セラフィムの羽

瀬楽英津子

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秘密〜似て非なるもの

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「なんだこれ。マジで、一体どうなってんだ」

 男は、困惑した様子で亜也人を見下ろすと、キツい印象を受ける細い眉を硬らせ、イライラと頭を掻いた。

「つまりこれは、お前が、あのクソ親父の愛人、ってことなのか?」

「愛人?!」

 今度は亜也人が困惑する番だった。

「なんで俺が愛人なんだよ。俺はただ仕事で来ただけだ」

「仕事?! 仕事って何だ! てか、今、俺、って言ったよな。やっぱお前、男なんじゃねーか! 男のくせに、こんなとこで何やってんだ!」

 男のくせに。
 男のくせになんだというのだろう。
 亜也人は、男の一方的な言い分に激しい怒りを覚えた。
 自分を女だなんて思ったことは一度もない。
 自分はずっと男だった。それなのに、女のようだと言い、女のように扱うのはいつも周りの方だ。
 こみ上げる怒りに胃がキリキリと痛み出す。
  客に対して反抗的な態度を取るなど許されることでは無かったが、この男に対しては我慢する気すら起こらなかった。
 出会った時と同じ高圧的な振る舞いもさることながら、自分とたいして年の変わらない相手に侮辱されたことへの悔しさが、亜也人の神経を昂らせ、みぞおちを熱く締め付けた。
 
「帰る……」

 息苦しくなるほどの怒りが胸に渦巻き、亜也人は、逃げ出すようにベッドから降りた。
 一刻も早くここを出たい。
 しかし、足を踏み出した途端、突然、猛烈な吐き気に襲われ立ち止まった。

「おい、どうしたんだ」

 胃袋が飛び出るような激しい吐き気だった。亜也人は咄嗟に口を塞ぎ、一目散にトイレに駆け込んだ。
 吐き気は、亜也人の腹部を波立たせながら何度もせり上がり、胃の中のものをすっかり吐ききってもなお喉を押し上げた。
 自分がどんな状態にあるのかも解らず、ただ、両手で便器を抱え、鼻の奥にまで浸食する胃酸の焼け付くような痛みに耐えながら治まるのを待った。
 そうして、だんだんと吐き気が治まってきた時、亜也人は、温かい手が自分の背中を撫でているのに気が付いた。

「ごめん、俺……」

「いいから喋るなって……」

 男は、肩で息をする亜也人の背中を宥めるように撫で、亜也人の呼吸が落ち着くと、おもむろに亜也人の腕を取って自分の肩に担ぎ、膝の後ろに手を回して亜也人の身体をひょいと抱き上げた。

「え、なに……」

「この方が早いだろ?」

「でも、服……汚れる」

「いいから、黙って掴まってろ」

 細いが強靭なバネを思わせる硬く張りのある腕で亜也人を軽々とベッドに運び、クッションを重ねて、もたれかかるように亜也人を仰向けに寝かせると、テーブルに置いたカバンから小さな包みを取り出し、水と一緒に枕元に持ってきた。

「これは?」

「吐き気止めの漢方だ。……俺もよくそうなるからいつも持ち歩いてる」

「え……?」

「違ってたらスマン。お前、俺に、すげぇムカついたんじゃね?」

 水の入ったコップを亜也人に持たせ、男は、目を見開いて固まる亜也人をまじまじと見、薄い唇を横に伸ばしてクスッと笑った。

「そんな驚くなよ。俺も同じだから解るよ。ムカつくと気持ち悪くなるよな。俺なんか気ィ短けぇから、しょっちゅうゲェゲェやってるぜ」

 おどけたように言い、薬の包みをといて紙の端を指でつまみ、亜也人の顔の前に差し出す。

「ほら、口、開けよ。ちょいと苦いけど楽ンなっから」

「え……」
 
 見上げたところを、問答無用で口の中に薬を流し込まれ、亜也人は激しくむせ返った。
 男は、「悪りぃ、悪りぃ」と亜也人の背中をさすった。
 飲まされた薬は、苦いが、メンソールのようなスッとする成分が入っていて、確かに、胃はすっきした。

「そう言えば、お前、名前は?」

 亜也人の顔を濡れタオルで拭き、汚れたシャツを脱がせて自分のトレーナーに着替えさせると、男はようやくベッドの縁に腰を下ろして亜也人に尋ねた。

「あ、俺は浩然。お付きの奴らはハオランって呼ぶけど、本当はヒロノリだ。だから、ヒロって呼んでくれ」

「俺は、寺田亜也人」

「アヤトか。洒落た名前だな。歳はいくつ?」

「十八。でも今年の夏で十九になる……」

「なんだ。俺と同い年じゃん。てっきり下かと思ったぜ」

 頬骨の高い頬を膨らませて笑い、若者らしい艶やかな瞳を悪戯そうに輝かせ、浩然は、からかうように亜也人の顔を覗き込んだ。
 亜也人は、浩然の曇りの無い瞳と、浩然から溢れる春の陽射しのような眩しさに気圧されていた。
 
