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1巻

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 材料を調合した液体や軟膏なんこうへ、それに合った魔法をめることで、魔法薬が完成するのだ。
 よって、ただ薬草の粉末を混ぜただけでは魔法薬の効果は見込めない。また、薬草の配分がいい加減だったりすると魔法効果は宿らないか、酷く減少してしまう。
 そして、フィオナは祖母からもう一つ、魔法薬作りのコツを教わっていた。

(……どうかこれを飲んだ人が、一刻も早くすこやかになれますように)

 呪文をとなえながら、魔法薬が良い効果を発揮するようにと、心の中で強く願う。
 とはいえ、それをしたからといって魔法薬の効果が強くなるわけではない。魔法薬の効果を左右するのは、正確な調合と魔力の強さだと言われている。

『だからこれは、なんの根拠もないし、あたしの思い込みかもしれないけどね。こうした方が、良い薬ができそうな気がするんだよ』

 そう言って魔法薬を作る祖母の表情はいつもおだやかで、その手からキラキラした魔法の光が粒子になってビーカーに降り注ぐさまは、この上なく美しかった。
 懐かしい祖母の姿を脳裏に思い描き、フィオナは詠唱えいしょうを続ける。
 自分の手から回復魔法の光がこぼれ落ちるにつれ、ビーカーの中の液体が徐々に変化していく。スライムを思わせる不気味な粘液ねんえき状だったものが、サラリとした液体になり、色も淡い金色をびた綺麗な薄緑になる。
 最後まで無事に詠唱えいしょうを終えると、出来上がった魔法薬を漏斗ろうとで小瓶に移してせんをした。
 これで一瓶、完成だ。調合した薬品には、すぐさま魔力を注がなくてはいけないので、面倒でも一瓶ごとに調合する必要がある。
 ひたすら作り続け、ようやく二十瓶目の回復薬の材料をビーカーに入れたころには、もうお昼過ぎだった。

(とりあえずこれができたら休憩して、残りは夜にしよう……)

 へとへとになって、フィオナは胸中でつぶやいた。
 薬には自分の魔力を注ぎ込むので、これだけ一気に作るのは凄くキツい。
 ビーカーに手をかざして呪文をとなえ始めた……が、途端に店の呼び鈴がなった。
 つい、そちらに気をとられた一瞬が命取りだ。詠唱えいしょうは中断されてしまい、金色をび始めていたビーカーの中の液体は、たちまちドス黒くにごる。

「あぁ~……」

 フィオナは落胆らくたんの声をあげて肩を落としたが、グズグズ落ち込んでもいられない。
 急いで失敗作を廃棄はいきし、店のカウンターに出る。
 しょんぼりした顔から、営業スマイルに切り替えるのも忘れない。

「お待たせしました。いらっしゃいま……」

 しかし、元気よく暖簾のれんをくぐった瞬間、フィオナは目を見開いた。
 カウンターの向こうにいたのは、人狼の青年だった。
 人狼は狼の姿に変身できる種だが、人型の時にも耳は狼の形で、頭部の高い位置にあり、尻尾もついている。
 短い金色の髪から狼の耳が突き出た人狼の青年は、見た感じせいぜい二十歳前後といったところか。
 襟元の詰まった刺繍ししゅう入りの長衣にすそすぼまったズボンは、この辺りではあまり目にしない格好だった。見るからに重そうな特大のかばんも背負っているし、随分ずいぶんと遠くからきたようだ。スラリと背が高く、濃い金茶色の切れ長の目と鼻筋の通った顔立ちは、さぞ若い女性の目を引くだろう。
 だが、フィオナは彼の整った顔でも異国情緒たっぷりなよそおいでもなく、金色の狼耳と、上着のすそからのぞくふさふさした金色の尻尾に目を奪われた。
 冒険者の中には時おり人狼もいる。
 けれど、いくらフィオナが狼大好きとはいえ、彼らが人間に近い姿をしている時は狼耳や尻尾へ目が釘づけになることはない。
 しかし、今目の前にいる青年は、これまで見たことのない金色の毛並みをしていた。
 この状態で見惚みとれたのは初めてだが、これなら無理もない……なんて自分で思ってしまう程、青年の金色の尻尾は綺麗だった。

