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01章:突飛な出会いと旅立つ日。
09:~旅立つ日。~
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少年の自宅から5分もしないところに位置するのは、示し合わせたかのように白を基調とした街にとって稀有な夜空のような黒色の壁が目印の建物。それが現在、鈴丞が身を置いている学生寮であった。
「こんにちはーっ!」
そこへ到着するなり両開きのドアを開け、元気良く挨拶をしたフランは、我が物顔でがらんとしている玄関ホールへと駆け込んだ。
しかし、暖かなウッド調の壁が出迎えてくれる玄関ホールには誰もいない。共有スペースからこそこそと会話する声が聞こえてくるが、玄関ホールに設置されているソファには誰も座っていないのだ。口を尖らせたフランはキョロキョロと辺りを見回した。
少しの間、しんと音のない時間はあった。しかし、すぐさまカタカタと微かな物音がしたかと思うと、数秒後にはパタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえ、来客を急いで迎えようと「遅くなってごめんなさいね」と言いながら、ひょっこりとふくよかな顔を覗かせたのだ。マドラだ。
彼女は思わぬ来客を前に、にこやかな表情を目を丸くすることによって崩し、あらあらと口許を抑えて目を輝かせた。
「まあ、フランちゃん!こんにちは、お久し振りねえ」
「うん!元気にしてた?」
「もちろん!この通り、私は元気よ。フランちゃんこそ変わりなさそうで安心したわ。――あら、でも少し、背が伸びたかしら?」
驚愕の表情から一変、破顔したマドラは、駆け寄るフランの体をぎゅうっと抱き締めた。柔らかい腕で包み込み、愛おしい子を愛でるようにふわふわの金色の糸を撫でるその姿は、まるで母親のようだ。
人並みに大切に育てられた自覚はあるが、3人の子どもを持つ両親は多忙で、親の愛情を直に感じる暇さえなく成長した鈴丞にとって、優しく包み込んでくれる存在と言えば1番目の姉だ。穏やかで暖かな無性の愛をくれる。家事を得意とするマドラとは異なり、料理は2番目の姉の方が得意であったが。
それでも目の前にいる彼女の優しい手つきを眺めていると、どうしても懐古的な気持ちになるのだ。
いつまでも鈴丞の頭を撫でるのが好きだった姉をマドラに重ねながら、フランたちの再会を邪魔してはいけないと判断した鈴丞は、そっとその場を離れて自室へと向かう。
しかし、何度も修繕はしているものの、老朽化したこの建物は、どれだけ気を遣っても軋む音だけは避けられない。どうか気付かないでいてくれと、床が軋む度に切実に思うが、彼の願いも虚しく、ほんの僅かな音に気が付いたマドラは、挙動がおかしい青年を「鈴丞ちゃん」と呼び止めた。
ぎくりと体を硬らせるが、恩人の声を無下にするわけにもいかず、何気ないふりをして振り返ると、彼女は鈴丞に問い掛ける。
「あなたとフランちゃん、お知り合いだったの?」
「いや、今日大通りで出会ったばかりだ」
「そうなんだ。それでね、今日から本島の方へ旅に出ようと思うんだけど……リンのことを借りたいんだ。マドラさん、良いかなあ?」
「鈴丞ちゃんが良いのなら私は構わないわ」
腕の中に閉じ込めているフランに向かって、やんわりと頷くマドラを見届けた鈴丞は、今度こそ階段を上がり、廊下で会話に花を咲かせている男女の背後を通り抜けて自室へと入室した。
ギギ……と怪しい音を立てるドアが閉まったことを確認すると、ほとんど乾いている黒髪を撫でつけ、まだ若干肌に纏わり付いている服を脱ぎ捨てると、マドラの手によって綺麗に洗濯され、柔軟剤のフローラルな香りが鼻を擽る黒のTシャツを着て灰色のパーカーを羽織る。そして、ふう、と一息吐くと、戸締りは大事だと言ったフランの言葉を思い出し、何度も施錠確認をした。
念入りに確認した後、大きく息を吐き出しながらどっかりと椅子に腰を掛ける。机に片肘をついて部屋を見渡すと、一気に蓄積された疲労を追い出すかのように脱力した。
