真珠の涙は艶麗に煌めく

枳 雨那

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事件発生

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 翌朝、陽が昇るよりも先に目を覚ました真珠は、寝惚けたまま部屋を出て、台所の方へと向かった。喉がからからに渇いていて、水が欲しいのだ。

 薄い青色のタイルが貼られた流し台の前に立ち、蛇口を探したが、そのまま手が空中をさまよった。

「あ、そっか……蛇口がないんだ」
「真珠、もう起きていたのか」

 桶の中の水を勝手に飲んでもいいのか分からず、銀が起きてくるまで待つことにしようと決めた直後だった。銀の声が聞こえ、真珠が顔を上げると、彼が居間に出てきていた。浴衣姿の彼も、まだ眠そうにぼんやりとした表情を見せている。

「はい、おはようございます。銀さん、お水をもらえないでしょうか」
「ああ、待ってろ。湯呑ゆのみを出してやる」

 銀が台所に入ってきた。棚から茶碗を一つ取り出し、水差しらしき鉄製の容器から、それに水を注いでいく。

「これに飲み水が入っている。覚えておけ」
「はい」

 彼は、真珠に湯呑を手渡そうと振り向いたところで、目を大きく見開いた。真珠の眠気も飛ぶほどの迫力だった。

「ばっ……お前! 帯はしっかり締めろ!」
「えっ? わーっ! ごめんなさい!」

 真珠が下を向くと、寝ている間に乱れてしまったのか、帯が緩んで胸元が開けていた。慌てて銀に背を向け、襟を合わせて帯を締める。ただでさえ色香の件で銀を困らせているというのに、なんという失態だ。

「お前、そんなに無防備だと、玻璃の家で襲われるぞ……」
「おそっ? だっ、だ……大丈夫です! 瑪瑙さんも、それは釘を刺していましたし」
「それはそうかもしれないが。玻璃は計算高いから、騙されないように気を付けろ」
「……はい」

 犬猿の仲だからこその警戒なのか、銀は湯呑を手渡した後も、くどくどと説教をした。真珠も玻璃に対して苦手意識があるから、銀の言ったことを心に留める。だが、後半はほぼ聞き流していた。

「はあ……。やっぱり、俺の家でしばらく面倒を見ると言った方がよかったか……」
「えっ」

 銀は、真珠のことを本気で心配していたようだ。適当にやり過ごそうとしていたことを反省した。

(根っからの、不器用な人……)

 昨日の「俺のところに来い」と言った理由は、返事に困っている真珠を助けるというより、その貞操を守るためだったのかもしれない。

「私がずっとここに居たら、迷惑じゃないですか?」
「何年も居つくつもりか?」
「いえいえ! 数日間だけでもお世話になれれば、十分です」
「数日間って……その後はどうするつもりだ?」
「できればどこかで働かせてもらって、下宿先とかを探すしか……」
「巫女かもしれない奴が何を言っているんだ。それは危険すぎる」
「えーっと……」

 それ以上、真珠は意見を延べることはできなかった。結局、今は銀たちを頼るほかないのだ。

「とりあえず、約束したので、今日は玻璃さんたちのところに行きます」
「ああ。仕方ない」
「それで、明日、またここに戻ってきてもいいですか?」
「……お前。甘え方を覚えたか」

 銀は僅かに口角を上げ、「構わない」と言った。その微笑みは、嬉しさというより、安堵の表情だったのだろう。真珠も微笑んで頷き返し、水を飲み干して、市場に出る支度を始めた。



*****



「年頃の女が、自分で着物の着付けができないなんて……どういう教育を受けてきたんだ」
「すっ、すみませんっ!」

 真珠は下駄を鳴らしながら、銀と並んで市場を歩いている。

 出掛ける前、真珠は着物を着ようとしたのだが、正しい着付け方が分からず、銀に助けを求めた。「嘘だろ? 信じられない……」と呆れられ、真珠はそれから平謝りしかしていない。それでも、銀は丁寧に着付けてくれた。

「もう手順は覚えたか?」
「はい! お陰さまで……!」
「玻璃の家では、自分で着付けしろよ」
「も、もちろんです!」

 真珠はそう言ったが、正直、帯の締め方には不安が残っていた。手順を頭の中で反芻するが、ところどころ墨を落としたようにおぼろげだ。

(多少不格好になっても、明日は自分でやろう……)

 慣れない下駄と着物の重みに耐えながら、背筋を伸ばして銀の隣を歩く。太陽が昇ると、銀の髪がきらきらと反射して、今日も変わらず綺麗だった。濃紺の着物に帯刀を携え、きりっとした鼻梁と目が、横からでもよく分かる。

 二次元から飛び出してきたかと思えるくらいの美貌に、真珠はくらくらした。こんな人間に会えて、眼福だと思う。

「おお、銀じゃないか! 活きのいい魚が揃ってるよ! どうだい?」

 真珠が銀に見惚れている間に、一つの店から大きな声が飛んできた。二人は足を止める。

「魚か。今買うと鮮度が落ちるから、後で寄る」
「言ったからな。そっちのお嬢ちゃんは? 銀のこれか?」
「えっ!」

 魚屋の主人は、小指を立てて真珠に笑いかけた。昨日の車夫といい、並んで歩いているとそう見えるのか、真珠は慌てて首を横に振る。

「そうか。銀のことは、妓楼の女たちの間でも話題になってるよ。『一度でいいからお目にかかりたい』って」
「噂は知らないし、妓楼には絶対に行かない」
「硬派だなあ。女の方から寄ってくるって、滅多にないんだぞ? もったいない」
「……気が変わった。今夜は別の料理にする」
「えっ! もしかして怒った? おーい!」

 主人の呼び止めは聞かず、銀はずんずんと歩を進めていく。真珠は駆け足でその後を追った。しかし、下駄のせいで脚が突っ掛かり、上手く走れない。

「銀さん、待ってください!」
「……あ、悪い。速かったか?」
「大丈夫です。それよりも、魚、買わなくていいんですか?」
「ああ。仲がいいわけでもない。それに、私生活のことに干渉されるのは苦手だ」
「それなら、いいんですけど……」

 銀は、歩く速さを落としてくれたものの、機嫌を損ねたようだった。この外出を楽しもうと思っていた真珠は、どうしたらいいかと頭を悩ませる。いかんせん、男性との付き合いがあまりないため、適切な話題が出てこないのだ。

(何か、聞きたいこと……質問すると会話が長続きするっていうし)

 どうにかこうにか絞り出し、真珠は閃いた。気になっていることが一つある。

「あ! 質問いいですか?」
「なんだ、急に?」
「細かいことなんですけど。どうして、皆さんの名前って石とか宝石の名前なんですか?」
「ああ。あれは本名じゃない」
「……えっ?」
「志士の試験に合格したら、国から命名されるんだ。その時に、元の名前は捨てる」

 銀の説明によると、出生名は多種多様で、特に決まりはない。志士になった者のみ、『輝石の国』にちなんで、石の名前を付けられるそうだ。

 真珠自身は偽名を使っているが、志士である彼らは元の名前を捨てているらしい。親が付けてくれた名前を捨てるという行為は、真珠に複雑な心境をもたらした。コンプレックスこそあるが、両親が誇らしく思っている名前は、簡単に捨てることなどできそうにない。
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