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第二十九話 崩壊の音 ※エミリア視点

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 真夜中の部屋で、エミリアは一人膝を丸めている。
 彼女は貴族らしい華やかな部屋の隅にいた。
 親指を噛み、まるで何かを怖がっているかのように目をぎょろぎょろと動かしている。

 もう何時間そうしているだろう。
 関節はすっかり固まって握りしめた肌は白く、爪が食い込んで手のひらから血が出ている。美を重んじる貴婦人にあるまじき行為だと分かっているが、やめられなかった。なぜなら──

「ひ、来たっ!」

 ぬう。と影が確かな輪郭をもって立ち上がった。
 真っ黒な影は部屋の中を徘徊し、がたがたとベッドや椅子を揺らす。

 目があった。

「ひいいいい!」

 獲物を見つけた肉食獣のごとき瞳にエミリアは悲鳴を上げた。
 すぐさま手元に用意していた破魔の石を投げつけるが、効果はない。
 意志ある影はゆっくりとエミリアに手を伸ばし──

「誰か、誰か助けなさい! 私を助けなさいいい!」
「お嬢様!?」

 だん、と扉が開いて、部屋の外から騎士が雪崩れ込んできた。
 武装した騎士はエミリアの部屋を見回し、拍子抜けしたように剣を下ろす。

「……お嬢様、どうされました?」
「そ、そこに影が……! あの化け物がっ!」
「影? そんなもの・・・・・どこにも・・・・居ませんが・・・・・

 エミリアはぐっと歯噛みした。

(まただ……またこれだわ!)

 影の化け物は、他の人間には見えていない。
 いつだって真夜中に現れては、エミリアのことを狙って這い寄ってくる。
 今も確かにそこに存在しているというのに。

 最初は真夜中に響く謎の物音だった。
 それから起きたら手に痣が出来たり、物が壊れていたり……。
 だんだんとひどくなってきて、ようやく現れたのがこいつだ。

「なんなのよ、あんた、何なのよ!」
「え、エミリア様?」
「答えなさいっ! 誰の差し金なの!? 」
「お嬢様、落ち着いて下さい、そこには誰も居ません!」

 わめきちらすエミリアを取り押さえる騎士と侍女。

「離しなさい! そこにいるのよ! いるのよぉおお!」

 ニタァ、と嗤う影の化け物にエミリアは指を差す。
 それでもその姿は誰にも見ることが出来ず──
 エミリアには、笑っている女性のように見えた。



 ◆


 エミリアは鏡を見て、げっそりと肩を落とす。
 怪物の正体が分からず、怖くて食事も喉を通らない。
 まともに食事をとらなくなって何日になるだろう。目の下にはひどい隈が出来て、自慢の肌は荒れ切っていた。ここ最近はお茶会を休んでいるとはいえ、そろそろ復帰しなければ周りに見放されてしまう。身の回りで起きる不審時に、エミリアの心はすっかり参っていた。

 それでも彼女を支えるのは。

「……大丈夫。私にはリチャード様がいるもの」

 心に灯る、愛おしい王子様の姿。
 きっと眼鏡をくい、とあげて「君は世界一綺麗だ」と甘い言葉を囁いてくれる。
 あの方が居れば、社交界なんてテキトーに乗り切っても大丈夫。

 エミリアはそう信じながら化粧を終える。

「今日はうんと着飾っていくわ。準備しておきなさい」
「はい、エミリア様」

 うやうやしく一礼する侍女にエミリアは気分を良くワインを口にする。
 少なくとも昼間だけはあの怪物は現れないのだ。
 騎士団はダメだったが、次は魔術師を呼ぼう。
 アレの正体は何らかの魔術である可能性が高いのだから。

(ドレス事業もそろそろ始まる。気合を入れないと)

 後顧の憂いは立つに限る。
 悩みの元を断ち切って、王子と幸せな結婚生活を送るのだ。
 そう信じて疑わなかったエミリアの耳に「お嬢様」と侍女が囁いて来た。

「なに? 私は今、あの方に会う準備で忙しいのだけど」
「そのリチャード王子のことなのですが……」
「……? いいわ。話なさい」
「実は──」
「は?」

 エミリアはグラスを取り落とした。
 がしゃん、とグラスが割れ、赤い液体が絨毯にしみこんでいく。

 ──嘘、ありえない。

 そう何度も首を振るけど、耳にしたことは変わらない。

 それは先日のとある酒場で起きた一つの事件。
 情報部にもみ消されたことで余計に火種がついた一つの噂。


 エミリアの愛する『全裸王子リチャード』の噂だった。



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