――備え付けの家具のみが置かれている部屋は閑散としており、スペースが有り余る部屋は随分ともの寂しい。事情はあれど、折角の自由な一人暮らしなのだ。もう少し色味のあるものを増やしておけばよかったか、と己への無関心さに若干ながら反省をするが、どちらにしろ彼はミニマリストであったし、ロビンス・ケイルに来てからというもの、生きることに必要な生理的欲求以外の欲は芽生えてこなかったのだ。たとえ、鈴丞が部屋の細部にまでこだわる洒落た性格をしていたとしても部屋のスペースは埋まっていなかっただろう。
ま、いいか。
そう思うと、つい数秒前の後悔も忘れ、鈴丞はすぐに部屋から顔を背けてしまった。
「…………」
体を机上に伏せ、腕に顎を乗せると机の上に乱暴に放り投げられていた写真立てを裏返し、収められている古びた写真を眺めた。実家を出る際に、母に無理矢理持たされた幼い頃の幼馴染との写真だった。
にっかりと悪戯っぽく歯を見せて笑う少女と、今とさほど変わらない無愛想でむくれた表情をしている少年は、時が立ってセピア色に褪せている上、成長した少年の中にも当時の記憶は残っていない。だが、この写真は「彼女が存在していたこと」を証明する明確な証拠であった。
――ここは、世界から断絶された国だ。当然、あの日以降、彼女の情報は全く得られていない。鈴丞の中では、まだ悲しげな表情を浮かべた行方不明の少女なのだ。
今、あいつはどこにいるんだ。生きているのだろうか――
「辛い思いしてないならいいけどな……。ちゃんと笑って――」
「何が?」
「ウォア!?」
無意識のまま呟いた独り言を遮り、脇の下から唐突に顔を覗かせたブロンドに驚嘆した青年の体は跳ね上がり、椅子から床へと転げ落ちた。
ガタガタガタ、と木製品が衝突する音が細切れに聞こえ、どすんと、臀部に重たい鈍痛が走る。
「の、ノノノ、ノックしろよ!!」
「したよ。したけど返事しなかったのはリンでしょ?」
「あ?そ、そうか――すまん」
「いいけど」
思いがけない少年の登場の仕方に震撼している鈴丞を見下ろし、不満げに口を尖らせたフランは、やれやれと首を横に振った。
別に音を立てずに入ったわけでもあるまいに、侵入にすら気付かないほど、彼の心を捕らえていたものは何なのだ。
興味が湧いた少年は、鈴丞が落ちる拍子に慌てて裏返した写真立ての中身を了承を得ずに覗く。
「あ、おい……」
「これ……」
ロビンス・ケイルに彼女の存在を知る者はいない。
マドラにさえ打ち明けたことのない幼い鈴丞と幼馴染の姿をまじまじと無遠慮に眺められるのは少し居心地が悪かった。
名状し難い表情をしながら、思い切り打ち付けた衝撃が響いている腰を無理矢理上げると「もう良いだろ」と呟いて、フランの手から写真立てを取り戻したのだった。
「誰の写真?小さいリンと――彼女?」
「なんでだ。幼馴染だよ、ずっと会ってない」
「なあんだ」
詰まらないの。
そうぼやいたフランを睨める鈴丞に対して、ひらひらと小さく上げた手は降参を意味する。澄ました顔で数歩後退したフランは、背後にあったベッドに背中から倒れ込んだのだ。
1度バウンドして、ふかふかの布団の中に小さな体は落ち着く。
「……リンはさ、その人に会いたいの?」
天を衝くように天井に向かって手を掲げ、拳を作りながらそう問い掛けた。
「何で」
「懐かしいものを見るように見てたから。もしかしたら過去に戻りたいのかな……って」
「別にそういうわけじゃ――」
ない、と平然と答えようとした。
しかし、何も知らない少年に過去を後悔していることを見抜かれた事実は、想像以上に動揺の種であったらしい。ひくんとあからさまに喉仏が動き、声が震える。
――もし、過去に戻ることが出来たならば、幼馴染の彼女の笑顔をあんなにも歪ませることはなかったのだろうか。ああなる前に、彼女の些細な変化に気が付けていたのだろうか。
いくら考えても、それが現実にならないことくらいは鈴丞も理解していた。それでも、性懲りもなく何度も彼女を救うシュミレートをし、あの笑顔を取り戻した世界に思いを馳せるのだ。鈴丞自身、万人から愛される笑顔をもう1度だけでも見たくてたまらないのだから。
