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01章:突飛な出会いと旅立つ日。
02:~新たな日常~
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…………――ごつん。
頂点にまで昇り詰め、急降下するジェットコースターに乗った時のような浮遊感を感じたかと思うと、鈍く重い衝突音がした。
それは、ぐっすりと熟睡していた青年の意識を一気に覚醒させ、ついさっきまで見ていた夢を忘れさせるまでの衝撃だったのだ。旋毛からじんわりと全神経へとくまなく伝わったそれが「鈍痛」であると、脳に伝達されるのはあと数秒後――
「ッ、てえ……」
ベッドから落ちたということを理解したのも、彼が苦悶を声にすることが出来た時である。痛む頭頂部を押さえながら顔をくしゃくしゃに顰め、寝惚け眼をうっそりと開いた。
もう、朝か……。
カーテンの隙間から覗く眩しい陽光に目を細め、身動ぐ。1筋の光から目を逸らすかのように窓から背を向け、陰ったところにかかっている時計に視線を寄越す。――時刻は7時40分。起床予定時刻よりも20分も早い。「うわ」と掠れた声で言った彼は、逆さまのまま仰向けになり、がっかりと脱力した。
誰だって朝は1分1秒が大切なのだ。よりによって貴重な睡眠時間を奪われたとなると、文句の1つや2つ、言いたくなるものだろう。
ボリボリと首筋を掻き毟りつつ、フローリングに打ち付けたと頭頂部を抑えた。
2度寝すれば、昼までコースだな……。
そう独り言を言いながら、ぼんやりとしている頭を再度休めることを諦める。そして、まだ辛うじて布団の中に残っていた右足で布団を跳ね除けると、自由が利かない体をどうにか動かして、反転していた世界から脱出した。
ギシ、とスプリングが啼く音を聞きながらベッドに腰を掛け、倦怠感が残る焦げ茶色の瞳を擦って、やや寝癖のついた黒い短髪を撫でつける。
目の前で踊るひらひらとカーテンを煽る爽やかな風とは裏腹に、彼――神東鈴丞の気分はどんよりと沈み込み、表情は酷く曇り、黒い隈が浮き上がっている顔は、やつれている。
――またあの夢だった。
フローリングに追突した衝撃で飛びかけていた夢の中の記憶は、思考がはっきりとしてくるにつれて徐々に蘇ってくる。
行方不明になった幼馴染、それを探しに行く鈴丞。
不気味な公園に、痛く痺れる雷撃。
実際に起こった非現実のような現実は、しばらく経っても鮮明に思い出すことが出来る。それは、彼にとって枷でしかない。
トラウマというものなのだろうか。仄暗く目を背けてしまいたくなるような記憶は、あの時から何度も彼の夢を侵すのだ。決して忘れさせはしないと、今も暗闇にいる彼女に見張られているようにも思えていた。
――忘れたくても忘れられるはずがない。
あの豪雨の日、彼女を救出することが出来なかった己の罪は、まだ若く繊細な心を持つ鈴丞にとって赦されざる重罪なのだ。例え、他人が彼を赦し、労る言葉を掛け続けたとしても、彼自身が己のことを許せないのだ。
実際に彼女の最後の表情を見た鈴丞は、周りが言うように「仕方ない」と割り切れるほど、まだ達観した大人ではなかった。
あの嫌な現実が、上手く寝付けない時に見る、質の悪い夢であったならばどれほど良かったか。
しかし、残された鈴丞の体に残ったものは、架空のものだと信じてやまなかった雷の能力だ。そして何より、彼は教科書にも地図にも載っていない国――ロビンス・ケイル王国に身を置き、足を引っ張る枷に苦しめられながら、皮肉にも平穏な毎日を過ごしているのだから、あれが現実であると認めざるを得ない。
