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第二十三話 暗闇に伸ばされた手
しおりを挟む『ずっと君の姿を目で追っていた。僕と婚約してくれないか』
リチャード王子と婚約した時のことはまざまざと思い出せる。
夕焼けに照らされた図書室で借りた本を返している時のことだった。
突然のことに驚いたけど、王子様に求婚されるなんて思わなかったから、戸惑いながらも承諾した。
本当は婚約を受けたくはなかった。
元平民の私はやっぱり好きな人と結婚する夢を捨てきれなかったから。
だけど、相手は王子だ。
子爵令嬢が王子からの婚約の打診を断ること自体おこがましいし、断ったあとお父さんに迷惑をかけたくないと思ったのだ。それに、少しも嬉しくなかったのかと言われれば嘘になる。
元平民の私が王子様に求婚されたんだもの。
お母さんが死んでからずっと働いてばかりだった私でも、ようやく報われるのかと思った。これで家族を楽にさせてあげられるし、娘二人を育ててくれたお父さんに恩返しも出来るんだって。
それに、相手が第三王子と言うことも大きかった。
リチャード王子の皇位継承権は低く、王になる可能性は低い。
将来的には降家して公爵あたりになるのが妥当だろう。
どうせ私は子爵家を盛り立てるためにどこかの家と婚姻する定め。
ならせめて自分の意思で選びたいと思った。
貴族同士の結婚に愛はないというけれど。
少なくとも顔も合わせずに婚約するよりはマシで。
これから私たちはお互いのいいところを見つけて……
それでいつか、お父さんとお母さんのような幸せな家庭を築くのだと。
──そう、信じていたのに。
「あんまり俺を悪者にするなよ、デイヴィット」
リチャード王子は付き添いの誰かと一緒のようだった。
店員に案内された彼らは幸か不幸か、私たちのすぐ近くに座る。
「別に、女を振ったあとに別の女とくっつくのは普通だろ」
「そうだけどさ、その女って『普通』じゃないだろ」
(……っ)
耳を塞いで俯いて、今すぐこの場から出ていきたい。
理性ではそれが正解だと分かっているのに感情はついていかなくて。
私の足は床に張り付いたみたいに動かなかった。
「天下のチャーリー様をたぶらかした稀代の悪女。同級生の物を盗んだり暴力振るって虐めたって? お前、どんな女と付き合ってたんだよ。俺はむしろ、あんな女と婚約していたお前の理性のほうを疑うね」
チャーリーと偽名を使っているけど、話の内容は聞く者が聞けばすぐに分かる内容だ。リチャード王子と『悪女』アイリ・ガラントの婚約破棄騒動。
そしてかの王子が虐げられていた令嬢を救い出した美談……。
──大丈夫か。
そっと、旦那様がささやく。
さすがに彼も気付いてくれたらしい。
私は首を縦に振るけど、ちゃんと頷けていたかどうか分からない。
帰ろう。
そう言って旦那様が立ち上がっても彼らの話は続いた。
「ハハッ、馬鹿かお前、あんな女、最初から本気じゃないよ」
(え?)
私は思わず彼らに振り向いた。
この店は二件目なのか、彼らの顔は赤らんでいるように見える。
そのおかげもあって、彼らは私のことに気付かない。
「実はさ」
リチャード王子は秘密の話をするように身を乗り出した。
声を潜めているつもりかもしれないけど、声は私たちに筒抜けだ。
「僕、最初からエミリアと付き合いたかったんだよ」
何を言っているんだろう。
「はぁ? どういうことだよ」
「知っての通り、僕の立場はアレだろ? だからさ、最初から子爵令嬢と婚約しようとしても上手くいかないと思ったんだよね」
どくん、どくん、と心臓の嫌な音が鼓膜の奥で響いた。
身体中から血の気が引いて、力という力が失せていくのが分かる。
「だから一計を案じることにした。ようはエミリアが子爵令嬢でも婚約に足る立場だって分からせればいい。だから俺たちは例の女を悪者に仕立て上げることにした。僕と婚約したことで調子に乗った元平民が、才能のある麗しい令嬢を虐め、酷い目に合わせる。そこを僕が救えば……」
「子爵令嬢の立場でも注目され、否が応でもみんながそいつの動向を追う」
「ああ、そこでエミリアが頭角を現したら?」
「国王陛下でも納得する、か」
付き添いの男はドン引きしたように頬を引きつらせ──
「ぎゃっははは! おまえ天才! 惚れた女のために他の女を犠牲にするとか! 最高だろ!!」
「尊い犠牲といってくれよ」
あぁ、だからだったんだ。
二人きりで会ったことがほとんどないことも、
図書室で一緒に本を読んでいたらなぜかエミリアがいたことも。
「どうせあいつは元平民なんだ。僕が何をしようと勝手だろ?」
「いやいや、それでもひでーだろ」
「心外だな。これは僕だけじゃない、彼女の提案でもあるんだぜ?」
手を繋ぐこともなければ、甘い言葉をささやかれたこともなかった。
当たり前だ。だって私は踏み台だったんだから。
心のどこかでまだ信じていた。
エミリアのことはまだしも、王子のほうは誤解しているだけかもって。
殺されたことになっている今分かられても困るけど。
それでも誤解なら、まだ……。
「てか、一瞬でも僕と婚約出来たんだ。むしろ感謝して欲しいくらいだね。あいつ、話していても面白くないし、特にあの銀髪! めちゃくちゃ気持ち悪かったから、早く別れたくてしょうがなかった。あんな女、死んでせいせいしたよ!」
目の前が真っ暗になった。
もう何も聞きたくない。何もしたくない。
あんな男の言葉にショックを受けている自分が何より嫌だった。
(私はただ、幸せになりたかっただけなのに)
親友だと思っていた女に陥れられ、王子との婚約はまやかしだった。
すべては彼らを引き立てるためで私という女に価値なんてなかったんだ。
あぁ、もういやだ。
もう誰も信じたくない。
信じることなんて、出来ない──。
「下を向くな。胸を張れ」
「え」
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「旦那様……?」
顔を上げれば、旦那様が柔らかな笑みを浮かべていた。
彼は立ったまま、私の手を包み込んでいる。
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「妻だ……なんて」
そんなもの、偽物でしかないのに。
「アイリ。合理的に考えるんだ」
「え?」
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「妻を泣かせた奴を、俺が許すと思うか?」
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