黙りこくる鈴丞を視線だけで見下ろしたフランは、ずっと天に掲げていた腕を振り子のようにして起き上がると、逡巡する青年を曇りなき双眸で見詰める。そのエメラルドグリーンは、鈴丞の脳内で絡まる「たられば」を見透かすほどに純粋だった。そんな瞳に気が付いてしまったた鈴丞には、もう小さな嘘さえも許されない。
まるで横柄な神の審判を受けているようだ。
数多の人間を地獄送りにしてきた彼の機嫌を少しでも損ねれば、地獄行きは免られない。天国へと導かれるためには、気が狂うほど彼を接待し、ご機嫌取りをしなければならないのだ。
それでも、胸の中に咲く動揺を取り繕うように「そんなわけないだろ」と、鈴丞は震えた声のまま反抗したのだ。
――地獄行きでも構わない。
己に芽生えたほんの小さなプライドは、年下の少年に甘えることなど許さなかったのだ。
「――何となく、だけれど……キミとその彼女はまたどこかで巡り会えるような気がする」
「は……」
プライドにかこつけて意地を張っていた鈴丞は、フランの返しに拍子抜けした。現実主義者の彼は、現実を突きつけるような物言いをすると思い込んでいたからだ。
「気休めじゃないよ。そんなこと言ったって現状も過去も結果も何も変わらないから意味なんてないもの」
冷たい口調とは裏腹に、天使のような微笑みを浮かべたフラン。有無を言わさぬ態度で、鈴丞の手から写真立てを取り上げるとコトリと微かに音を立ててデスクの上に立てて置いた。
「さ、準備が整ったのなら早く行こう」
「あ、ああ……」
――意味なんてない。
それは、日本にいた頃には誰にも言われなかった言葉だった。
一見、責任を放棄して突き放しているようにも聞こえるそれは、鈴丞にはいつまでも複雑に過去を引き摺っていても何も変わらないと、罪悪への免罪符を与えられたかのように感じ取れたのだ。それでもきっと自分では自分のことを赦すことなど出来はしないのだろうが。
そう思うと、フランの後に続く中、写真立てをわざわざ伏せてしまう気にもならなかった。
「……持っていかなくていいの?」
「どうせしょっちゅう見たいものじゃないし、良いよ」
「そう?なら行こうか」
ズカズカと大股で鈴丞の自室を退室しようとしていたフランは、写真立てを傍目について来る鈴丞に振り返り、首を傾げる。しかし、写真から顔を背けて深く頷いた青年は、彼の想像とは異なり、ようやく過去から解放されたような表情をしていたのだ。――否、長い年月そのままにされていたしがらみは簡単には離れることはなく、少し彼を取り巻く拘束が緩和された程度なのだろうが……。それでも鈴丞は、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
きっと彼なら大丈夫だ。
写真の中の彼女と鈴丞の間に何が起こったのか、彼が語らない限り、フランがそれを知る術はない。だが、腑に落ちたフランはそれ以上言及することもなく、「行こうか」と歩を再開したのであった。
細やかな傷の位置を覚えてしまう程度には、見慣れてしまった廊下を見渡して、鈴丞は感慨深くなった。少年は、いずれは帰ってくると言っていた。だから、今生の別れということはないのだろうが、もしかすればもう何年もここを歩くことはないのかもしれない。そう思うと、胸の内に少しばかり込み上げてくるものがある。
フランに悟られぬようにこっそりと、震え熱くなる喉に耐えながら、ギッギッと音を立てて階段を下り、学生寮の玄関ホールへと降り立った。
「あら、準備は終わったの?」
「ああ」
速やかにフィレーヌを出立しようとする2人に声を掛けたのは、彼らの支度がおわるのを待ちながら、ロビーのソファで寛いでいたマドラである。いつも持っている箒は、今は傍らの壁に立て掛けられている。
「そう……。じゃあ、あなたが帰ってくるまでの間、部屋の管理は私に任せておいて頂戴。ずっと綺麗にしておくわ」
「ありがとう助かる」
「……気をつけて行ってらっしゃいね」
「行ってきます」