ファンタジーものの物語の主人公になったようだ、と言えば聞こえは良いだろう。だが、現実はファンタジーのようにはいかないのだ。
非現実的な能力を持ってしまった鈴丞は、特殊な能力に対する対策を持たない日本にとっては、「脅威」であり、「邪魔者」でしかなかった。
結果、一生涯を過ごすつもりだった故郷の国からあれよあれよと追い出されるように移住してきたが、言語も文化もさっぱりわからないこの国にいることは、苦痛ばかりではなかった。
1つは、暑い気候が大の苦手である鈴丞にとって、1年中春の陽気を保っているこの国は、日本よりもずっと過ごし易い。何より、特別な力に怯え、好奇の目を向けられながら、肩身の狭い思いをするよりもずっといい。
だからこれで良かったんだ。
そう言い聞かせ、暗い気分を押し殺すようにため息を吐くと、のっそりと重い腰を上げた。
時計の針は丁度8時を差している。
備え付けのクローゼットの中から、ラフで動き易い私服に着替え、風で揺らいでいるカーテンを開ける。軽快な音と共に、部屋に侵入してくる日差しは燦々と眩い。未だ朝であるというのに、子どもの健全で明るい笑顔のようなその陽光は、濁った瞳には少々堪えるものがある。
つんと刺すような痛みを目の奥に感じると、即座に瞳を閉じ、襲い来る鈍痛にひくりと鼻を動かした。
じんわりと目と目の間に止まっていた熱さが消え去った頃、恐る恐る開眼した彼の視界に広がったのは、嫌味なほどに雲1つない蒼空と、白い雲が同化する無彩色な街の風景。写真で見た西ヨーロッパの都心のような風景が瞬く間に視界を彩ったのだ。
まだ昇り切ったばかりの太陽が街を暖め切れておらず、薄ら寒いはずなのに、忙しなく開店準備をしている女性や、着崩した制服を着て鈍重な動きで学校へと向かう学生たち。それを追い越して仕事に向かう早足で大人たちを一望する。
鈴丞が、睡眠時間を妨げられてうんざりした気持ちになったように、1日の始まりにそれぞれが、それぞれの思いを抱いているのだろう。
隣り合う店の主は、楽しげに挨拶を交わし、次第に増えていく通勤・通学者たちは、皆似たような速度で同じ方向を向いている。だが、彼らは1人で物憂げな表情をしていたり、友人と待ち合わせをし、楽しげに会話をしていたりと、1人1人、全く表情が異なるのである。
2階に位置する個室で、それらを見物していた鈴丞は、正面の家の窓枠に小鳥が2羽とまったのを見届け、そっと窓際から離れたのだった。
――平常通りの1日の始まりを知り、胸のあたりで渦巻いていた不快感も多少は軽減されていた。
ふあ、と大口を開けて長く欠伸をし、ぐっと背伸びをする。普段は、丸まっている背筋を伸ばして、全身に力を入れると、凝り固まった筋肉が解れ、悪夢のせいで溜まった疲労感が出ていくようで気持ちが良い。
天井に向けた腕をそのままに、胴体を左右に揺らし、上半身の筋肉を動かしながら、中途半端になっている身支度を済ませるため、部屋の外へ足を踏み出した。
鈴丞が部屋の一角を借りているこの寮は、街の中心に位置する大学に通う学生が多く住まう。
だから、午前中のうちはまだ静まり帰っているが、講義が終了する夕刻から深夜にかけて、若い学生が1日の疲労を癒しつつ、友人とのひとときを楽しむために1階にある共有スペースや廊下に集い、賑やかに交流をしているのだ。
在学中ではない鈴丞は、その輪に入ることすらも憚られ、傍目で見ているだけであるが、講義の復習や、声を顰めて教師に対する愚痴を言う彼らを見ていると、どこか懐古的な気持ちになる。自分にもそんな時期があったのだと。
