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水瀬美緒の章
最終話
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何事も無かったかのようにアレから一週間が過ぎていた。水瀬さんの娘さんは病院で検査をしてもらったのだが、特に悪いところも見つからず健康体そのものだったそうだ。
僕はこの件に関して行ったことは義父と妻と鵜崎さんに協力を要請したことだけなのでお礼を言われるような立場ではないのだが、水瀬さん家族は毎日のようにお礼を言いに来てくれていた。本来なら僕ではなく義父か妻か鵜崎さんにお礼を言ってもらいたいのだけれど、義父はアレから少し体調を崩して寝込んでいるし妻はその看病をしている。義父が寝込んでいるのは持病が悪化したことによるものなので水瀬さんは悪くないのだが、水瀬さんは義父の事を心配してくれていた。
鵜崎さんは別れてから連絡も取れなくなっていた。何度電話をかけても鵜崎さんに繋がることは無く、折り返し連絡が来ることも無かったのだ。水瀬さんも直接お礼を言いたいとの事だったのだが、鵜崎さんがどこにいるのかもわからないので、それも叶わぬ願いとなってしまっている。
濃い霧の立ち込める早朝、僕は庭の掃除をしていたのだが、玉砂利を踏みしめる音が聞こえてきたのでそちらを向くと、そこには鵜崎さんが立っていた。車の音も聞こえなかったので歩いてきたのだとは思うが、玉砂利の音を聞いたのはほんの少し前なのでどれだけ一歩が大きいのだろうと思ってしまった。
「小野君おはよう。今日は時間大丈夫かな?」
「鵜崎さんおはよう。大丈夫だけど、こんな朝早くにどうしたの?」
「色々あってね。ついさっき別の仕事を片付けたところなんだよ。アレから変わったことは無かったかな?」
「僕の所は義父が持病が悪化したくらいで特に何もないかな。水瀬さんの所もアレから変化はないみたいだよ」
「それは良かった。奥さんと娘さんも変化は無いんだよね?」
「うん、娘は相変わらず元気だよ。妻は義父の世話をしてくれているんだけど、それ以外は前と変わらないかな」
「そうなんだね。私はこれから少し用事があるんで失礼させてもらうよ」
「ちょっと待って、鵜崎さんは近いうちに時間取れたりしないかな?」
「時間を取るって、何か私に用事でもあるのかな?」
「用事と言うか、ちゃんとお礼をしたいなって思ってさ。水瀬さんたちも鵜崎さんにお礼を言いたいってずっと言ってるから。それで、時間があればみんなに会ってもらったりすることは出来ないかな?」
「うーん、私は別にお礼をされるようなことはしていないんだけどね。でも、水瀬さんの気持ちを無碍にするのも良くないと思うよね。わかった、明後日の晩にお邪魔してもいいかな?」
「もちろん。明後日の晩という事は、十九時くらいでいいかな?」
「それくらいなら大丈夫だと思うよ。かえって手間をかけさせたようで悪いね」
「そんな事ないよ。わざわざ時間を取らせてごめんね」
「小野君は何も気にしなくていいんだからね」
鵜崎さんは僕に手を振りながら霧の中へ消えていった。遠くの家がぼんやりと見える程度の霧ではあったが、不思議な事に鵜崎さんの姿はすぐに見えなくなってしまっていた。もちろん、車の音などは聞こえなかったのだが、鵜崎さんの足音も全く聞こえなかったような気がしていた。僕は自分が動くたびに玉砂利の音がしていたのを聞いて不思議に思ってしまった。
朝のお勤めが終わってから妻に鵜崎さんの事を話したのだが、妻は僕の話を最後まで聞くと何も言わずに義父のもとへと行ってしまった。もう少し何か反応があるのだろうと思っていたのだけれど、特に何の反応も見せなかったのは意外だった。