「それにしても、お前、いつもあんなゲェゲェなんの? 俺が言えた義理じゃねーけど、もしそうなら、ちゃんと医者に診てもらったほうが良いぜ?」

「いつもじゃない。それに病気じゃないし……」

「確かに身体の病気じゃねーけどさ。でも、さっきのはちょっと酷いぜ。何がそんなに嫌なのかは知らないが……」

 言い掛け、浩然がはたと口を噤む。
 亜也人は、自分がどんな顔をしているのかは解らなかったが、目の前にある浩然の瞳が突然切なげに歪むのを見、自分も同じ顔をしているのだろうと思った。

「答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど、お前の仕事って……その……夜の相手をするアレなのか?」

 浩然は、眉間に深いシワを作りながら、亜也人の瞳を瞬きもせずに見詰め返した。
 答えない手もあったのだろうが、浩然の濁りのない真っ直ぐな姿勢に、亜也人は、自然と、躊躇いもなく答えていた。

「そうだよ。ここへ来たのもそのためだ」

 頭も悪い、人付き合いも苦手、手先も不器用、生まれてこのかた容姿以外褒められたこともなく、唯一の取り柄は、本人の意に反してアチラの身体の具合が良いこと。その上、途方もなく多額な借金を抱え、それを返済すために言われるままに抱かれている。出会ったばかりの相手にどうしてここまで話すのか亜也人自身にも説明がつかなかったが、一度溢れた言葉はもう止めようがなかった。
 コップに張り詰めた水が決壊するように、亜也人は胸の奥にギリギリまで溜まった想いを一気に溢れさせた。
 浩然は亜也人の告白を、まるで今その場面に出くわしているかのように重苦しい顔で聞いていた。

「つまり、俺の親父もお前を買った、ってことなのか……?」

「君の親父さんかどうかは解らないよ。相手が誰かなんて知らされないんだ。俺はただの道具だから……」

「道具……」

「そ。場所と時間だけ教えられてそこへ行くだけ。ちなみに、今晩は二時間ただ犯られるだけの仕事だよ」

 途端に、浩然の顔が露骨に嫌悪に歪んだ。

「犯らやれるだけ、って何だよ。あのクソ親父。女だけじゃ飽き足らず、男にまで手ぇ出しやがったのかよ……」

 嫌悪というより憎悪だ。亜也人に、同い年だ、と言って笑った時の暖かい雰囲気から一変、まるで人が変わってしまったかのように、浩然は、憎々しげに鼻に皺を寄せ、瞳の形が変わるほど眉を顰めて亜也人から目を逸らした。

「親父さんのこと嫌いなの?」

 浩然は答えるかわりに、ケッ、と舌打ちをした。

「あんなん親父だなんて思ったこと一度もねぇよ」  

 浩然の父親は、名を王静(ワンシン)といい、中華圏ではその名を知らぬ者はいないほど有名な実業家で、その経営手腕と経済力は、中国国内のみならず、香港、台湾を始め、東南アジアの経済界にも多大な影響を与えているという。
 しかしその一方で、黒い繋がりも噂され、王静(ワンシン)の周りはいつも血生臭い事件が絶えず、警察だけでなく、政府当局からも目を付けられているという噂もあった。
 事業では成功したが、家庭運は薄く、正妻との間に子宝は恵まれず、愛人との間に出来た子供は皆病弱で、どの子も三歳を迎えることなくこの世を去った。
 浩然は、王静(ワンシン)が東京進出の際に視察に訪れた歌舞伎町のクラブで出会った浩然の母親との間に生まれた子供で、王静(ワンシン)は浩然の存在を知ってはいたものの、愛人の、しかも日本人との間に出来た浩然を認知することは無く、歌舞伎町にオープンさせた中国料理店の経営が軌道に乗ると、それきり母親の元には寄り付かなくなった。
 その後母親は若くして死亡。当時七歳だった浩然は施設に預けられ、十五歳までそこで過ごした後、施設の斡旋した町工場で住み込みで働くことになった。
 工場の仕事はキツかったが、自由になる時間と自分で働いてお金を得る喜びは何ものにも代え難く、貧しいながらも浩然は工場での暮らしを楽しんでいた。
 ところがある日、工場に、王静(ワンシン)の使いだと名乗る男がいきなりやって来て、浩然は問答無用に中国へ連れられた。
 浩然が十六歳の春の事だった。

「今まで何の便りもよこさなかったくせに、いきなり父親だとか抜かしやがって、後継者になれだとさ。しかも中国語覚えろ、って、こちとら義務教育しか受けて無ぇのに中国語なんか覚えられるか、ってんだ!」

 そのうえ一日中屋敷に閉じ込められ、始終お付きに監視されている。施設を出てようやく自由を手に入れたにも関わらず、仕事を奪われ、友人を奪われ、故郷を奪われ、挙げ句、後継者になれ、と当然のように言われる。
 勝手に将来を決められることは未来を奪われるのと同じだ。
 教育係は、浩然のことをシンデレラボーイと呼び、浩然がいかに奇跡的な幸運を手にしたかを興奮気味に話したが、望む未来だけでなく、将来を夢見ることさえも奪われてしまった浩然にとっては、王静(ワンシン)に引き取られたことは生きる目的をも失う不運でしかなかった。
 自分は王静(ワンシン)に何もかも奪われた。浩然がそう思うのも無理は無かった。