ロビンス・ケイルに来てからは、友人を作る余裕もなく、必然的に1人で行動することが多くなったが、元々友人は少なくはない。要するに、賑やかなところにいることは嫌いではないのだ。
しかし――大学の講義が始まる時刻が差し迫ってきている今は、どこも閑散としており、人気のない廊下は、空いた窓から送られる爽やかな早朝の風がさらさらと吹き抜けているだけであった。それに、昨夜も日付が変わるまで賑やかな声が聞こえていた。よって、おそらく午前中に講義の予定が入っていない学生は、まだ夢の中にいることだろう。そう想像した鈴丞は、そろりそろりと忍足で木製の廊下を歩く。
5枚、6枚と簡素なドアの前を通り過ぎ、曲がり角を1つ曲がった先の突き当たりにひっそりと佇んでいるドアのノブを捻り、少しだけ開いた扉の隙間から体を滑り込ませた先は、寮生が共有している洗面所である。
寮生が用意したという小物以外、清潔感溢れる純白で統一され、垢を残すことなく綺麗に磨かれた洗面台が2つ立ち並んでいる。その向かい側には、男女別になった浴室があり、ゆったりと足を伸ばして浸かることが出来る大浴槽と、簡易的なシャワールームが併設されており、故郷の銭湯を連想させる。
ドアで遮られている女風呂の脱衣所からは、楽しげな会話が聞こえてくるが、鈴丞は見向きもしない。まるで興味がないといった表情で、洗面台に備え付けられている鏡を一瞥すると、蛇口を捻り、白いガラスの洗面台に水を落とした。
愉快に跳ねた寝癖を濡れた手で撫で付け、寝惚けている顔を乱暴に濯ぐと、持ってきていたタオルでガシガシと顔を拭きながら、早足でその場を立ち去る。再び、眠っている学生に気を使いながら部屋に戻ると、くしゃくしゃになったタオルを机の上に放り投げ、交換するようにベッド脇にある再度チェストの隅にぽつんと置かれていた財布を引っ掴んで部屋から退出した。
洗面所とは反対方向に、3部屋先にある階段を降りきり、玄関のロビーに出る。
前述した共有スペースは、左折したところにある食堂に併設された広いホールなのだが、玄関前のスペースも寮生の憩いの場となっている。
木製の足を持ったソファーが向き合う形で2つ並び、その間にはガラスのローテーブルが設置されている。主に出掛ける前の待ち合わせや、講義と講義の間の時間に束の間のティータイムを楽しむために使われているのだ。
今は誰もいないが、ソファの座り心地はかなり良く、寮生だけでなく近所に住む人々も時々休みにきているくらいなのだ。
「あら、おはよう鈴丞ちゃん。今日は早いのねえ」
「おはようございます。……少し夢見が悪くて」
「まあ、まあ。だから上から物凄い音が聞こえていたのね?またベッドから落ちちゃったのかしら?」
「…………まあ」
おばさん驚いちゃった。と言い、小さな背を精一杯に伸ばして、背中を丸めた鈴丞の頭を撫でる初老の女性の名前はマドラ。鈴丞が生活をしている学生寮の寮母だ。
この街に越してきて間もない頃、右も左も、肝心の言語も分からなかった鈴丞に、手を差し伸べてくれて温厚でのんびりとした女性である。掃除を趣味としており、今日も箒を片手に柔和な笑顔を浮かべていた。
その人好きする笑顔は、ようやく大人に近付いたばかりの学生たちの心をほぐし、信頼を与えた。実際、人生経験もかなり豊富なようで、悩める男女の相談相手として、寮内外、年齢問わず人気者なのだ。と、この街に住む者ならば、口を揃えて言う。
「出掛けるの?」
「ああ。散歩のついでに朝飯食って来ようと思って」
「ま。良いわね、良いわね!気をつけて行ってらっしゃいな」
くう、と空腹を知らせる腹部に手を置く鈴丞の頭上から手を離し、幼い子どもに言い聞かせるように言った彼女の言葉に頷きながら、「行ってきます」と玄関を出る。