娘の沙弥にも鵜崎さんが来ることを話したのだけれど、沙弥は僕の話を理解しているのかしていないのかわからない反応だった。それでも、沙弥は自分のスケッチブックに女の人の絵を何枚も描いていたので鵜崎さんの事は覚えているようだった。
水瀬さん達にも鵜崎さんが明後日の晩にやってくることを伝えたのだが、その日はどうしても都合がつかないとのことだった。アレから毎日誰かが来ていたというのに、本来お礼を言うべき相手がやってくる日だけ用事があるのも皮肉な話だとは思った。その日の晩に水瀬さん一家がやってきたのだが、鵜崎さんに渡して欲しいという紙袋を預かった。中身を見るのは失礼だと思ったので見てはいないのだけれど、包装紙を見ただけで中身が高級な贈答品だという事は理解出来た。
鵜崎さんがやってくるまでの時間はなぜか誰も口を開こうとしなかった。義父は相変わらず体調もすぐれないので横になっているのだが、妻は家事をしている時以外はずっと義父についていた。娘の沙弥は黙々と絵を描いているのだけれど、その絵は全部鵜崎さんの絵だった。そして、何時もはおしゃべりが止まらない檀家さんたちもなぜか口よりも手を動かしていたのだった。
僕は結構おしゃべりな方だとは思うのだけれど、この日は必要最低限の会話以外は全くせず、気付いた時には挨拶くらいしかしていなかったと思う。
毎日やってきていた水瀬さんもこの日はやってくることも無かったのだ。
鵜崎さんは予定の時間を少し遅れてやってきた。鵜崎さんを出迎えたのは僕と娘の沙弥だけで、妻と義父は自室にこもっていたのだった。お寺の本堂で対面して座って待っていたのだが、妻がやってくる気配は無かった。娘に呼んでくるように頼んだのだが、娘は僕の背中に隠れて動こうとはしなかった。
「ごめんね。妻を呼びに行ってくるから待っててもらってもいいかな」
「それは気にしなくても大丈夫だよ。きっと、奥さんは私に会うのが嫌なんだと思うよ」
「そんなことは無いと思うけど。それにさ、助けてもらったってのもあるんだし、お客様として来てもらってるんだから挨拶くらいはしないと」
「本当にそれは気にしなくて良いんだよ。私は奥さんに呼ばれてきたんじゃなくて小野君に呼ばれてきたんだからね。それで、水瀬さんはいつやってくるのかな?」
「それについてなんだけど、水瀬さんたちはどうしても外せない用事があるみたいで。申し訳ないとは思うけどここには来れないみたいなんだよ」
「そうか、それは仕方ないね。この時間しか空いてない私も悪いわけだし、水瀬さん達とは次の高田さんの法要で会えるだろうからね」
「それでさ、水瀬さん達から預かっているものがあるんで持ってくるね」
僕は本堂を出て水瀬さんから預かっていた紙袋をとりに行った。娘の沙弥も僕についてくるものだと思っていたのだけれど、沙弥は僕が立ち上がると鵜崎さんの背後に移動して鵜崎さんの背中に隠れてしまった。
持ってきた紙袋を手渡したのだが、鵜崎さんは中身を確認するとそれをそのまま僕に返してきた。
「これは美味しそうなお菓子だね。でも、申し訳ないんだけど私はこれを受け取れないんだよ。私の所の決まりで、こういうのは受け取れない決まりになってるんだよ。お礼の気持ちだけ受け取ったんで、申し訳ないけどこれは小野君が受け取ってもらえるかな」
「そうは言ってもさ、これは水瀬さんたちが鵜崎さんに対して送ったモノなんだから困るよ」
「そうは言われてもね、私の所の決まり事で、他人から金品を受け取ることを禁止されているんだよ。と言っても、自分が望んで何かを恵んでもらう事は可能なんだけど、こうして相手からいただいたものを受け取るって事にはいかないんだ。それには色々と深い事情があってね、これに関しては水瀬さんから直接手渡されなくて良かったと思うよ」
「そうは言うけどさ、水瀬さんも鵜崎さんにお礼を言いたいと思ってるんじゃないかな」
「それなら一緒に入ってた手紙があるから大丈夫だと思うよ。手紙は受け取っても大丈夫なんでもらうけど、ここで一緒に中を確認してもいいかな?」