「あいつは他人の人生なんてこれっぽっちも
考えちゃいない。他人の人生なんてどうでもいいと思ってんのさ」

 激しい、それでいて氷のナイフのように鋭く冷たい光を含んだ瞳を一点に貼り付かせ、浩然は、遠い過去の記憶に語りかけるように言った。

「親父さんのこと、恨んでるの?」

「そりゃ、恨むだろ。俺と母親をほっぽらかしといて……。俺の母親は酒の飲み過ぎで死んだんだよ。身体が弱くて、酒だって全然飲めなかったのに、俺を育てるために無理して飲み屋で働いて、冷たい雪の日、その日相手した客にしこたま飲まされて、路上で倒れてそのまま死んじまった。
 あいつを信じて俺を産んだのに、結婚もしてもらえなくて、生活の面倒も見てもらえなくて……。冷たい雪の中で、誰にも看取られずに一人で死んじまったんだ……」

 亜也人は返答に詰まった。母親が苦しむ姿を見るのがどれほど辛いかは亜也人自身、身をもって経験している。しかし、母親を亡くした辛さは亜也人には解らなかった。
 亜也人の母親は生きていて、おそらく心穏やかに暮らしている。
 たとえ傷付け合うだけの関係だったとしても、生きていれば修復の可能性は残されている。一緒にいた頃は考えもしなかったくせに、いざ離れてみると、母親への恋しさばかりが募り、自分から避けていたことも忘れ、修復したいと考えるようになった。どんなに関係が拗れようと、根本にある、母親恋しさが消えて無くなることはなかった。結局、母親を嫌いになることなど出来ないのだということを、亜也人は、母親と離れて初めて知った。
 確執を抱えていた亜也人ですらそうなのだ。
 短い間とはいえ、母親と仲睦まじく暮らしていた浩然にとって、母親の死がどれほど辛いものであったかは想像を絶するものがある。
 それだけに、亜也人は何も言えなかった。
 亜也人はただ、瞳の奥に怨恨の刃を忍ばせる浩然の悔しげに歪む横顔を見ていた。

「母親はあいつのせいで死んだんだ。あいつが母親を棄てなければ、母親は死なずに済んだ……。だから俺はあいつを絶対に許さねぇ。あいつが俺から母親を奪ったように、俺もあいつの大事なもんを全部奪ってやる。
 ここへ来たのだって、あいつの大切な女をあいつから奪ってやろうと思ったからだ」

「奪う、って……」

「だって、許されねぇだろ。俺の母親をあっさり棄てたくせに、性懲りもなく、また同じことを繰り返そうってんだから。
 もう、これ以上、あいつの好きにはさせねぇ。金があるからって何でも許されると思ったら大間違いだ。
 だから、奪うっつーか、あいつから取り上げてやるつもりだった。なのに、いきなりお前が部屋に来て……。その……まさか男が来るなんて思って無かったからビックリしちまって。だって、一目見ただけで虜になるような美人だって聞いてたんだぜ? フツー、女だと思うだろう?」

「ごめん……」

「バカ。なんでお前が謝るんだよ。早合点したのは俺の方だ……」

「そうだけど、それだけじゃなくて、なんて言うか、こんな時なのに俺、何も上手いこと言えなくて……」

「は?」

「だからその……ヒ、ヒロ? のお母さんの話とか聞いて凄く胸が苦しいのに、俺、何も言えなくて……その……元気づけるようなこととか何も出来なくて……」

 浩然は一瞬大きく目を見開き、しかし直ぐに頬をくしゃっと縮めて笑った。

「お前、バッカじゃないの? なんでお前がそんなことで落ち込むんだよ」

 さっきまでの緊張した表情から一転、すっきりとした一重まぶたを三日月型に曲げ、浩然は、小さな仔猫をあやすような目で亜也人を見た。

「ホント、変な奴。てか、なんて顔してんだよ」

「え……?」

「泣きそうな顔。さっきからずっと泣きそうな顔してるの自分で気付いてねぇの? 自分のことでもねぇのに、当事者の俺よりツラそうな顔してどうすんだ」

 まどろむように目を細めながら亜也人を見、亜也人の前髪を指先で軽く摘んでチョンチョンと引っ張る。浩然の柔らかく穏やかな笑顔を見詰めながら亜也人は軽いデジャヴに襲われていた。
 昔、良二がまだ側にいて、亜也人がちゃんと高校に通っていた頃、亜也人は学校行事の林間学校で同じ班になったクラスメイトに、こんなふうに見詰められたことがあった。
 クラスメイトの瞳には、それまで亜也人を見てきた他の男たちの中にあった、舐め回すようないやらしさも、卑猥な企みも無かった。
 クラスメイトは、何の下心もなく、ただ純粋に亜也人を見ていた。
 亜也人はそれが嬉しかった。
 その時のクラスメイトと同じ瞳を、浩然はしていた。