今朝と何も変わらない笑顔と優しい口調で見送るマドラの姿に、後ろ髪を引かれる思いにもなるが、「行ってきまーす!と元気良く返すフランに釣られ、彼女に向かって不器用な笑みを返した。再度挨拶をして、深々と頭を下げると、白い道を駆けていくフランの後を追う。
きっとまたすぐに会えると、そう自分に言い聞かせ、胸の中に蟠る寂寥感を誤魔化した。
「――なあ、これからどうするんだ?」
少し進んだ先で鈴丞のことを待っていたフランに問う。その問いに「うーん」と顎に手を当てて、少しの間黙考するフラン。
「そうだね。まずは船に乗ってフィシオンに行きたいな。あの街の図書館は国で1番大きいんだ」
「わかった」
「――でも、よかったの?急に旅なんて」
しゅんと肩を窄め、しおらしく眉を下げる少年は、幾分か冷静な気持ちを取り戻し、猪突猛進に進んだことに対して後悔しているのだろうか。不安げな表情をして、鈴丞を見つめていた。
――何を今更。こちらはもう決意しているというのに。
鈴丞は、しなしなと垂れてしまった頭頂部の癖毛を眺め、思わず笑みを零した。
「行くなんて1言も言ってねえのに、勝手に決めて勝手に行動したお前がそういうこと聞くなよ」
「でも――」
「良いから。急ぐんだろ?」
この閉鎖的な街に閉じこもり、平和で気ままな暮らしをするという数時間前の決意は、「まあいいか」と簡単に崩れ去る。時間は有限といえど、まだまだ気が遠くなるほどにあるのだ。気ままな暮らしというものは旅を終えた後でも出来るというものだろう。
そして、初めて1度もフィレーヌから出ることもせずに生涯を過ごすという者が多数いる中、街の外へ足を踏み出すことには不思議と抵抗はないのだ。寧ろ、少年時代のような好奇心で胸が一杯になるのを感じていた。要するに楽しみなのだ。慣れない国のまだ見ぬ土地を目にすることが。
知り合ったばかりの少年を連れ立ってちょっとした長い旅行に行くような気分だった。
その場に直立したままの少年を置いて、フィレーヌの玄関口へと向かう鈴丞に不安から安堵へと表情を一変させたフラン。ぱあっと、これまでにない明るい笑顔を瞬時に作り上げると、慌てて彼を追いつつ「ありがとう!」とその背に向かって叫んだ。
その声量に驚き、振り返る街の人々のことは気にも止めない。それどころじゃなかったのだ。フランは奇跡を目の当たりにしたような気分だったから。
のんびりと歩きつつもフランのことを待っていた鈴丞の隣に並ぶと今度は彼の前へ行かず、2人で新たな日常へと踏み出したのであった――
「こんにちはーっ!」
そこへ到着するなり両開きのドアを開け、元気良く挨拶をしたフランは、我が物顔でがらんとしている玄関ホールへと駆け込んだ。
しかし、暖かなウッド調の壁が出迎えてくれる玄関ホールには誰もいない。共有スペースからこそこそと会話する声が聞こえてくるが、玄関ホールに設置されているソファには誰も座っていないのだ。口を尖らせたフランはキョロキョロと辺りを見回した。
少しの間、しんと音のない時間はあった。しかし、すぐさまカタカタと微かな物音がしたかと思うと、数秒後にはパタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえ、来客を急いで迎えようと「遅くなってごめんなさいね」と言いながら、ひょっこりとふくよかな顔を覗かせたのだ。マドラだ。
彼女は思わぬ来客を前に、にこやかな表情を目を丸くすることによって崩し、あらあらと口許を抑えて目を輝かせた。
「まあ、フランちゃん!こんにちは、お久し振りねえ」
「うん!元気にしてた?」
「もちろん!この通り、私は元気よ。フランちゃんこそ変わりなさそうで安心したわ。――あら、でも少し、背が伸びたかしら?」
驚愕の表情から一変、破顔したマドラは、駆け寄るフランの体をぎゅうっと抱き締めた。柔らかい腕で包み込み、愛おしい子を愛でるようにふわふわの金色の糸を撫でるその姿は、まるで母親のようだ。
人並みに大切に育てられた自覚はあるが、3人の子どもを持つ両親は多忙で、親の愛情を直に感じる暇さえなく成長した鈴丞にとって、優しく包み込んでくれる存在と言えば1番目の姉だ。穏やかで暖かな無性の愛をくれる。家事を得意とするマドラとは異なり、料理は2番目の姉の方が得意であったが。