「中を読むのは鵜崎さんの自由にしていいと思うけど、水瀬さんは手紙の内容を僕に知られたくないんじゃないかな」
「それは小野君が水瀬さんに言わなければわからないことだよ。じゃあ、声に出さずに読んじゃおうかな」
鵜崎さんは三通の封筒を僕の前に置くと、その中でも一番可愛らしい封筒に手を伸ばした。いかにも女の子が書いたという文字で鵜崎さんの名前が書かれていたのだが、おそらくこれは水瀬さんの娘が書いたものだろう。
「実を言うと、私は女子高生から手紙を書いてもらう機会ってのはあったりするんだよ。高校時代にはなかったんだけど、こんな仕事をしていると意外と女子高生と関わることがあったりするんだよ。中身はみんな違っているんだけど、思いはみんな一緒に感じて嬉しいもんだよね。小野君は女子高生から手紙を貰ったりするの?」
「手紙をもらう事なんて無いよ。僕宛ではなくて義父宛に何か届いていることはあるみたいだけどね」
「そうなんだ。それは残念だね」
続いて鵜崎さんは薄い方の便せんを手に取った。きっと、これは水瀬さんが書いたものだろう。
「水瀬さんから手紙を貰っちゃったよ。昔から思っていたんだけど、水瀬さんは字も綺麗だね。とっても読みやすい手紙だよ。気持ちも込められているね」
鵜崎さんは残った封筒には手を伸ばすことが無かった。おそらく、水瀬さんの旦那さんが書いたものだろうと思うのだけれど、鵜崎さんは残った封筒の中身を確かめようとはしなかった。
「最後の封筒は確認しないの?」
「それは受け取れないやつだからね。私じゃなくて小野君が受け取るといいよ」
「そんなことは出来ないよ。鵜崎さんあてに旦那さんが書いた手紙なんだと思うし」
「でも、私は金品を受け取ることは出来ないんだよ。だからさ、あの時車を出してくれた小野君が足代として受け取るべきなんじゃないかな」
「足代って、何を言っているんだよ」
僕は残された封筒を鵜崎さんに渡そうと思って手に持ったのだが、結構な厚さと手紙だけではないと思える感触が伝わってきた。
「持ってみたらわかるもんでしょ。それは受け取れないんだ。だからね、小野君がそれを受け取っておくといいよ」
「そんなことは出来ないよ。水瀬さんもお礼をしたいと思っているだろうし、僕が受け取ることなんて出来ないよ」
「でもね、私は教義で金品を受け取ることが出来ないんだよ。だからさ、小野君が黙って受け取るべきだと思うんだよ。私と小野君が黙っていたら誰もわからないんだからね。どうかな?」
「そんなことは出来ないよ。それに、鵜崎さんが受け取れないというんだったら、そのまま水瀬さんに返すしかないじゃないか」
「小野君って本当に真面目だよね。その性格だからこそ小野君の娘さんが素直に育っているのかもね。じゃあ、ソレについては小野君にお願いしておくね。用事も済んだみたいだし、私はそろそろお暇させていただくよ」
「え、もう帰っちゃうの?」
「そうだけど、何か他に用事でもあったかな?」
「用事ってほどのことは無いけど、一つ聞いてもいいかな?」
「何かな?」
「水瀬さん達に憑いていたのって、高田さんなのかな?」
「そんなわけないでしょ。アレは高田さんじゃないよ。高田さんはそんな事しないと思うからね」
「でも、あの時は僕にアレを高田さんだって思わないようにしろって言ってたじゃない」
「それはそうよ。だって、高田さんじゃないのにアレを高田さん呼ばわりするのって良くないでしょ。住職と奥さんは何か言っていたの?」
「いや、何も言ってないよ。僕には見えないって事もあってそれ系の話はほとんどしてくれないんだけど、それとは関係なく今回の事は何も教えてくれないんだ」
「きっとね、それは二人の小野君に対する優しさなんだと思うよ。余計な事に巻き込みたくないって思いがあるからなんじゃないかな。だからね、小野君は今回の事なんて気にせずに普通に暮らしていたらいいと思うよ」