「でも、ありがとな。俺と、俺の母さんのために泣いてくれて……。下手な慰めより、お前のその優しい気持ちのがよっぽど嬉しいぜ」

「優しくなんか……それに、別に、泣いてない……」

「泣いてるようなもんだろ」

 前髪を引っ張っていた指先を離して鼻先をチョンとつつき、浩然は、この話は終わりだ、とばかり、おどけたように笑った。

「ほら、いつまでもメソメソしてねぇで少し横んなってろよ」

「でも俺……」

「なんだよ、二時間コースなんだろ? まだ時間残ってっから、そこで休んどけ」

「ちょ、ちょっと待って」

 立ち去ろうとする浩然を、亜也人は咄嗟に呼び止めていた。 

「ひっ、ヒロは、どこに行くんだよ」

 慌てたせいで、派手に声が裏返った。
 笑われる。思った矢先、案の定、浩然がクックと笑い出した。

「悪りぃ、悪りぃ。てか、その、捨てられた子犬みたいな顔やめろよ。お前の汚れた服、洗ってくるだけだ。摘み洗いしてドライヤーで乾かしゃ少しは臭い消えるだろ」

 亜也人は、浩然の言葉を聞いてホッとしている自分を可笑しく思った。
 ほんの少し一緒にいただけなのに、このまま離れてしまうのを寂しいと思う。
 友達になれたら、と、ふと思った。
 浩然と友達になれたらどんなに楽しいだろう。
 普通の友達。普通に話して、普通にふざけ合って、「好き」と言っても全く動揺しない、ごく普通の、どこにでもいる男同士の友達になれたら。
 しかし一方で、そんなことは無理だという諦めもあった。
 自分は周りとは違う。普通じゃない。自分の中の何かが周りを狂わせる。だから、深く関わってはいけない。
 それでも期待を抱くことまでは止められなかった。
 浩然の、何の含みもない素直な笑顔を前に、亜也人は、それとは真逆の、自分の後ろ暗さを恨んだ。
 浩然は、突然押し黙る亜也人を呆れたように見下ろした。
 
「おいおい、今度は一体何を思い詰めてやがる。ったく、さっきから、泣きそうンなったり、ニヤニヤしたり、しかめっ面ンなったり本当に忙しいヤツだなぁ。そんなんでよくこんな仕事が出来るもんだと感心するぜ」

 キツい言い方をしながらも、浩然の表情はどこか楽しいそうで声も嬉しそうに弾んでいた。

「俺、お前のこと、男を惑わす魔女みたいに聞かされてたんだぜ? それなのにお前ときたら、思ってること全部顔に出ちまうし、俺と離れるのが寂しいとか、中身はてんで子供じゃん」

「別に寂しくなんか……」

「だから、そうやっていちいち反応するとこが……まぁ、いいや。とにかく、誰も置いてかないから安心しな。てか、ここ俺の滞在先だし、クソ親父に外出禁止喰らってっから、どのみち何処へも行けやしねぇよ」

 亜也人が、え? と顔を上げたのが先だったか、突然、浩然が、何かを思いついたように目を輝かせた。

「そうだ! お前、暇だったら遊びに来いよ!」

「へ?」

「せっかく日本に帰れたのに、クソ親父のせいでここから一歩も出られないんだわ。ここの場所、覚えたろ? ゴールデンウィーク明けまでいるから、暇だったらいつでも遊びに来いよ」

 亜也人は完全に面食らっていた。
 諦めていたものが思わぬ形で目の前に転がり落ちてくる、その衝撃に、頭が混乱し、背筋がゾワゾワと波を立てた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 
 銃は弾を発射させる道具にすぎない。
 銃が人を殺すわけじゃない。
 人を殺すのは、引き金を引く指と、実弾だ。

「そうやってそそのかしたのか……」

 松岡の問いに、「さあな」と返す内藤の、獲物をいたぶるような残忍な薄ら笑いを、松岡はたった今起こったことのように思い出していた。
 石破組三代目組長の菊地がこの世を去った半年前、菊地の自宅から自動拳銃やライフルなどの射撃武器を内藤が形見分けとして持ち帰ったのは知っていた。
 しかし、その中に、現在国内に出回っている、フィリピン、中国製の密造銃とは明らかに違う精巧な拳銃が含まれていたのは初耳だった。
 銃は、北欧製の拳銃を模したいわゆるコピー銃で、口径は9㎜、ルガー弾を使用する。
 銃の話題が出た時点で、内藤がどこかで銃を造らせていることはすぐにピンときた。
 金と暴力。恐怖と快楽に弱い人間はいくらでもいる。
 完璧な設計図と職人さえいれば銃は作れる。問題なのは弾薬だ、と内藤は言った。
 薬莢とパウダー(火薬)はどうにでもなるが、プライマー(雷管)は難しい。火薬はあっても発火させなければ弾は飛ばせない。

