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第2話 王者の挫折
しおりを挟む「Café Lumière」では、今日も澪が丁寧に淹れたブレンドをカウンターから運び、いつもの席にそっと置いた。
「お待たせいたしました」
「……ああ」
返ってきた声は、変わらず低く落ち着いている。
けれど、それが耳をくすぐるような熱を帯びていて、澪の呼吸は無意識に浅くなる。
彼がこの店に通いはじめて、ずいぶん経つ。
変わらず同じ時間、同じ席、そして澪だけを見つめる無口な常連客。
けれど最近は、その視線にも不思議と慣れてきた。
むしろ……なぜかあたたかさを感じてしまっている。
澪が背を向けかけたそのとき、椅子の擦れる音がした。振り返れば、彼――リクが静かに立ち上がり、澪の目の前へと歩み寄ってくる。
「……澪」
ただ名前を呼ばれただけなのに、心臓が跳ねる。
どうしてかは、わからない。
でも、彼の声に触れられた瞬間、澪の心が揺れる。
「初めて澪の匂いを感じた瞬間――胸の奥が、熱くなった」
リクは、言葉を選びながら、慎重に話そうとしているように見えた。
「こんな感覚は初めてなんだ。理屈じゃない。身体が、心が……澪を求めている」
その目は揺らがず、まるで真理を語る者のようだった。
「魂が叫んでた。――“こいつだ”って」
その声は静かだったが、秘めた熱を帯びていた。
黄金の瞳は真剣に、まっすぐ澪を射抜いている。
まるで、この世で最も重要な事実を告げるかのように、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「澪は……俺の番だ」
――空気が、止まった。
不意に放り込まれたその言葉。
それは水面に落ちた石のように、波紋を広げて、澪の世界を大きく揺らす。
「…………はい?」
反射的に口にしたその言葉が、自分でも情けないくらい間の抜けた声になる。
(番……って、何……?)
リクは一歩、澪に近づく。
「獣人には、稀に本能が選ぶ“ただ一人”が存在する。運命の番――魂の片割れだ」
目の前の男は真剣そのものだ。冗談を言っているような空気ではなかった。
「……え、えっと……つまり……恋人、ってことですか?」
澪が戸惑いながら問い返すと、リクはゆっくり首を振る。
「そんな言葉じゃ足りない。もっと深く、強い。命を賭けられるほどの、切実な繋がりだ」
まるで当然のように堂々と、真顔で言い切る。
「……」
澪はしばらく彼を見つめ、そしてふっと目を伏せた。心の中を掻き乱す言葉の波を、必死に鎮める。
やがてゆっくり顔を上げると、その瞳には、穏やかながらもはっきりとした意志が宿っていた。
「……すみません、私にはよくわかりません。正直、そういうの……信じていないんです」
途端に、リクの目が見開かれる。澪の思いもよらぬ反応に、彼の金色の瞳が揺れる。
「…………俺は、黒獅子だ」
静かに、けれどどこか自分を証明するような声だった。
漆黒の耳がわずかに動き、尻尾が低く揺れる。
その仕草が、彼の動揺をありありと物語っていた。
「俺の血は、古の王の血。その番となる存在は、この世にただ一人。……それが澪だ」
澪は目を瞬かせる。――まるで神話のような言葉。
「……黒獅子……」
物語の中の存在のような言葉に、澪は思わずまばたきをする。
けれど。
「立派な血筋なのかもしれませんけど……私には、よくわかりません」
その返答は、静かで穏やかだったが、拒絶の意思を含んでいた。
「それに……“番”って言われても、私は何も感じません。匂いも……その、他の何かも」
(人間の私には、きっと何も分からないんだろうな……)
リクの肩が、目に見えて落ちる。
拳を震わせ、尻尾がだらりと垂れる。
「……信じられないのか……」
そこにあったのは、恐怖に似た焦り。
拒絶されるとは、想定していなかったのだろう。
完璧に見えるその男が、今はまるで取り乱した子どものように揺れている。
「俺の本能が、澪を欲している」
彼の指がゆっくり澪の指を絡め取り、深く、強く、握り込む。
「澪の匂いが、俺のすべてを変えた。心も、身体も……本能さえも」
「…………」
「澪だけが、俺の番だ」
その声には、ただ、切実な願いだけがあった。
「信じなくてもいい。でも……俺はもう、澪から離れられない」
まっすぐに向けられた金の瞳が、まるで炎のように澪を貫く。
「拒まれても、俺は諦めない。何度でも伝える。澪が、俺の“運命”なんだと」
そこには“黒獅子”という名にふさわしい力強さと、番を求める獣の本能が、むき出しになっていた。
「……っ」
その言葉が――真っ直ぐで、どこまでも熱くて。
心の奥の、誰も触れたことのない場所に触れられたような気持ちになる。
(どうして……こんな、知らないはずの人に……)
まだ答えは出せない。
けれど、ほんの少しだけ澪の心は揺れていた。
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