初恋の代償

南 鴇也

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第5章

真実 14

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あの日、仕事が忙しいから、と姉に言った言葉は嘘ではなかった。
初めは亜矢と意識的に会わないようにしていたが、仕事と学会の論文制作で、慌ただしく日々が過ぎ、気がつけばあれから2ヶ月が過ぎていた。

木曜日。いつものようにその場所を訪れると、一ノ瀬は窓辺に佇んでいた。もう外は真っ暗になっていて風景を見ている様子でもない。何をしているのかと思いながら後ろ姿に声をかけると、それに答えるように彼がゆっくりと振り返った。

「ああ、蓮見か。今日は早いんだな」

そう言った一ノ瀬の顔を見てギョッとする。
いつも色白な肌だが、今日は異様と思えるほど青白かった。心なしか頬がこけたように見える。

「何だよその顔……大丈夫か?」

焦って一ノ瀬に近づいた瞬間、右肩に重みを感じた。

「悪い……肩、貸してくれ」

肩口に顔を埋めるように寄りかかった一ノ瀬の口から、これまで聞いたことのない弱々しい声が漏れる。
首筋に感じる滑らかな髪の質感と、石鹸のような清潔感のある薫りに、ドクリと心臓が跳ね上がった。

「一ノ瀬?どうした、気分悪いのか」

その体勢のまま、冷静さを装って俺は聞いた。
自ら他人に触れるなど、これまでの一ノ瀬からは想像もできないことだ。動揺しつつも、このありえない状況に本気で心配になる。

「……ああ。ここのところ、ちゃんと眠れていなくて」
「とりあえず座れ。気分悪いのにそんなところに突っ立ってるから……」
「風に当たってたんだよ」
「じゃあここに椅子持ってきてやるから。ちょっと待ってろ」

ポンポンと背中を軽く叩く。離れてゆく温もりが名残惜しいが、これ以上は理性を保つ自信がなかった。
窓際に椅子を運び、彼をそこに座らせてから、気を紛らわせるように自動販売機のあるロビーへ向かう。ミネラルウォーターを買って戻り、それを一ノ瀬に渡すと「ありがとう」と力なく言って素直に受け取った。

「何かあったのか?」

彼はその問いには答えず黙って下を向いた。
話したくないのなら、深入りしない。それ以上は何も聞かず、一ノ瀬の近くに座って、鞄からパソコンを取り出した。

「――自分の存在意義って、どうしたら解るんだろうな」

暫くして、ポツリと呟くように一ノ瀬が言った。

「何それ。哲学の本でも読んでんの?」
「いや……」

口を噤むその表情を見て、家のことで何かあったのだろう、と直感した。
身内の話になると、決まって声色が冷たかった。
まだ成人して間もない一人の男に、何をそんなに背負わせるものがあるというのだ。彼をこのような状態にしてしまう俺の知らない環境が、どうしようもなく腹立たしい。

「存在意義なんて、そんなことを知っている人間はほんの僅かしかいないだろ。誰に何を言われたのか知らんが、くだらない。お前ってほんと、繊細なお坊ちゃんだな」

努めて明るい声でそう返す。一ノ瀬の横顔を見るとまだ表情が硬いままだった。
普段だと直ぐに何か言い返してくるのに。小さく溜息をついて、俯く一ノ瀬に話しかけた。

「たった一人でも、そいつを必要とする人間が居るのなら、それだけで意義や価値があるんじゃないか。
 一ノ瀬にも絶対に現れるよ。お前がいるだけで、どうしようもなく幸せだと感じるような、そんな奴」

一呼吸置いて、はっきりと言葉を繋げた。

「少なくとも俺は、お前に出会えて良かったと思ってるから」

一ノ瀬がさっと顔を上げる。眉が開いて、ぽかんとした緩い表情をしていた。

「……あんた、よくそんな恥ずかしいこと言えるな」

いつものようにそう毒づいた後、「そんなこと、人に言われたのは初めてだ」と、儚げに目を細めた。
それは曇りのない素朴な微笑みで、初めて見るその顔に、何故か苦しく思えるほどの愛おしさが胸を突き上げてきた。

一ノ瀬がソトの世界に出られたなら、こんな笑顔をもっと見ることができるのだろうか。
もしそれが叶うのなら、どんなに嬉しいだろう。

『ソトに連れ出したいよ。お前を』
いつだったかそう漏らしてしまった言葉が、仄かな光となって、心の中でゆらゆらと灯り続けた。


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