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第二十八話 心がささやく
しおりを挟むふわふわ、もふもふ、もふもふ。
柔らかくて、温かくて、獣っぽいに匂いに身体を包まれる。
時折動く尻尾が背中をこっそり撫でるようで、とてつもない安心感だ。
「うぅ、シィちゃん……どうしよう」
──本物の妻にならないか。
旦那様の言葉がぐるぐると頭を回っている。
胃の中のものは吐き尽くして、思考が上手くまとまらなくてつらい。
「あれって……プロポーズ、なのかな」
「きゅう!」
「そうだよね……違うよね」
「きゅぅん……」
シィちゃんは切なげに鳴いたけど、額面通り受け取ることなんて出来ない。
彼は暗殺貴族で、二つの顔を持つ。
きっとあの時は、不甲斐ない私のために叱咤したのだろう。
『本物の妻にならないか』
↓
『本物の夫婦に見えるようにもっと二人で頑張ろう』
これだ。間違いない。
だって旦那様だもの。日頃の彼の態度を見ていれば自明の理だ。
合理的に考えなさい、アイリ。
元平民の私に暗殺貴族でカッコいい旦那様が求婚するわけないでしょ。
──でもでも、もし本当に言葉通りだったら……?
私はまた顔が熱くなってしまって、もふもふに顔を押し付けた。
ばたばたと足を動かす私にシィちゃんはめんどくさそうに鳴いた。
シィちゃん、見捨てないでよぉ。
「もし、本当だったら……」
旦那様は私のことが好きで、妻にしたいって思ってくれたなら。
ありえないほどの可能性だけど可能性としてはないこともない。
それこそ魔光多元世界論に基づけば、現在は無限の可能性が絡まって出来ているのだ。そのなかに彼が私のことを好きな可能性だって一つくらいあるのではないか。
「そしたら、私は──」
なんだか頭が回らなさすぎて、眠くなってきた。
瞼が開いては閉じて、だんだんと重くなっていく──。
◆
どれくらい経っただろう。
ぼんやりとした意識のなかで、ノックの音が響いた気がした。
「アイリ、入るぞ」
「キシャァァっ!」
「主を守っているのか。偉いな」
……だぁれ?
ようやく聞きなれはじめた声、なぜか安心できる声。
薄目をあけてみれば、シィちゃんのもふもふが威嚇するように逆立っていた。
銀色の大草原に包まれ、その向こうは何にも見えない。
「アイリ。起きてるか」
「……旦那様?」
ぱち、と目を開く。
頭だけ上げると、旦那様が私を見下ろしていた。
シィちゃんに身体を預けていた私は、のっそりと起きて礼をする。
「……おはようございます」
「あぁ、おはよう」
「……」
「……」
会話がないまま時間だけが過ぎていく。
き、気まずい。
何を話していいか分からないし旦那様の目が見られないわ……。
「少し話でもいいか」
「は、はひ」
私はコクコクと頷き、ベッドの縁に腰かけた。
大丈夫よね。髪とか……かなり乱れてるけど。
ちょ、ちょっとだけ直しておこうかしら。ちょっとだけ。
「それで、アイリ」
「はい」
「先ほどの話だが」
き、来た!
「俺は君を手放したくないと思っている」
「て……!?」
ま、待て待て。落ち着け私。
これはあれだ。偽の妻として非常に便利だから傍に置きたいだけで……。
「これは契約とは関係ない」
「え」
私の思考を読んだみたいに先回りする旦那様
まっすぐで誠実な暗殺貴族の言刃が私の胸に突き刺さる。
「俺は、君を異性として魅力的に思っている」
そ、それって……。
「君は元素魔術のように独特で、つかみどころがなく、それでいて初級魔術師のように抜けているところもある。そして、女神のような懐深さも魅力的だ。こんな俺を受け入れくれた君には本当に感謝しかない」
「ちょ、あ、あの」
な、なんだか褒められているのは分かるのだけど。
最初の二つはたとえが独特過ぎてよく分かりません!
「正直なところ、俺は女性に恋をしたことがなかったのだが」
「……っ」
「俺は君を、愛おしいと、感じている」
「ぁ」
心が、震える。
選び抜かれた、飾り気のない気持ちが心を満たしていく。
──本当に、私を?
「俺の側にいてくれないか、アイリ」
「……わ、私は」
「俺のことは嫌いか?」
私はぶんぶんと首を横に振った。
確かに私をからかうところや意地悪なところは、性格が悪いと思うけど。
それでも嫌いなわけがない。命を助けてもらった恩人だ。
実は誰よりも優しいところを知っている。
冤罪を見過ごせない正義感も、私を守ろうとしてくれる男らしさも。
好きか嫌いかで言えば、答えは決まっている。
「私も」
顔を上げて、旦那様の顔を見る。
私の心を射抜いた紺碧の瞳に吸い込まれそうになって。
「私も、旦那様が」
──また信じるの?
「……っ!」
思考は途切れた。
届けかけた言葉が、こぼれ落ちる。
どす黒く染まった内なる声が、恋の炎を呑み込んでいく。
──忘れたの? 信じてどうなったのか。
──また繰り返すの? どうせ裏切られるのに決まっているのに。
(あぁ、そうだ……)
私は俯いて、ぎゅっと拳を握りしめた。
──エミリアのことを忘れたの?
今はこんなことになったけど、エミリア・クロックは私の親友だった。
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銀髪が浮いているせいで虐められている私に寄り添ってくれた友達。
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辺境伯と暗殺者という二つの顔を持つ旦那様も、きっとまだ隠してる顔がある。
「アイリ」
仕方ない。それが人間だから。
そのことをどうとは思わない。きっと悪いことではない。
「……」
でも、信じることはできなかった。
肩を掴んできた旦那様の手を、優しくほどく。
「……旦那様の『好き』は……偽の妻として、ですよね」
私は顔を上げて、空虚な笑みを張り付けた。
どす黒く染まり切った心は、誠実な真心を受け付けない。
「旦那様の気持ちは嬉しいです」
「アイリ!」
「私も本物の妻らしく見えるように、もっと頑張りますね」
そこで話は終わりだった。それ以上は続けられなかった。
旦那様を部屋から追い出して、私は顔を覆う。
視界がにじんで、ぽろぽろと零れる涙が止まらなかった。
「……ごめんなさい」
臆病でごめんなさい、怖がりでごめんなさい。
こんな女で、本当にごめんなさい。
でも私は、誰も信じられないから。
どれだけ愛を囁かれても、きっと言葉の裏を読んでしまうから。
だから──
「なら、今はそれでいい」
「え?」
突然、後ろから抱きしめられた。
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「だ、旦那様……?」
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旦那様は私の髪に口づけを落とした。
「すまない。ゆっくり休んでくれ」
「あ」
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私は振り向き、その背中を掴んだ。
「……アイリ?」
「あの……私も」
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「……」
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「はい」
偽物の夫婦で、二つの顔を持つ宮廷魔術師にして暗殺者。
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それでも。
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第一章 完
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