「そうかもしれないけどさ、何があったかは知りたいと思うもんじゃないかな」
「そうよね。それはそうだと思うけど、あんまり余計な事に首を突っ込むと大変なことになるかもよ。それで悲しむのは家族だって忘れないでね」
鵜崎さんを見送る時になっても妻と義父は出てこなかった。少しくらいは顔を出した方がいいんじゃないかなと思ってはいたのだけれど、部屋から出てくるようなそぶりすら一切感じることは無かった。
鵜崎さんがブーツを履いてこちらに振り向いた時に、僕の背後に隠れていた沙弥が先ほどまで描いていた絵を鵜崎さんに渡していた。その絵は鵜崎さんが描かれているようなのだが、鵜崎さんの隣にも女の子が描かれていたのだった。
「ありがとう。私もちょうど絵が欲しいと思っていたところなんだよ。気持ちのこもった良い絵だね。これは額に入れて飾っちゃおうかな」
「喜んでもらえてよかったよ。でも、鵜崎さんが二人いるみたいだけど?」
「私は一人しかいないんだけどね。そうだ、また何か困ったことがあったらいつでも連絡してね。すぐに出られるかわからないけど、小野君の名前を言えば取り次いでくれるように言っておくからさ」
鵜崎さんは二通の手紙と沙弥の描いた絵以外は何も受け取らずに帰っていった。タクシーに乗り込んでそのまま夜の町へと消えていったのだ。
翌朝、起きてきた妻に封筒の事を話すと、それはあなたに任せると言ったきりで義父の部屋へと向かっていった。
何時もの時間にやってきた水瀬さんに封筒の事を伝えると、残念そうな顔をしていたがそれを受け取ってくれた。お菓子はお寺に収めて欲しいという事で受け取りはしたのだけれど、その日以来水瀬さん達がやってくることは無かった。
娘の沙弥は相変わらず楽しそうに絵を描いているのだが、あの時以来人の絵を描くことは無くなっていたのだった。
義父はそれからしばらくして元気になったのだが、以前のように活発に行動することは少なくなっていた。それと同時に妻との会話も増えたのだが、水瀬さんたちの話題も鵜崎さんの話題も一切することは無かったのだ。
水瀬さんの家族に憑いていたのが何なのかはわからないが、解決したのなら深く追求する必要もないだろうと思った出来事だった。
僕はこの件に関して行ったことは義父と妻と鵜崎さんに協力を要請したことだけなのでお礼を言われるような立場ではないのだが、水瀬さん家族は毎日のようにお礼を言いに来てくれていた。本来なら僕ではなく義父か妻か鵜崎さんにお礼を言ってもらいたいのだけれど、義父はアレから少し体調を崩して寝込んでいるし妻はその看病をしている。義父が寝込んでいるのは持病が悪化したことによるものなので水瀬さんは悪くないのだが、水瀬さんは義父の事を心配してくれていた。
鵜崎さんは別れてから連絡も取れなくなっていた。何度電話をかけても鵜崎さんに繋がることは無く、折り返し連絡が来ることも無かったのだ。水瀬さんも直接お礼を言いたいとの事だったのだが、鵜崎さんがどこにいるのかもわからないので、それも叶わぬ願いとなってしまっている。
濃い霧の立ち込める早朝、僕は庭の掃除をしていたのだが、玉砂利を踏みしめる音が聞こえてきたのでそちらを向くと、そこには鵜崎さんが立っていた。車の音も聞こえなかったので歩いてきたのだとは思うが、玉砂利の音を聞いたのはほんの少し前なのでどれだけ一歩が大きいのだろうと思ってしまった。
「小野君おはよう。今日は時間大丈夫かな?」
「鵜崎さんおはよう。大丈夫だけど、こんな朝早くにどうしたの?」
「色々あってね。ついさっき別の仕事を片付けたところなんだよ。アレから変わったことは無かったかな?」
「僕の所は義父が持病が悪化したくらいで特に何もないかな。水瀬さんの所もアレから変化はないみたいだよ」
「それは良かった。奥さんと娘さんも変化は無いんだよね?」
「うん、娘は相変わらず元気だよ。妻は義父の世話をしてくれているんだけど、それ以外は前と変わらないかな」
