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佐倉光紀の物語

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 俺の記憶からサンという犬がいた事も消えていたし、ジュエルが生まれた時の事も覚えていなかった。こうして考えてみると、俺は覚えている事の方が少ないんじゃないかと思えてしまうのだが、ジュエルと一緒に暮らすようになってから今日までの事はハッキリと覚えているのだ。だが、ジュエルが生まれた時の事は今聞いても思い出すことが出来なかった。
「それでな、お前は人間になったサンを本当の母さんだと思い込んでしまったんだ。それ以外は全く普通になったお前だったんだが、サンの事を母さんだと信じ込んでしまっていたんだ。小さい時に母さんを無くした悲しみと癒えない傷が和らぐんだったらそれでもいいんじゃないかと思った俺とサンはお前が悲しまないようにサンが母さんだということにしたんだよ。でもな、サンにはお前が小さい時の事なんて何もわからないし、人間になったばっかりで俺達のルールなんかもわからないんだ。それで、俺はサンには申し訳ないと思うのだけれど、父さんが亡くなったことを悲しんで何もしないでいてくれと頼んだんだ。そうすれば昔の記憶がないとしても、人間世界の細かいルールがわからなかったとしても、お前にサンは母さんじゃないってバレないんじゃないかと思ったんだよ。その時はよかれと思ってやっていたし、俺もここまで騙し続けられるとは思ってなかったんだ。すぐにバレてたらサンももっとお前と一緒に過ごせてたと思うんだけど、なぜか今日までお前は気付かなかったんだよな。もしかして、お前の脳は気付いていたのに気付かない振りをしてたのかもしれないな」
「そうか、それで母さんは何もしていなかったというわけなんだな。あれ、もしかして、この事って千代子も知ってたって事なのか?」
「もちろんだよ。お前たちが結婚するにあたって俺達の秘密は全部打ち明けさせてもらったよ。千代子ちゃんのご両親にももちろん説明したよ。でも、三人とも俺とサンを責める事なんてせず最後までお前の気持ちを尊重しようって言ってくれたんだよ。お前は最高の家族を見つけ出すことが出来たんだって俺もサンも泣いて喜んでいたからな」
「ちょっと待ってくれ、兄貴が喜ぶのは分かるけどさ、母さんも泣いて喜ぶってのはどういう事なんだ?」
「どういう事も何も、俺とサンで千代子ちゃんの実家に行って説明したことがあるんだよ。その時に理解を示してもらったんだけど」
「兄貴が説明したって事か?」
「もちろんそうだけど、俺の頼みを聞いてくれたサンも一緒に説明してくれたよ。その方が千代子ちゃんの家族もわかってもらえるって思ったからな」
「それって、母さんは普通に喋れるって事なのか?」
「当たり前だろ。人間になった次の日には普通に会話出来てたぞ。お前だってサンに甘えてただろ。覚えてないんだろうけどさ」
「マジかよ。俺はずっと母さんってショックで言葉が話せなくなったんだと思ってたわ。それだったら普通に話してくれれば良かったのに。でも、二人とも俺の事を思ってやってくれてた事だし、責めるわけにもいかないよな」
 俺はジュエルそっくりのサンに近付いてそっと頭を撫でた。サンは俺の顔を見ると小さく唸りながら初めて鳴き声を聞かせてくれた。とても短い鳴き声ではあったが、俺にはそれが祝福の言葉にも謝罪の言葉にも聞こえていた。
「なんだよ。初めて母さんの声を聞いた気がするな。何を言ってるかわからないけどさ、ありがとうな。俺のために兄貴と協力してくれてごめんな。せっかく人間になれたって言うのにさ、あんまり楽しめなかっただろ」
 俺は改めてサンの体に触れたのだが、ジュエルとは少し違うぬくもりを感じることが出来た。ジュエルはそんな俺を見て心配になったのか、俺とサンを守るようにクルクルと周りを回り始めたのだった。サンはジュエルを目で追いながらも俺の手から離れようとはしなかった。
「でもさ、なんで母さんは犬に戻っちゃったんだ?」
「愛情をたくさん与えられたペットは人間になるってのは知ってると思うけどさ、最後はペットの姿に戻るって事なんだよ」
「それって、母さんはもう長くないって事なのか?」
「そう言うことになるな。でも、サンはお前が思っているよりもずっと幸せだったって言ってくれてたよ。だってさ、人間の姿になれた時点でお前から物凄い愛を与えられたって事なんだからな。そんなお前の心を守るために俺が無理を言って演技してもらったんだけど、お前のためだからって文句も言わずにずっと続けてくれたんだからな。お前にはずっと言えなかったけどさ、お前がいないところではサンはお前の事を心配もしていたし誇りにも思っていたんだぜ。何より、お前が幸せになってくれることを俺以上にサンは願ってたんだからな。千代子ちゃんに会う前は絶対に結婚なんてさせないとかも言ってたんだけど、いざ会ってみるとサンは千代子ちゃんに泣いて頼んでたんだからな。これは絶対に言うなって言われてたけどさ、サンの本当の気持ちを知るためにも隠すわけにはいかないだろ。だから、お前はサンに対して悪いなんて思う必要はないんだよ。もしも、申し訳ないって気持ちがあるんだったらさ、今以上に陽菜ちゃんを可愛がってやってくれればいいってサンが最後に言ってたんだからな。陽菜ちゃんの写真を見たサンは本当に幸せそうな表情だったんだからな」