朝の新鮮な空気を直接浴びると、まだ少し残っていた憂鬱な残滓も吹き飛んでしまった……気がする。
鈴丞は長くため息をすると、まだ静けさを保つ街の中へと溶けていったのだった。
頂点にまで昇り詰め、急降下するジェットコースターに乗った時のような浮遊感を感じたかと思うと、鈍く重い衝突音がした。
それは、ぐっすりと熟睡していた青年の意識を一気に覚醒させ、ついさっきまで見ていた夢を忘れさせるまでの衝撃だったのだ。旋毛からじんわりと全神経へとくまなく伝わったそれが「鈍痛」であると、脳に伝達されるのはあと数秒後――
「ッ、てえ……」
ベッドから落ちたということを理解したのも、彼が苦悶を声にすることが出来た時である。痛む頭頂部を押さえながら顔をくしゃくしゃに顰め、寝惚け眼をうっそりと開いた。
もう、朝か……。
カーテンの隙間から覗く眩しい陽光に目を細め、身動ぐ。1筋の光から目を逸らすかのように窓から背を向け、陰ったところにかかっている時計に視線を寄越す。――時刻は7時40分。起床予定時刻よりも20分も早い。「うわ」と掠れた声で言った彼は、逆さまのまま仰向けになり、がっかりと脱力した。
誰だって朝は1分1秒が大切なのだ。よりによって貴重な睡眠時間を奪われたとなると、文句の1つや2つ、言いたくなるものだろう。
ボリボリと首筋を掻き毟りつつ、フローリングに打ち付けたと頭頂部を抑えた。
2度寝すれば、昼までコースだな……。
そう独り言を言いながら、ぼんやりとしている頭を再度休めることを諦める。そして、まだ辛うじて布団の中に残っていた右足で布団を跳ね除けると、自由が利かない体をどうにか動かして、反転していた世界から脱出した。
ギシ、とスプリングが啼く音を聞きながらベッドに腰を掛け、倦怠感が残る焦げ茶色の瞳を擦って、やや寝癖のついた黒い短髪を撫でつける。
目の前で踊るひらひらとカーテンを煽る爽やかな風とは裏腹に、彼――神東鈴丞の気分はどんよりと沈み込み、表情は酷く曇り、黒い隈が浮き上がっている顔は、やつれている。
――またあの夢だった。
フローリングに追突した衝撃で飛びかけていた夢の中の記憶は、思考がはっきりとしてくるにつれて徐々に蘇ってくる。
行方不明になった幼馴染、それを探しに行く鈴丞。
不気味な公園に、痛く痺れる雷撃。
実際に起こった非現実のような現実は、しばらく経っても鮮明に思い出すことが出来る。それは、彼にとって枷でしかない。
トラウマというものなのだろうか。仄暗く目を背けてしまいたくなるような記憶は、あの時から何度も彼の夢を侵すのだ。決して忘れさせはしないと、今も暗闇にいる彼女に見張られているようにも思えていた。
――忘れたくても忘れられるはずがない。
あの豪雨の日、彼女を救出することが出来なかった己の罪は、まだ若く繊細な心を持つ鈴丞にとって赦されざる重罪なのだ。例え、他人が彼を赦し、労る言葉を掛け続けたとしても、彼自身が己のことを許せないのだ。
実際に彼女の最後の表情を見た鈴丞は、周りが言うように「仕方ない」と割り切れるほど、まだ達観した大人ではなかった。
あの嫌な現実が、上手く寝付けない時に見る、質の悪い夢であったならばどれほど良かったか。
しかし、残された鈴丞の体に残ったものは、架空のものだと信じてやまなかった雷の能力だ。そして何より、彼は教科書にも地図にも載っていない国――ロビンス・ケイル王国に身を置き、足を引っ張る枷に苦しめられながら、皮肉にも平穏な毎日を過ごしているのだから、あれが現実であると認めざるを得ない。
ファンタジーものの物語の主人公になったようだ、と言えば聞こえは良いだろう。だが、現実はファンタジーのようにはいかないのだ。