「そうなんだね。私はこれから少し用事があるんで失礼させてもらうよ」
「ちょっと待って、鵜崎さんは近いうちに時間取れたりしないかな?」
「時間を取るって、何か私に用事でもあるのかな?」
「用事と言うか、ちゃんとお礼をしたいなって思ってさ。水瀬さんたちも鵜崎さんにお礼を言いたいってずっと言ってるから。それで、時間があればみんなに会ってもらったりすることは出来ないかな?」
「うーん、私は別にお礼をされるようなことはしていないんだけどね。でも、水瀬さんの気持ちを無碍にするのも良くないと思うよね。わかった、明後日の晩にお邪魔してもいいかな?」
「もちろん。明後日の晩という事は、十九時くらいでいいかな?」
「それくらいなら大丈夫だと思うよ。かえって手間をかけさせたようで悪いね」
「そんな事ないよ。わざわざ時間を取らせてごめんね」
「小野君は何も気にしなくていいんだからね」
鵜崎さんは僕に手を振りながら霧の中へ消えていった。遠くの家がぼんやりと見える程度の霧ではあったが、不思議な事に鵜崎さんの姿はすぐに見えなくなってしまっていた。もちろん、車の音などは聞こえなかったのだが、鵜崎さんの足音も全く聞こえなかったような気がしていた。僕は自分が動くたびに玉砂利の音がしていたのを聞いて不思議に思ってしまった。
朝のお勤めが終わってから妻に鵜崎さんの事を話したのだが、妻は僕の話を最後まで聞くと何も言わずに義父のもとへと行ってしまった。もう少し何か反応があるのだろうと思っていたのだけれど、特に何の反応も見せなかったのは意外だった。
娘の沙弥にも鵜崎さんが来ることを話したのだけれど、沙弥は僕の話を理解しているのかしていないのかわからない反応だった。それでも、沙弥は自分のスケッチブックに女の人の絵を何枚も描いていたので鵜崎さんの事は覚えているようだった。
水瀬さん達にも鵜崎さんが明後日の晩にやってくることを伝えたのだが、その日はどうしても都合がつかないとのことだった。アレから毎日誰かが来ていたというのに、本来お礼を言うべき相手がやってくる日だけ用事があるのも皮肉な話だとは思った。その日の晩に水瀬さん一家がやってきたのだが、鵜崎さんに渡して欲しいという紙袋を預かった。中身を見るのは失礼だと思ったので見てはいないのだけれど、包装紙を見ただけで中身が高級な贈答品だという事は理解出来た。
鵜崎さんがやってくるまでの時間はなぜか誰も口を開こうとしなかった。義父は相変わらず体調もすぐれないので横になっているのだが、妻は家事をしている時以外はずっと義父についていた。娘の沙弥は黙々と絵を描いているのだけれど、その絵は全部鵜崎さんの絵だった。そして、何時もはおしゃべりが止まらない檀家さんたちもなぜか口よりも手を動かしていたのだった。
僕は結構おしゃべりな方だとは思うのだけれど、この日は必要最低限の会話以外は全くせず、気付いた時には挨拶くらいしかしていなかったと思う。
毎日やってきていた水瀬さんもこの日はやってくることも無かったのだ。
鵜崎さんは予定の時間を少し遅れてやってきた。鵜崎さんを出迎えたのは僕と娘の沙弥だけで、妻と義父は自室にこもっていたのだった。お寺の本堂で対面して座って待っていたのだが、妻がやってくる気配は無かった。娘に呼んでくるように頼んだのだが、娘は僕の背中に隠れて動こうとはしなかった。
「ごめんね。妻を呼びに行ってくるから待っててもらってもいいかな」
「それは気にしなくても大丈夫だよ。きっと、奥さんは私に会うのが嫌なんだと思うよ」
「そんなことは無いと思うけど。それにさ、助けてもらったってのもあるんだし、お客様として来てもらってるんだから挨拶くらいはしないと」
「本当にそれは気にしなくて良いんだよ。私は奥さんに呼ばれてきたんじゃなくて小野君に呼ばれてきたんだからね。それで、水瀬さんはいつやってくるのかな?」