「なんだよそれ。そんなん全然ダメじゃん。俺って全然ダメな男じゃないか。なんで気付けなかったんだろ。普通に考えたらそんなのすぐに気付くもんだろ。兄貴も母さんも演技上手すぎるんだよ。バカだろ」
 さっきまで俺は怒っていたと思うのだけれど、今は悲しいような嬉しいような複雑な心境でいて、気持ちの整理が全くついてこなかった。こうして泣いているのが母さんの本当の事を知って嬉しくて泣いているのか、母さんの置かれていた状況に気付けなかった自分のダメさ加減に悲しくて泣いているのかずっと騙されていたことに対してないているのか、なんだかんだ言って兄貴も母さんも千代子も千代子のご両親も俺のためを思って行動してくれたことに対して感謝をしてもしきれないという思いで泣いているのか、俺にはわからなかった。
 ただ、この涙は嫌なものではないというのは分かっていた。
「兄貴も母さんも千代子もジュエルもありがとうな。みんなの優しさはよくわかったよ。ジュエルが母さんにやけに懐いていた理由もわかったし、今まで気付かなくてごめんな。俺は今までみんなから貰った分の愛情をちゃんとお返しするつもりだけど、一番愛情を注ぐのは陽菜って事で良いかな。ごめんよ」
「何言ってるのよ。陽菜ちゃんもそうだけど、私にもちゃんと愛情注いでよ。今まで通りで良いからさ」
「うん、もちろんだよ。千代子にも迷惑かけちゃったみたいだし、今まで通りではなく今まで以上にな」
「俺の事は今まで通り気にしなくていいからな。お前の家族が幸せになってくれたら俺は満足だからさ。時々は遊びに行っちゃうけどな」
「ああ、いつでも遊びに来てくれよ。あと、あんな大金は受け取れないから返すよ。千代子が貰った分はそのままにさせてもらうけどさ」
「いや、それはお前が受け取ってくれ。千代子ちゃんに渡した分は俺からのお詫びみたいなもんなんだが、お前に渡した分はサンがコツコツ稼いで貯めていた分だからな。お前は知らなかったと思うけど、サンって音楽の才能があるみたいで作った曲がそこそこ人気になったみたいで毎月ちょっとした収入があるんだぜ」
「なんだよそれ、そんなの全然知らなかったわ」
「内緒にしてたからな。色々と隠しててすまんな。もうこれ以上は隠し事が無いと言いたいんだけど、もう一つだけお前が思い出していないことがあるんだよ」
「なんだよ。これ以上何があるって言うんだよ。もしかして、本当は二人が不倫してるとか無いよな?」
「さすがにそれは無いだろ。千代子さんみたいに理解ある女性にそんなことしたら俺はサンに殺されちゃうって」
「じゃあなんだよ。言ってみろって」
「お前はさ、本当の母さんの名前って覚えてるか?」
「覚えてるも何も、母さんの名前がサンだってことを今日初めて知ったくらいだぞ」
「覚えてないって事だろ。では、陽菜ちゃんって名前にしたのはなんでなんだ?」
「なんでって、俺と千代子で考えて決めたんだけど。春の日差しみたいに暖かく可愛らしい女の子になって欲しいって事で決めたんだよな?」
 千代子は名前の由来を説明している俺の事を笑顔で見てくれていた。心なしかその目は潤んでいるように見えていた。
「いい名前だよな。でも、それだったら春菜とかハルヒとかでもいいんじゃないか?」
「そう言われたらそうだけど、太陽の陽に菜で陽菜ってのも良い名前だと思うよ。温かい春の日って感じがするだろ」
「うん、俺も良い名前だと思うよ。でも、春菜って名前にしなかったのには理由があるんだよ。それはな、俺達の母さんの名前だからだ。それと、サンってのは太陽って意味だろ。母さんの名前とサンの名前を取って陽菜って名前にしてくれたんだよ」
「それって本当なのか?」
「うん、お兄さんとお義母さんの話を聞いていたらそうしたいなって思っちゃったんだよ。次に産まれてくる子供は私のパパとママの名前を分けてもらうけどね」
 他にも俺が気に入った名前はいくつかあったのだけれど、いつもは話し合いで決める千代子が頑なに陽菜という名前に拘ったのはこういう理由があったのか。
 俺はいったい誰にどれだけの感謝を伝えていけばいいのだろうか。今まで何も気づかなかった俺ではあるのだが、これからはたくさんの人にお礼をしていかなくてはいけないな。
 まずは、兄貴と母さんがしてくれたように陽菜にたくさんの愛情を注いで育てていかないとな。

 俺と母さんは寝ている陽菜の顔をそっと覗き込んだのだが、急に影が出来てびっくりしたのか陽菜はパッと目を開けて俺と母さんの顔をじっと見つめてきていた。
 陽菜は俺達に向かって一生懸命に手を伸ばして笑いかけてくれていたのだ。
 この笑顔をいつまでも守らなくてはいけないと固く心に誓ったのであった。
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