非現実的な能力を持ってしまった鈴丞は、特殊な能力に対する対策を持たない日本にとっては、「脅威」であり、「邪魔者」でしかなかった。
結果、一生涯を過ごすつもりだった故郷の国からあれよあれよと追い出されるように移住してきたが、言語も文化もさっぱりわからないこの国にいることは、苦痛ばかりではなかった。
1つは、暑い気候が大の苦手である鈴丞にとって、1年中春の陽気を保っているこの国は、日本よりもずっと過ごし易い。何より、特別な力に怯え、好奇の目を向けられながら、肩身の狭い思いをするよりもずっといい。
だからこれで良かったんだ。
そう言い聞かせ、暗い気分を押し殺すようにため息を吐くと、のっそりと重い腰を上げた。
時計の針は丁度8時を差している。
備え付けのクローゼットの中から、ラフで動き易い私服に着替え、風で揺らいでいるカーテンを開ける。軽快な音と共に、部屋に侵入してくる日差しは燦々と眩い。未だ朝であるというのに、子どもの健全で明るい笑顔のようなその陽光は、濁った瞳には少々堪えるものがある。
つんと刺すような痛みを目の奥に感じると、即座に瞳を閉じ、襲い来る鈍痛にひくりと鼻を動かした。
じんわりと目と目の間に止まっていた熱さが消え去った頃、恐る恐る開眼した彼の視界に広がったのは、嫌味なほどに雲1つない蒼空と、白い雲が同化する無彩色な街の風景。写真で見た西ヨーロッパの都心のような風景が瞬く間に視界を彩ったのだ。
まだ昇り切ったばかりの太陽が街を暖め切れておらず、薄ら寒いはずなのに、忙しなく開店準備をしている女性や、着崩した制服を着て鈍重な動きで学校へと向かう学生たち。それを追い越して仕事に向かう早足で大人たちを一望する。
鈴丞が、睡眠時間を妨げられてうんざりした気持ちになったように、1日の始まりにそれぞれが、それぞれの思いを抱いているのだろう。
隣り合う店の主は、楽しげに挨拶を交わし、次第に増えていく通勤・通学者たちは、皆似たような速度で同じ方向を向いている。だが、彼らは1人で物憂げな表情をしていたり、友人と待ち合わせをし、楽しげに会話をしていたりと、1人1人、全く表情が異なるのである。
2階に位置する個室で、それらを見物していた鈴丞は、正面の家の窓枠に小鳥が2羽とまったのを見届け、そっと窓際から離れたのだった。
――平常通りの1日の始まりを知り、胸のあたりで渦巻いていた不快感も多少は軽減されていた。
ふあ、と大口を開けて長く欠伸をし、ぐっと背伸びをする。普段は、丸まっている背筋を伸ばして、全身に力を入れると、凝り固まった筋肉が解れ、悪夢のせいで溜まった疲労感が出ていくようで気持ちが良い。
天井に向けた腕をそのままに、胴体を左右に揺らし、上半身の筋肉を動かしながら、中途半端になっている身支度を済ませるため、部屋の外へ足を踏み出した。
鈴丞が部屋の一角を借りているこの寮は、街の中心に位置する大学に通う学生が多く住まう。
だから、午前中のうちはまだ静まり帰っているが、講義が終了する夕刻から深夜にかけて、若い学生が1日の疲労を癒しつつ、友人とのひとときを楽しむために1階にある共有スペースや廊下に集い、賑やかに交流をしているのだ。
在学中ではない鈴丞は、その輪に入ることすらも憚られ、傍目で見ているだけであるが、講義の復習や、声を顰めて教師に対する愚痴を言う彼らを見ていると、どこか懐古的な気持ちになる。自分にもそんな時期があったのだと。
ロビンス・ケイルに来てからは、友人を作る余裕もなく、必然的に1人で行動することが多くなったが、元々友人は少なくはない。要するに、賑やかなところにいることは嫌いではないのだ。
