


「だからー、チュウをするわけだが、お前まさかチュウの経験もないなんて言うなよ?」
 妖精と人の晩酌が始まる。さかなは前に買っておいた冷凍食品の酢豚をレンジで温めた。
「ないよ! 人間とはね! 妖精とならしたけどなっ!」
 リリと飲むとどうも普段よりアルコールの回りが早い気がする。
「な、何だと!? したことがない? っていうかオレが初めてなのか!? 童貞なのはまあ仕方がないかと思っていたけど、チュウもなのか!?」
「だからそれがどうだっていうんだよっ!」
 酔いも手伝って声を荒げるのが抑えられない。
「いやなに、まさかさ、そんなさ、だってさ、三十だよな」
 あきらかに笑いたいのを我慢している顔だった。
「まだ二十九だ。しょうがないだろ! 今まで誰ともつき合ったことないんだからっ!」
「……マジで?」
「ああ」
 自分で言っていて虚しい。年甲斐もなく思いっきり不貞腐れた顔で頷いてやれば、リリは心底気の毒そうな顔を見せた。
 結構リリは感情が顔に出る。偉そうに上から目線だがくるくると表情を変える。その状況の善し悪しは別にして、リリを見ているのは面白い。
「仕方がないなスミレ。よし練習だ。これも特約に付加されているからな。今からお前にチュウの練習をするぞ」
「はぁ? 練習って何する気だよ。チュウって、お前とキスするのか?」
 ここには自分とリリしかいないのだ。リリ相手にどういう練習ができるというのだ。
「ちっちっち、分かってないな。オレは今制限ナシに魔法が使えるんだ。昨日の眼鏡を持ってこい。腹もいっぱいで気力は十分。お前に妖精魔法究極奥義を見せてやる」
「何を始める気だ」
 勿体つけて言うリリに、取ってきた妖精眼鏡を渡してやる。
「よし、よく見てろよスミレ。これが奥義だ」
 はぁっとリリは深く息を吸い込み、眼鏡をかける。
 眼鏡は人間サイズだ。小さなリリの体には大きすぎる――が。
 ぽんっ、とどこから出たのか分からない煙にリリの体が包まれた。と、思ったら、目の前には男がいた。自分と変わらない体つきの眼鏡をかけた――…。
「どわっ!! だ、誰!? リリ、なのか?」
 にやりと不敵に笑みを浮かべた男が頷いた。純玲は生唾を飲み込む。
「ほ、本当、に、リリ?」
 ちまっとした四頭身、ぷにぷにほっぺの姿は微塵もない。引き締まった体躯は胸板も厚く、精悍な顔、浅黒い肌、髪は金色で、目はグリーン。
「何だ、このオレのカッコよさに見惚れているのか? しょうがないな」
 そう言って髪をかき上げた。昼間見せてくれた腕のリングは指にあった。背中のランドセル型の箱は腰のベルトについている。
 変わらない口調に一瞬の安堵を覚えたが、低く響く声が、ずくん、と純玲の鼓膜を痺れさせる。
「で、でさ、な何でそんな姿になったんだ?」
 複雑な予感に囚われ、声が上擦ってしまった。
「決まっている。お前のチュウの練習をするためだ。妖精の大きさでは何度チュウしてもリアル感に欠けるからな」
「っ!」
 もう言葉にならない。練習て何? チュウ? もしかして口と口?
「さぁするぞ、スミレ」
「あ、いや…。ちょっと、その……」
 逃げ出したい。何でこんな目に。俺が何をした。
「遠慮するな」
「第一お前男じゃないかっ! 男とキスなんて」
 王子だと言っていたが、リリの性別などまったく気にしていなかった。
「何を言うか。男とか女とか、それくらい大した違いではない。チュウで重要なのは口と口が合わさることだ。それは恋も同じことが言えるな。雌雄のあるなし種族の違いも瑣末な問題だ。大切なのは心と心が触れ合い合わさり重なることだからな。前に担当した契約者は飼い主に恋した青い目をした白猫だったし、その前はサボテンだった」
「おい?」
 何を意味の分からないことをホザいているのだ、この妖精。
「まあなんだ。そういうが、昨日はお前からして来たんだぞ」
「それは恋乳と……、リリが小さかったからだ――うわぁ」
 大きな掌が純玲の両頬を包む。深い緑色の目に自分が映っているのが分かった。魅入られたように、身動きできない。抵抗できなかった。
 リリはそんな純玲を簡単にひっくり返して、伸しかかる。
「恋乳を嘗めさせてこうして押し倒せばいいんだ」
「うわうわうわ――その声やめて。耳が、耳が変だ――」
 変になったのは耳だけではない。息が苦しい。これは上に乗られているせいだ。どきどきと鼓動が速いのは、リリの変身に驚いてしまっていたからだ。多分。
「スミレ――…」
 そんな声で呼ぶな。何でこんなにイイ男なのだ。どうしたらあのちんちくりん妖精がこんなにカッコよくなるのだ。
「んっ……」
 口が塞がれる。唇が食まれ、きつく吸い上げられる。それを何度も繰り返されて、本当に息ができない。頭の芯が痺れてきた。くらくらする。
 知らなかった、キスとはこういうものだったのか。口と口がただ合わさるだけだと思っていたのに。
「おい、おいって、スミレ。大丈夫か? ただのチュウだぞ? 恋乳だって使っていないのに」
 どれくらい時間が経ったのか、伸しかかられていた重みが消え、ふっと呼吸が楽になった。
「……あ」
 遊園地のコーヒーカップを最大スピードで回して降りたような気分だ。五感はどこにいってしまったのか、体中が気だるくぼーっとしている。
「ったく。童貞の上に、まさかこんなに感じやすい体質だったとはな」
 言われても、純玲は自分の体に何が起きたのか分からない。
「悪いが、こっちはAAの領分なんだ。自分でどうにかしてくれ」
「うぐっ!!」
 ずきっと鋭い刺激が下腹部を襲い、正気に戻る。
「え、ええっ!?」
 がばっと体を起こした純玲はあまりのことに手足を縮め、リリからその身をできるだけ隠そうとした。
「今さらだろ。そういう生理は分かるから恥ずかしがるな」
「――うっ」
 そんないい声で分かると言われても。じわっと視界が滲んでくる。
 アラサー男がたかがキスで勃起するなど。恥ずかしくて穴に入りたいどころではなかった。いっそ死んでしまいたいと思った。
 その夜から純玲の秘密の練習が始まった。油断するとすぐにキスに酔って流される。
 自分を見失ってしまいそうだ。本当に、眼鏡をかけたリリはカッコよく見惚れてしまうのだ。金髪碧眼、浅黒い肌のエキゾチック容貌、それに何といってもあの声だ。
「そうだ、スミレ。吸い上げたら次に舌を差し込んで口の中を撫で回す。そして搦ませるんだ」
 ベッドの上で重なり、純玲はリリの顔を両手で挟んで口づけて言われるまま舌を差し入れる。
「んっ、んんっ――」
「もっときつく吸って。零れる唾液は気にしないでいい。もう一度」
 呼吸の合い間に低音でリリが囁く。
「はぁ、んんっ、んっ」
「上手いぞ、そうだスミレ」
 何度もリリとキスをしていくうちに、何か奇妙な気持ちになってくる。口と口を合わせるだけの行為のはずが、別の意味を持ち始めていくようで怖かった。
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