「それについてなんだけど、水瀬さんたちはどうしても外せない用事があるみたいで。申し訳ないとは思うけどここには来れないみたいなんだよ」
「そうか、それは仕方ないね。この時間しか空いてない私も悪いわけだし、水瀬さん達とは次の高田さんの法要で会えるだろうからね」
「それでさ、水瀬さん達から預かっているものがあるんで持ってくるね」
僕は本堂を出て水瀬さんから預かっていた紙袋をとりに行った。娘の沙弥も僕についてくるものだと思っていたのだけれど、沙弥は僕が立ち上がると鵜崎さんの背後に移動して鵜崎さんの背中に隠れてしまった。
持ってきた紙袋を手渡したのだが、鵜崎さんは中身を確認するとそれをそのまま僕に返してきた。
「これは美味しそうなお菓子だね。でも、申し訳ないんだけど私はこれを受け取れないんだよ。私の所の決まりで、こういうのは受け取れない決まりになってるんだよ。お礼の気持ちだけ受け取ったんで、申し訳ないけどこれは小野君が受け取ってもらえるかな」
「そうは言ってもさ、これは水瀬さんたちが鵜崎さんに対して送ったモノなんだから困るよ」
「そうは言われてもね、私の所の決まり事で、他人から金品を受け取ることを禁止されているんだよ。と言っても、自分が望んで何かを恵んでもらう事は可能なんだけど、こうして相手からいただいたものを受け取るって事にはいかないんだ。それには色々と深い事情があってね、これに関しては水瀬さんから直接手渡されなくて良かったと思うよ」
「そうは言うけどさ、水瀬さんも鵜崎さんにお礼を言いたいと思ってるんじゃないかな」
「それなら一緒に入ってた手紙があるから大丈夫だと思うよ。手紙は受け取っても大丈夫なんでもらうけど、ここで一緒に中を確認してもいいかな?」
「中を読むのは鵜崎さんの自由にしていいと思うけど、水瀬さんは手紙の内容を僕に知られたくないんじゃないかな」
「それは小野君が水瀬さんに言わなければわからないことだよ。じゃあ、声に出さずに読んじゃおうかな」
鵜崎さんは三通の封筒を僕の前に置くと、その中でも一番可愛らしい封筒に手を伸ばした。いかにも女の子が書いたという文字で鵜崎さんの名前が書かれていたのだが、おそらくこれは水瀬さんの娘が書いたものだろう。
「実を言うと、私は女子高生から手紙を書いてもらう機会ってのはあったりするんだよ。高校時代にはなかったんだけど、こんな仕事をしていると意外と女子高生と関わることがあったりするんだよ。中身はみんな違っているんだけど、思いはみんな一緒に感じて嬉しいもんだよね。小野君は女子高生から手紙を貰ったりするの?」
「手紙をもらう事なんて無いよ。僕宛ではなくて義父宛に何か届いていることはあるみたいだけどね」
「そうなんだ。それは残念だね」
続いて鵜崎さんは薄い方の便せんを手に取った。きっと、これは水瀬さんが書いたものだろう。
「水瀬さんから手紙を貰っちゃったよ。昔から思っていたんだけど、水瀬さんは字も綺麗だね。とっても読みやすい手紙だよ。気持ちも込められているね」
鵜崎さんは残った封筒には手を伸ばすことが無かった。おそらく、水瀬さんの旦那さんが書いたものだろうと思うのだけれど、鵜崎さんは残った封筒の中身を確かめようとはしなかった。
「最後の封筒は確認しないの?」
「それは受け取れないやつだからね。私じゃなくて小野君が受け取るといいよ」
「そんなことは出来ないよ。鵜崎さんあてに旦那さんが書いた手紙なんだと思うし」
「でも、私は金品を受け取ることは出来ないんだよ。だからさ、あの時車を出してくれた小野君が足代として受け取るべきなんじゃないかな」
「足代って、何を言っているんだよ」
僕は残された封筒を鵜崎さんに渡そうと思って手に持ったのだが、結構な厚さと手紙だけではないと思える感触が伝わってきた。
「持ってみたらわかるもんでしょ。それは受け取れないんだ。だからね、小野君がそれを受け取っておくといいよ」