それでも目の前にいる彼女の優しい手つきを眺めていると、どうしても懐古的な気持ちになるのだ。
いつまでも鈴丞の頭を撫でるのが好きだった姉をマドラに重ねながら、フランたちの再会を邪魔してはいけないと判断した鈴丞は、そっとその場を離れて自室へと向かう。
しかし、何度も修繕はしているものの、老朽化したこの建物は、どれだけ気を遣っても軋む音だけは避けられない。どうか気付かないでいてくれと、床が軋む度に切実に思うが、彼の願いも虚しく、ほんの僅かな音に気が付いたマドラは、挙動がおかしい青年を「鈴丞ちゃん」と呼び止めた。
ぎくりと体を硬らせるが、恩人の声を無下にするわけにもいかず、何気ないふりをして振り返ると、彼女は鈴丞に問い掛ける。
「あなたとフランちゃん、お知り合いだったの?」
「いや、今日大通りで出会ったばかりだ」
「そうなんだ。それでね、今日から本島の方へ旅に出ようと思うんだけど……リンのことを借りたいんだ。マドラさん、良いかなあ?」
「鈴丞ちゃんが良いのなら私は構わないわ」
腕の中に閉じ込めているフランに向かって、やんわりと頷くマドラを見届けた鈴丞は、今度こそ階段を上がり、廊下で会話に花を咲かせている男女の背後を通り抜けて自室へと入室した。
ギギ……と怪しい音を立てるドアが閉まったことを確認すると、ほとんど乾いている黒髪を撫でつけ、まだ若干肌に纏わり付いている服を脱ぎ捨てると、マドラの手によって綺麗に洗濯され、柔軟剤のフローラルな香りが鼻を擽る黒のTシャツを着て灰色のパーカーを羽織る。そして、ふう、と一息吐くと、戸締りは大事だと言ったフランの言葉を思い出し、何度も施錠確認をした。
念入りに確認した後、大きく息を吐き出しながらどっかりと椅子に腰を掛ける。机に片肘をついて部屋を見渡すと、一気に蓄積された疲労を追い出すかのように脱力した。
――備え付けの家具のみが置かれている部屋は閑散としており、スペースが有り余る部屋は随分ともの寂しい。事情はあれど、折角の自由な一人暮らしなのだ。もう少し色味のあるものを増やしておけばよかったか、と己への無関心さに若干ながら反省をするが、どちらにしろ彼はミニマリストであったし、ロビンス・ケイルに来てからというもの、生きることに必要な生理的欲求以外の欲は芽生えてこなかったのだ。たとえ、鈴丞が部屋の細部にまでこだわる洒落た性格をしていたとしても部屋のスペースは埋まっていなかっただろう。
ま、いいか。
そう思うと、つい数秒前の後悔も忘れ、鈴丞はすぐに部屋から顔を背けてしまった。
「…………」
体を机上に伏せ、腕に顎を乗せると机の上に乱暴に放り投げられていた写真立てを裏返し、収められている古びた写真を眺めた。実家を出る際に、母に無理矢理持たされた幼い頃の幼馴染との写真だった。
にっかりと悪戯っぽく歯を見せて笑う少女と、今とさほど変わらない無愛想でむくれた表情をしている少年は、時が立ってセピア色に褪せている上、成長した少年の中にも当時の記憶は残っていない。だが、この写真は「彼女が存在していたこと」を証明する明確な証拠であった。
――ここは、世界から断絶された国だ。当然、あの日以降、彼女の情報は全く得られていない。鈴丞の中では、まだ悲しげな表情を浮かべた行方不明の少女なのだ。
今、あいつはどこにいるんだ。生きているのだろうか――
「辛い思いしてないならいいけどな……。ちゃんと笑って――」
「何が?」
「ウォア!?」
無意識のまま呟いた独り言を遮り、脇の下から唐突に顔を覗かせたブロンドに驚嘆した青年の体は跳ね上がり、椅子から床へと転げ落ちた。
ガタガタガタ、と木製品が衝突する音が細切れに聞こえ、どすんと、臀部に重たい鈍痛が走る。
「の、ノノノ、ノックしろよ!!」
「したよ。したけど返事しなかったのはリンでしょ?」
「あ?そ、そうか――すまん」
「いいけど」
思いがけない少年の登場の仕方に震撼している鈴丞を見下ろし、不満げに口を尖らせたフランは、やれやれと首を横に振った。
別に音を立てずに入ったわけでもあるまいに、侵入にすら気付かないほど、彼の心を捕らえていたものは何なのだ。