「だから、寺田に一肌脱いで貰おうと思ってね」

 内藤のせせら嗤うような瞳が脳裏に蘇った。
 亜也人に仕事を振るのを松岡が嫌がるのを知っていて、内藤は、わざと愉しそうに伝える。
 冷静沈着で、滅多なことでは動揺しない松岡が、亜也人の事となるとみっともないぐらい狼狽えるのが愉しくて堪らないのだろう。
 相手にしないのが一番だと解っていながらも、松岡は、やはり内藤の望み通りの反応をした。
 二十三時半にインペリアルガーラホテル。
 相手はチャイニーズ。
 交換条件のための性接待であることは言うまでもない。
 外人相手は不安だという亜也人を宥め透かし、松岡は、いつものようにホテルへ向かい、ロビーへ消えて行く亜也人の細い背中を車の中から見送った。
 亜也人が戻ってくるのは二時間後。何度経験しても、この二時間は松岡にとって拷問のような時間だった。
 亜也人がセックスに対して罪悪感を持っていることは知っている。亜也人のためを思えば、セックスを肉体だけの快楽と割り切り楽しんだ方が、亜也人の精神的な負担は軽いのかも知れない。しかし、松岡にとってそれはまさに拷問だった。亜也人が他の男の下で喘いでいるのかと思うと頭がどうにかなりそうになる。かと言って、嫌がるのを無理やり犯される亜也人を想像するのも耐えられない。合意の上でも無理やりでも受け入れられない。亜也人が他の男に股を開くこと自体が松岡にとっては気が狂いそうなほどの苦痛なのだ。
 薬に手を出す奴をバカだと思っていたが、今なら、薬に逃げる人間の気持ちが少しは理解出来るような気がする。
 亜也人を労る気持ちと自分自身の身勝手な嫉妬。せめぎ合う思いが絶えず胸に渦巻き、松岡の冷静さを奪い、注意力を鈍らせていた。
 すると、コンコン、とサイドガラスを叩かれ、松岡は慌てて視線を上げた。
 亜也人だった。

「待たせてごめん。怒ってる……よね……」

 ダッシュボードのデジタル時計は既に午前二時を越えている。考えごとをしていて、予定時間より三十分も遅れていることに気付かなかった。

「ごめん。俺、気持ち悪くなって休んでたから、時間延びちゃって」

「気持ち悪くなっただと?」

 亜也人は、助手席に乗り込みながら、違う違う、と否定した。

「別に、変なことされたわけじゃないよ。多分、緊張したせい。それで服が汚れて洗ったりしてたから……」

「吐いたのか」

「ああ、うん……。でも、本当に平気だから」

「そういう問題じゃない。どうして吐いたんだ。吐くようなことをされたのか?」

「ち、違う。緊張したせいだってば。何もされてないよ」

 何かを隠していることは、亜也人の、うろうろと動く瞳と忙しなく瞬く睫毛を見れば一目瞭然だった。
 松岡は頭にカッと血が昇るのを感じた。

「何もされずに吐くわけがないだろう!」

 無意識にアクセルを強く踏み込む。亜也人の反応は、松岡の胸の奥に溜まった心配とも怒りとも取れないモヤモヤしたものを松岡の意識に押し上げた。

「吉祥! どうしたんだよ」

「内藤ンとこ行くんだよ。酷いごとされたってクレーム入れてやる。勝手に時間延長したのだって契約違反だ!」

「契約違反?!」

 亜也人の大声に驚いたのも束の間、ハンドルを握る腕を力任せに引っ張られ、松岡は急ブレーキを掛けて路肩に車を停めた。

「何するんだ、危ないだろ!」

 亜也人は悲痛な顔で松岡を見ていた。

「待ってよ。契約違反なんかじゃないんだ。俺のせいなんだ。俺が悪いのに、薬までくれて服まで洗ってくれたんだ。悪い人じゃない。本当に何もされてないんだ。セックスもしてない。だからクレームなんて入れないでよ、頼むから」

 フッと、松岡は亜也人の言葉に意識を止めた。

『セックスもしてない』

 今回の報酬は、バックに実弾の密輸が絡んでいることを差し引いても、これまでの性接待とは比べものにならないほど高額だった。
 加えて、内藤の話しでは、先方は、六十を超えてもなお大の好色家で、行く先々で男女を問わず欲望の限りを尽くしているという。そんな男が亜也人を目の前にして何もしないというのは考えられなかった。

「本当に何もしなかったのか?」

 亜也人は力強く頷いた。

「してない。話をしただけ……」 

「どんな話をしたんだ……」

「それは……」

「相手はどんな奴だった……」

「どんな、って……」

 嘘をついているのは直ぐに解った。
 松岡は、ハンドルを切り直し、再びアクセルを踏んだ。
 亜也人の視線を無視してひたすら車を走らせ、目に付いたラブホテルの駐車場をくぐる。
 動揺する亜也人を助手席から引きずり下ろし、腕を引っ張って半ば強引に部屋に連れ込んだ。

「ちょっと、なんだよいきなり。痛い、ったら!」

 ベッドの上に仰向けに倒して馬乗りになり、シャツの裾をまくり上げて両腕を上げさせ頭から抜き取った。
 乳首、鎖骨、脇腹、へそ。見たところ、傷やキスマークなどは見当たらない。 
 腕を掴んで肩口から指先までをくまなく見る。静脈の透ける白い腕、両手首ともに縛られた形跡は無い。
 次は。下半身を見ようと、脱がしたシャツで亜也人の両手首を後ろ手に縛り上げ、横向きにして、ズボンのベルトを外し一気に引き下げた。

「あっ、イヤっ! 吉祥!」

 太ももは綺麗だ。膝から下も、いつもの亜也人の、無駄毛の無い滑らかな綺麗な脚のまま。
 最後は一番肝心な場所だった。
 脚をバタつかせて抵抗する亜也人を、「じっとしていろ!」と怒鳴りつけ、大人しくなったところを下着のゴムを掴んで脱がせ、足首から抜き取った。