「そんなことは出来ないよ。水瀬さんもお礼をしたいと思っているだろうし、僕が受け取ることなんて出来ないよ」
「でもね、私は教義で金品を受け取ることが出来ないんだよ。だからさ、小野君が黙って受け取るべきだと思うんだよ。私と小野君が黙っていたら誰もわからないんだからね。どうかな?」
「そんなことは出来ないよ。それに、鵜崎さんが受け取れないというんだったら、そのまま水瀬さんに返すしかないじゃないか」
「小野君って本当に真面目だよね。その性格だからこそ小野君の娘さんが素直に育っているのかもね。じゃあ、ソレについては小野君にお願いしておくね。用事も済んだみたいだし、私はそろそろお暇させていただくよ」
「え、もう帰っちゃうの?」
「そうだけど、何か他に用事でもあったかな?」
「用事ってほどのことは無いけど、一つ聞いてもいいかな?」
「何かな?」
「水瀬さん達に憑いていたのって、高田さんなのかな?」
「そんなわけないでしょ。アレは高田さんじゃないよ。高田さんはそんな事しないと思うからね」
「でも、あの時は僕にアレを高田さんだって思わないようにしろって言ってたじゃない」
「それはそうよ。だって、高田さんじゃないのにアレを高田さん呼ばわりするのって良くないでしょ。住職と奥さんは何か言っていたの?」
「いや、何も言ってないよ。僕には見えないって事もあってそれ系の話はほとんどしてくれないんだけど、それとは関係なく今回の事は何も教えてくれないんだ」
「きっとね、それは二人の小野君に対する優しさなんだと思うよ。余計な事に巻き込みたくないって思いがあるからなんじゃないかな。だからね、小野君は今回の事なんて気にせずに普通に暮らしていたらいいと思うよ」
「そうかもしれないけどさ、何があったかは知りたいと思うもんじゃないかな」
「そうよね。それはそうだと思うけど、あんまり余計な事に首を突っ込むと大変なことになるかもよ。それで悲しむのは家族だって忘れないでね」
鵜崎さんを見送る時になっても妻と義父は出てこなかった。少しくらいは顔を出した方がいいんじゃないかなと思ってはいたのだけれど、部屋から出てくるようなそぶりすら一切感じることは無かった。
鵜崎さんがブーツを履いてこちらに振り向いた時に、僕の背後に隠れていた沙弥が先ほどまで描いていた絵を鵜崎さんに渡していた。その絵は鵜崎さんが描かれているようなのだが、鵜崎さんの隣にも女の子が描かれていたのだった。
「ありがとう。私もちょうど絵が欲しいと思っていたところなんだよ。気持ちのこもった良い絵だね。これは額に入れて飾っちゃおうかな」
「喜んでもらえてよかったよ。でも、鵜崎さんが二人いるみたいだけど?」
「私は一人しかいないんだけどね。そうだ、また何か困ったことがあったらいつでも連絡してね。すぐに出られるかわからないけど、小野君の名前を言えば取り次いでくれるように言っておくからさ」
鵜崎さんは二通の手紙と沙弥の描いた絵以外は何も受け取らずに帰っていった。タクシーに乗り込んでそのまま夜の町へと消えていったのだ。
翌朝、起きてきた妻に封筒の事を話すと、それはあなたに任せると言ったきりで義父の部屋へと向かっていった。
何時もの時間にやってきた水瀬さんに封筒の事を伝えると、残念そうな顔をしていたがそれを受け取ってくれた。お菓子はお寺に収めて欲しいという事で受け取りはしたのだけれど、その日以来水瀬さん達がやってくることは無かった。
娘の沙弥は相変わらず楽しそうに絵を描いているのだが、あの時以来人の絵を描くことは無くなっていたのだった。
義父はそれからしばらくして元気になったのだが、以前のように活発に行動することは少なくなっていた。それと同時に妻との会話も増えたのだが、水瀬さんたちの話題も鵜崎さんの話題も一切することは無かったのだ。
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