興味が湧いた少年は、鈴丞が落ちる拍子に慌てて裏返した写真立ての中身を了承を得ずに覗く。
「あ、おい……」
「これ……」
ロビンス・ケイルに彼女の存在を知る者はいない。
マドラにさえ打ち明けたことのない幼い鈴丞と幼馴染の姿をまじまじと無遠慮に眺められるのは少し居心地が悪かった。
名状し難い表情をしながら、思い切り打ち付けた衝撃が響いている腰を無理矢理上げると「もう良いだろ」と呟いて、フランの手から写真立てを取り戻したのだった。
「誰の写真?小さいリンと――彼女?」
「なんでだ。幼馴染だよ、ずっと会ってない」
「なあんだ」
詰まらないの。
そうぼやいたフランを睨める鈴丞に対して、ひらひらと小さく上げた手は降参を意味する。澄ました顔で数歩後退したフランは、背後にあったベッドに背中から倒れ込んだのだ。
1度バウンドして、ふかふかの布団の中に小さな体は落ち着く。
「……リンはさ、その人に会いたいの?」
天を衝くように天井に向かって手を掲げ、拳を作りながらそう問い掛けた。
「何で」
「懐かしいものを見るように見てたから。もしかしたら過去に戻りたいのかな……って」
「別にそういうわけじゃ――」
ない、と平然と答えようとした。
しかし、何も知らない少年に過去を後悔していることを見抜かれた事実は、想像以上に動揺の種であったらしい。ひくんとあからさまに喉仏が動き、声が震える。
――もし、過去に戻ることが出来たならば、幼馴染の彼女の笑顔をあんなにも歪ませることはなかったのだろうか。ああなる前に、彼女の些細な変化に気が付けていたのだろうか。
いくら考えても、それが現実にならないことくらいは鈴丞も理解していた。それでも、性懲りもなく何度も彼女を救うシュミレートをし、あの笑顔を取り戻した世界に思いを馳せるのだ。鈴丞自身、万人から愛される笑顔をもう1度だけでも見たくてたまらないのだから。
黙りこくる鈴丞を視線だけで見下ろしたフランは、ずっと天に掲げていた腕を振り子のようにして起き上がると、逡巡する青年を曇りなき双眸で見詰める。そのエメラルドグリーンは、鈴丞の脳内で絡まる「たられば」を見透かすほどに純粋だった。そんな瞳に気が付いてしまったた鈴丞には、もう小さな嘘さえも許されない。
まるで横柄な神の審判を受けているようだ。
数多の人間を地獄送りにしてきた彼の機嫌を少しでも損ねれば、地獄行きは免られない。天国へと導かれるためには、気が狂うほど彼を接待し、ご機嫌取りをしなければならないのだ。
それでも、胸の中に咲く動揺を取り繕うように「そんなわけないだろ」と、鈴丞は震えた声のまま反抗したのだ。
――地獄行きでも構わない。
己に芽生えたほんの小さなプライドは、年下の少年に甘えることなど許さなかったのだ。
「――何となく、だけれど……キミとその彼女はまたどこかで巡り会えるような気がする」
「は……」
プライドにかこつけて意地を張っていた鈴丞は、フランの返しに拍子抜けした。現実主義者の彼は、現実を突きつけるような物言いをすると思い込んでいたからだ。
「気休めじゃないよ。そんなこと言ったって現状も過去も結果も何も変わらないから意味なんてないもの」
冷たい口調とは裏腹に、天使のような微笑みを浮かべたフラン。有無を言わさぬ態度で、鈴丞の手から写真立てを取り上げるとコトリと微かに音を立ててデスクの上に立てて置いた。
「さ、準備が整ったのなら早く行こう」
「あ、ああ……」
――意味なんてない。
それは、日本にいた頃には誰にも言われなかった言葉だった。
一見、責任を放棄して突き放しているようにも聞こえるそれは、鈴丞にはいつまでも複雑に過去を引き摺っていても何も変わらないと、罪悪への免罪符を与えられたかのように感じ取れたのだ。それでもきっと自分では自分のことを赦すことなど出来はしないのだろうが。
そう思うと、フランの後に続く中、写真立てをわざわざ伏せてしまう気にもならなかった。
「……持っていかなくていいの?」
「どうせしょっちゅう見たいものじゃないし、良いよ」
「そう?なら行こうか」