「もう……やだ……」

 ペニスは、ほんのり赤味がかった程度で痛め付けられた様子は見受けられない。
 うつ伏せに寝かせ、両膝を立ててお尻を上げさせた。
 脚を開くよう言いつけると、何をされるのかを察したのか、亜也人がビクンと肩を震わせた。
 
「見るだけだ。痛くしねぇから」

 柔らかいお尻の肉を両側から掴んで左右に開き、後孔の縁に親指を添えてさらに広げた。
 顔を近づけると、敏感な部分に息がかかり、亜也人が、ヒッ、と声にならない悲鳴を上げる。
 外見上は傷付いた様子はない。
 色素沈着の無い亜也人の後孔は、誤魔化す色素が無い分、性交の際の摩擦跡が残りやすい。
 しかし、亜也人の後孔周辺は綺麗なままだった。
 まさか、本当に何もしていないのか。
 思いながら、指先を唾液で濡らし、入り口に当てた。

「あっ、ヤダ! やめて!」

「息を吐いてろよ……」
 
「あ、あ、あ、あ、あっ……」

 人差し指を、ゆっくりと捻じりながら差し込んで行く。
 亜也人の言ったことが嘘では無かったということは、指を差し入れてすぐに解った。
 亜也人の中は、松岡の指に驚き、侵入を阻むかのようにキツく締め付け、跳ね返した。
 亜也人の中には挿入された痕跡も余韻も見当たらなかった。

「本当に何もしなかったのか……」

「してないよ。さっきからそう言ってるのに……」

 か細く震える声に、亜也人が泣いていることに気が付いた。
 松岡は、お尻を高く上げたまま肩を震わせる、亜也人の美しくしなる背中の曲線を詫びるように撫でた。

「疑って悪かったな……」

「わかったんなら、も……抜いて……」

 根元まで埋めた指をゆっくり抜き戻すと、途中まで抜いたところで、亜也人が首をひねって松岡を見上げた。
 その艶っぽさ。
 涙に濡れた赤い目元がなんとも悩ましく、松岡は、引き抜きかけた指をまた捻じ入れた。

「ヒッ……いやぁっ! なにするっ……」

「お前がそんなふうに俺を誘うから……」

「誘ってなんか……ぁあっ……吉祥がやれって、言ったんじゃ……ッ……ないか! んぁッ……」

 繰り返し指を差し入れながら、中が柔らかくなったところでもう一本増やして更に奥を突く。
 弱い部分を狙わなくとも、松岡によって快楽を植え付けられた亜也人の身体は、粘膜のヒダというヒダが性感帯のように素直に反応する。
 抗えなくなるのはもはや時間の問題だった。
 指の角度を変え、引っ掻くように擦り上げると、途端に亜也人がキュッと肩を縮めて切ない悲鳴を上げた。
 
「ぁあぁっ、ひっ、そっ、そこはダメぇ! ぬ、抜いて! も……抜いて……」

「今抜いたらお前がツラいだろ? それとも俺のが欲しいのか?」

「バカっ! やっ、ぁあああっ、あっん」

 一旦、指を引き抜き、四つん這いになった亜也人の膝を崩してベッドの上に仰向けにひっくり返した。
 股の間に割り入りたい衝動を抑え、亜也人の身体に覆い被さるように身体を重ね、耳のうしろ、首筋、鎖骨と順番に吸い付きながら、白い胸元に佇む薄桃色の乳首を口に含んだ。

「ひっ、やぁっ!」
 
 小ぶりながらも感度の良い亜也人の乳首は、表面をひと舐めするだけで松岡の舌の先でみるみる硬く尖りだす。
 嫌がる素振りとはうらはらなこの反応が、松岡をたまらなく淫靡な気持ちにさせた。

「気持ち良くしてやるから大人しくしてろ」

 舌の先で乳首を舐め転がし、甘噛みしながらキツく吸い上げて乱暴に離す。薄桃色の乳首が赤く充血するほど弄び、もう片方の乳首を指の間に挟んで揺さぶり、揉みつぶすように撫で回した。後孔をさんざんいじられ、既に身体の芯に火を点けられてしまった亜也人に追い討ちをかけるように、松岡は、亜也人の敏感な乳首を執拗に責め、下半身の疼きを最高潮に持って行く。
 さほど時間も経たないうちに、松岡の思惑通り、下敷きになった亜也人のペニスが、松岡の腹部に、徐々に硬く触れ始めた。

「も……やだ……んやぁっ! やめ……あぁん」
 
 身体を起こし、ゆっくり前屈みになって亜也人の股間に顔を近づけ、真っ直ぐに立ち上がった陰茎を指で摘みながら口に含む。
 ほんのりと充血した先の部分をじゅるじゅると音を立てて啜り、亜也人のペニスがビクンビクンと脈打つのを尻目に、一旦口を離し、お尻を掴んで天井を向くように持ち上げた。