しかし――大学の講義が始まる時刻が差し迫ってきている今は、どこも閑散としており、人気のない廊下は、空いた窓から送られる爽やかな早朝の風がさらさらと吹き抜けているだけであった。それに、昨夜も日付が変わるまで賑やかな声が聞こえていた。よって、おそらく午前中に講義の予定が入っていない学生は、まだ夢の中にいることだろう。そう想像した鈴丞は、そろりそろりと忍足で木製の廊下を歩く。
5枚、6枚と簡素なドアの前を通り過ぎ、曲がり角を1つ曲がった先の突き当たりにひっそりと佇んでいるドアのノブを捻り、少しだけ開いた扉の隙間から体を滑り込ませた先は、寮生が共有している洗面所である。
寮生が用意したという小物以外、清潔感溢れる純白で統一され、垢を残すことなく綺麗に磨かれた洗面台が2つ立ち並んでいる。その向かい側には、男女別になった浴室があり、ゆったりと足を伸ばして浸かることが出来る大浴槽と、簡易的なシャワールームが併設されており、故郷の銭湯を連想させる。
ドアで遮られている女風呂の脱衣所からは、楽しげな会話が聞こえてくるが、鈴丞は見向きもしない。まるで興味がないといった表情で、洗面台に備え付けられている鏡を一瞥すると、蛇口を捻り、白いガラスの洗面台に水を落とした。
愉快に跳ねた寝癖を濡れた手で撫で付け、寝惚けている顔を乱暴に濯ぐと、持ってきていたタオルでガシガシと顔を拭きながら、早足でその場を立ち去る。再び、眠っている学生に気を使いながら部屋に戻ると、くしゃくしゃになったタオルを机の上に放り投げ、交換するようにベッド脇にある再度チェストの隅にぽつんと置かれていた財布を引っ掴んで部屋から退出した。
洗面所とは反対方向に、3部屋先にある階段を降りきり、玄関のロビーに出る。
前述した共有スペースは、左折したところにある食堂に併設された広いホールなのだが、玄関前のスペースも寮生の憩いの場となっている。
木製の足を持ったソファーが向き合う形で2つ並び、その間にはガラスのローテーブルが設置されている。主に出掛ける前の待ち合わせや、講義と講義の間の時間に束の間のティータイムを楽しむために使われているのだ。
今は誰もいないが、ソファの座り心地はかなり良く、寮生だけでなく近所に住む人々も時々休みにきているくらいなのだ。
「あら、おはよう鈴丞ちゃん。今日は早いのねえ」
「おはようございます。……少し夢見が悪くて」
「まあ、まあ。だから上から物凄い音が聞こえていたのね?またベッドから落ちちゃったのかしら?」
「…………まあ」
おばさん驚いちゃった。と言い、小さな背を精一杯に伸ばして、背中を丸めた鈴丞の頭を撫でる初老の女性の名前はマドラ。鈴丞が生活をしている学生寮の寮母だ。
この街に越してきて間もない頃、右も左も、肝心の言語も分からなかった鈴丞に、手を差し伸べてくれて温厚でのんびりとした女性である。掃除を趣味としており、今日も箒を片手に柔和な笑顔を浮かべていた。
その人好きする笑顔は、ようやく大人に近付いたばかりの学生たちの心をほぐし、信頼を与えた。実際、人生経験もかなり豊富なようで、悩める男女の相談相手として、寮内外、年齢問わず人気者なのだ。と、この街に住む者ならば、口を揃えて言う。
「出掛けるの?」
「ああ。散歩のついでに朝飯食って来ようと思って」
「ま。良いわね、良いわね!気をつけて行ってらっしゃいな」
くう、と空腹を知らせる腹部に手を置く鈴丞の頭上から手を離し、幼い子どもに言い聞かせるように言った彼女の言葉に頷きながら、「行ってきます」と玄関を出る。
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