ズカズカと大股で鈴丞の自室を退室しようとしていたフランは、写真立てを傍目について来る鈴丞に振り返り、首を傾げる。しかし、写真から顔を背けて深く頷いた青年は、彼の想像とは異なり、ようやく過去から解放されたような表情をしていたのだ。――否、長い年月そのままにされていたしがらみは簡単には離れることはなく、少し彼を取り巻く拘束が緩和された程度なのだろうが……。それでも鈴丞は、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
きっと彼なら大丈夫だ。
写真の中の彼女と鈴丞の間に何が起こったのか、彼が語らない限り、フランがそれを知る術はない。だが、腑に落ちたフランはそれ以上言及することもなく、「行こうか」と歩を再開したのであった。
細やかな傷の位置を覚えてしまう程度には、見慣れてしまった廊下を見渡して、鈴丞は感慨深くなった。少年は、いずれは帰ってくると言っていた。だから、今生の別れということはないのだろうが、もしかすればもう何年もここを歩くことはないのかもしれない。そう思うと、胸の内に少しばかり込み上げてくるものがある。
フランに悟られぬようにこっそりと、震え熱くなる喉に耐えながら、ギッギッと音を立てて階段を下り、学生寮の玄関ホールへと降り立った。
「あら、準備は終わったの?」
「ああ」
速やかにフィレーヌを出立しようとする2人に声を掛けたのは、彼らの支度がおわるのを待ちながら、ロビーのソファで寛いでいたマドラである。いつも持っている箒は、今は傍らの壁に立て掛けられている。
「そう……。じゃあ、あなたが帰ってくるまでの間、部屋の管理は私に任せておいて頂戴。ずっと綺麗にしておくわ」
「ありがとう助かる」
「……気をつけて行ってらっしゃいね」
「行ってきます」
今朝と何も変わらない笑顔と優しい口調で見送るマドラの姿に、後ろ髪を引かれる思いにもなるが、「行ってきまーす!と元気良く返すフランに釣られ、彼女に向かって不器用な笑みを返した。再度挨拶をして、深々と頭を下げると、白い道を駆けていくフランの後を追う。
きっとまたすぐに会えると、そう自分に言い聞かせ、胸の中に蟠る寂寥感を誤魔化した。
「――なあ、これからどうするんだ?」
少し進んだ先で鈴丞のことを待っていたフランに問う。その問いに「うーん」と顎に手を当てて、少しの間黙考するフラン。
「そうだね。まずは船に乗ってフィシオンに行きたいな。あの街の図書館は国で1番大きいんだ」
「わかった」
「――でも、よかったの?急に旅なんて」
しゅんと肩を窄め、しおらしく眉を下げる少年は、幾分か冷静な気持ちを取り戻し、猪突猛進に進んだことに対して後悔しているのだろうか。不安げな表情をして、鈴丞を見つめていた。
――何を今更。こちらはもう決意しているというのに。
鈴丞は、しなしなと垂れてしまった頭頂部の癖毛を眺め、思わず笑みを零した。
「行くなんて1言も言ってねえのに、勝手に決めて勝手に行動したお前がそういうこと聞くなよ」
「でも――」
「良いから。急ぐんだろ?」
この閉鎖的な街に閉じこもり、平和で気ままな暮らしをするという数時間前の決意は、「まあいいか」と簡単に崩れ去る。時間は有限といえど、まだまだ気が遠くなるほどにあるのだ。気ままな暮らしというものは旅を終えた後でも出来るというものだろう。
そして、初めて1度もフィレーヌから出ることもせずに生涯を過ごすという者が多数いる中、街の外へ足を踏み出すことには不思議と抵抗はないのだ。寧ろ、少年時代のような好奇心で胸が一杯になるのを感じていた。要するに楽しみなのだ。慣れない国のまだ見ぬ土地を目にすることが。
知り合ったばかりの少年を連れ立ってちょっとした長い旅行に行くような気分だった。
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その声量に驚き、振り返る街の人々のことは気にも止めない。それどころじゃなかったのだ。フランは奇跡を目の当たりにしたような気分だったから。
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