「あっ、やぁっ、やだ! これやだって! 吉祥!」

 有無を言わさず、お尻を抱えて陰嚢と後孔の間の柔らかい部分を舐め、そのまま下に降りて、お尻の割れ目を割いて赤くヒクつく後孔の中に舌を差し入れた。

「あぁっ! バカ、バカっ! んダメっ!」

「どうしてだ。これ、好きだろ? 今日は何でも好きなようにしてやる。何でも言え」

 後孔の粘膜を舌でつつきながら、片手を前に回して硬くなったペニスを握り締めた。
 扱き上げた途端、亜也人が泣き声のような悲鳴を上げる。
 行き過ぎた快感は時として苦痛になる。松岡の的を突いた責めに、亜也人は、苦痛と快楽の狭間で身悶えていた。

「やだ……あっ、ああっ、も、これ、やだっ、やめ……」
 
「やめていいのか?」

「ダメ、だめっ、イっ、イっちゃう……からっ……前、離して……」

「イケよ……」

「あぁぁっ! やだっ……こんなの、やぁっ……」

「どうして欲しいんだ?」

 背中が浮くほど身体をひっくり返され、自分のペニスがいたぶられるのを自分の目で見るという羞恥に、亜也人が顔を真っ赤にしながら涙を滲ませる。
 松岡もそろそろ限界だった。
 これ以上焦らしたら、亜也人ではなく自分の方が参ってしまいそうだった。
 歯止めが効かなくなる前に終わらせなければならない。松岡は、頭の方へ返した亜也人の脚を元に戻し、股の間に身体を滑り込ませながら、再び亜也人に覆い被さった。

「どうやって抱いて欲しい? 後ろからか、前からか……」

「普通がいい。……普通に……吉祥の顔を見ながら……したい……」

「わかった……」
 
 亜也人の華奢な膝を左右に開き、備え付けのローションを後孔に垂らし、男根の先を入り口に当てた。
 太ももを抱え、伸び上がるように乗り上げ、沈み込む。

「あっ、んんんんっ……んっ、あっ」

 亜也人の喘ぐ顔を見ようと身を屈めると、亜也人が松岡の頭の後ろに手を回し、激しくキスを求めた。

「亜也人……」

「ん、あぁ……ぁんぁぁっ、吉祥……あ、んっ……もっと……」

 塞がれた唇の隙間から漏れる甘い喘ぎに官能を刺激され、下半身が本能のまま勝手に動き出す。
 亜也人の粘膜がビクビクと痙攣するのを感じながら、松岡は、猛り狂った肉棒を奥へ奥へと突き立てた。

「どうだ……。気持ちいいか……」

「ひッ、ぁあっ、ダメっ、そんなしたら…でっ、でる……でちゃう……」

「何回だって出せばいいさ」

 隙間なく貼り付き、抱き締め合って一つになった状態で前後に揺さぶられながら、濃厚なキスを繰り返す。
 身悶えながら、細く絞り出すように喘ぐ亜也人の掠れた声を聞きながら、松岡は、欲望のまま亜也人を貫き揺さぶった。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「ラッキーだったと思えばいいじゃないすか。亜也ちゃんがド助平オヤジの餌食にならずに済んだってだけでもラッキーなのに、報酬まで貰えたんでしょ? ンな、願ったり叶ったりのダブルのラッキーで、何をそんなに気に病む必要があるんです?」

 紀伊田の、物事を深く考えないケロリとしたモノの言いように、松岡の口から自然と溜め息が漏れた。
 紀伊田の言う通り、亜也人が黒い噂のあるチャイニーズの餌食にならずに済んだことはラッキーだった。
 しかし、そんな状況にもかかわらず、まるまる報酬を得たことは単純には喜べないものがあった。
 金がモノを言う闇社会では、そこに生きる人間も当然、金にうるさい。特にチャイニーズは、義理人情より金に重きを置き、金次第では身内もあっさり裏切ると聞く。
 しかも、今回の相手はバイセクシャルの好色家だ。
 そのチャイニーズが、賄賂として差し出された亜也人に手も付けずに返すのがまず不自然だった。
 ゲイでなくとも亜也人に変な気を起こす男はたくさんいる。
 自分がそうであったように、亜也人を自分だけのものにしたいと思う輩はごまんといると松岡は思っている。容姿だけでなく、目が合ったが最後、男の欲望を駆り立て、惹き付けるものが亜也人にはある。
 実行に移すケースは両極端で、普通の人間はおおかた諦める。諦めないのは、亜也人の価値を理解していない身の程知らずなガキか、亜也人の美貌に気後れしないだけの自信を持っている人間。
 その自信が、金なのか、権力なのか、男気なのかは解らないが、自信がなければ亜也人を手の内に入れることは出来ない。
 松岡が今こうして亜也人と共にいるのは、出会った頃の亜也人が十七歳の不良少年であったからであって、今の、大人の色香の漂い始めた亜也人であったなら、松岡といえど迂闊に近付けなかった。
 そういう意味では、金と権力の両方を持っているチャイニーズは、亜也人を自分のものにする自信を十二分に持っていた。

「松岡さんがこんなに警戒するなんて、そんなヤバイ奴なんすか?」

 野次馬な紀伊田を鬱陶しく思いながらも、松岡は、「そうだ」と答えていた。紀伊田に聞かれるとつい口が緩くなってしまう。亜也人が人を惹きつける何かを持っているように、紀伊田は、人を油断させる何かを持っている。一匹狼で通った松岡が紀伊田にだけ心を許すのは、紀伊田の醸し出す、人を安心させる雰囲気と、付かず離れずの絶妙な距離感に依るところが大きい。
 口が軽いと悪態をつきながらも、松岡は結局、紀伊田には全てを話していた。

「相手は、王静(ワンシン)という名のチャイニーズ。
 上海に本社を置く複合企業の代表にして世界的に有名な投資家だ」

「ワン……シン?」

「ああ。だが、それはあくまで表の顔で、裏では密売組織のトップとして君臨し、アジア地域での麻薬や銃の密輸を取り仕切る元締めとも言われてる。それと、フェニックス、って知ってるだろう? あの、渋谷で幅をきかせてるチャイニーズギャングのフェニックスだ。別件での繋がりで解ったんだが、どうやらそれの親玉らしい」

「チャイニーズ……ギャング……」

「紀伊田……どうかしたのか?」

 自分から聞いておいて何故かうわの空の紀伊田に、やれやれ、と溜め息をつき、松岡は、飲みかけのコーヒーを飲み干し、ソファーに深々と身体を沈めた。
 黙りこくる紀伊田を横目に、足を投げ出し天井を仰いで目を閉じる。ワンシンについて思いを巡らせていると、突然リビングのドアが開き、家庭教師の佐伯が、日焼けした肌に映える白い歯を輝かせながら、にこやかな表情で歩いてきた。
 機嫌が良いのは紀伊田とのデートが控えているせいだろう。亜也人の授業を終えた後、佐伯が紀伊田と特別な時間を過ごしていることは松岡と亜也人の間では暗黙の了解だった。
 人懐こく憎めない性格ではあるものの、お調子者でガードが甘く、誰に対してもオープンすぎる八方美人な紀伊田のどこがそんなに良いのか松岡には理解出来なかったが、佐伯にとっては、紀伊田は、どこをとっても可愛らしさしか無い、誰よりも可憐なお姫様らしい。
  同意はし兼ねるが、授業の後、佐伯が紀伊田と早く二人きりになりたいがために、紀伊田を急かしてさっさと帰ってくれるのは松岡にとっては有り難かった。
 佐伯は、待ち兼ねたとばかり軽やかな足取りで近付くと、ソファーに座る紀伊田の真横に立ち、子供が甘えるように紀伊田の両手を引っ張りぶらぶらと揺さぶった。

「ほら、早く帰りましょうよ、紀伊田さん」

 紀伊田は、佐伯に手を取られてようやく我に返ったように瞳を引き締めた。

「ンだよ、離せよ。気持ち悪りぃ」

「そんな言い方しないでくださいよぉ。立たせてあげようとしてるだけじゃないですかぁ」

「わぁったから離せ。鬱陶しい」

「ああもう、これくらい、いいじゃないですかぁ」

 紀伊田に続いて入ってきた亜也人が、二人のやり取りを見て笑う。
 松岡は、紀伊田の隣に座り、紀伊田と佐伯がいちゃつく様子を見てニヤついていた。
 憎まれ口を叩きながらも、紀伊田の耳がわずかに紅潮していることは、隣にいる松岡からは一目瞭然だ。佐伯も、それを解っていてわざとまとわりついているのだろう。いい歳をした野郎二人のいちゃつきを半分鼻で笑いながらも、松岡は、自分と亜也人の間には無い、紀伊田たちの砕けた雰囲気を羨ましく思った。

「佐伯先生、お母さんに叱られる子供みたいだ」

 松岡と同じことを思っていたのか、亜也人が心なしか羨むような寂しげな顔で笑う。
 佐伯は、亜也人を様子を気にとめることもなく、隣に立つ亜也人を振り返り、「それはないよー」と、大袈裟に眉を八の字に曲げた。

「それじゃまるで僕が駄々を捏ねてるみたいじゃないか。紀伊田さんはこう見えて結構こういうのが好きなんだよ。ね。そうでしょ、紀伊田さん」

「誰が、好きだ、バカ!」

 背筋が痒くなるようなこのやり取りは一体いつまで続くのだろうか。思った矢先、亜也人のスマホの着信音が鳴り、松岡は音に釣られて顔を上げた。
 すると、なぜだか佐伯の様子がおかしい。
 佐伯は、亜也人がズボンのポケットからスマホを取り出し胸の位置に持ち上げると同時に、瞬く間に表情を変え、それから何故か紀伊田の顔をじっと見た。
 紀伊田は、突然真面目くさった顔で自分を見詰める佐伯をポカンと見上げている。
 困っているような怒っているような顔で立ち竦む佐伯とはうらはらに、隣に立つ亜也人は嬉しそうに頬を緩ませていた。
 その一部始終を見ながら、松岡は、説明のつかない不安に襲われていた。
 佐伯の驚いた顔、紀伊田を見る目、亜也人のはにかむような笑顔。先程の紀伊田の心此処にあらずな感じも妙に引っ掛かる。
 知らないところで、何かが動いているような気がした。
 漠然とした不安が胸を渦巻き、嫌な予感が頭をもたげる。
 こういう時の予感ほど良く当たることを松岡は知っている。実際それは、ことごとく的中して松岡を苦しめ、今もまた松岡を苦しめようとしていた。

 
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