(ふさふさでつややかで……なんて綺麗な尻尾なの)

 つい、うっとりと見惚みとれていたが、ふと気づくと、青年が困惑した顔で立ちくしていた。

「あっ、申し訳ありません。こちらが品書きになります」

 不躾ぶしつけながめてしまったかと、フィオナは急いで愛想笑いを浮かべ、カウンターの端に置いてあった品書きの板を差し出す。
 だが、彼はフィオナを凝視ぎょうししたまま、品書きを見ようともしない。


「お客さん?」

 もう一度声をかけると、ようやく彼は我に返ったようだ。あわてた様子で首を横に振る。

「いや、俺は魔法薬を買いにきたのではなく、アーガス夫妻のご息女を訪ねてきた。フィオナという名で、この店をいとなんでいると聞いたんだが……」

 唐突とうとつに出てきた両親の名に、フィオナは目を丸くした。
 フィオナの母リーザは、青銀の魔女だった祖母の一人娘だが、髪は夕陽を思わせるあざやかなオレンジ色で、魔力は少しも持っていない。
 しかし、天性の身体能力と底なしの体力、荒くれ男にも負けない豪快な気質を持つ、フィオナの知る限り最強の女剣士だ。
 自由奔放ほんぽうな母は、少女時代からカザリスを飛び出して世界各地を冒険しまくり、現在は学者の夫セオドアと、世界中のダンジョンを研究しながら旅暮らしを満喫している。
 そして父のセオドアも、理知的な学者ではあるが決して文弱ぶんじゃくではない。母が惚れるだけあり、戦斧せんぷを自在にあやつ筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの巨漢で、そこらの魔物がたばになってかかってきても簡単に弾き飛ばす。
 あの二人なら、いつかダンジョンの最奥にだって辿たどり着けそうだとフィオナは思う。
 昔から両親とは年に一度会うかどうかで、子ども心にさびしくなかったといえば嘘になる。でも、二人が陽に当たれぬ娘を守るために、泣く泣く祖母にあずけたことも理解していた。
 父も母も豪快で気風きっぷが良く、多くの人にしたわれている。このダンジョンやカザリスの街でも、大勢の人を魔物や盗賊から助けたそうで、両親に助けられた人は、その縁でフィオナにも親切にしてくれる。
 また、二人は旅先から心のもった手紙と十分な仕送りを欠かさず送ってきたが、手に入りにくい魔法薬の材料もたびたび届けてくれた。この店が良い品ぞろえを維持できるのも、両親のおかげである。

「フィオナは私ですけれど、両親とお知り合いですか?」

 答えて尋ね返すと、みるみるうちに彼の顔が赤くなった。

「やっぱり、君が? 人違いなどではなく本当に、アーガス夫妻のために回復薬を作った、フィオナなんだな?」
「え? はい。両親には、私の作った回復薬を渡しておりますが」

 いぶかしむフィオナの目の前で金色の狼耳が小刻みに震えたかと思うと、唐突とうとつに強いめつけを感じた。

「やっと……会えた」

 耳元で、感極まったようなかすれ声が聞こえ、少し硬い金色の髪が頬をくすぐる。
 なんとカウンターへ飛び込まんばかりに身を乗り出した人狼の青年が、両腕でフィオナをがっちりと抱き締めていたのだ。
 冒険者は男の人が多いから、フィオナも男性への免疫がないわけではない。だが、家族以外の男の人から抱き締められるなど想像すらしたことがなかったフィオナに、これはいかんせん刺激が強すぎた。

「っ! きゃああああ!」

 凍結した思考が動き出すと同時に、フィオナののどから悲鳴がほとばしる。
 すると、カウンターに青銀の稲妻が走り、見えない手が彼をフィオナから引きがすと、すさまじい勢いで店外へと弾き飛ばした。
 実はカウンターの板は特殊な魔道具で、悪意を持つ者はこの板から先に指一本入れない。また、店に張られた結界は悪意を持っているかどうかにかかわらず、店主が強い危機を感じた相手を、即座に弾き飛ばすのだ。ちなみに弾かれる強さは、店主の感じた恐怖に比例する。
 人狼の青年は向かいの石壁へしたたかに叩きつけられていた。
 轟音ごうおんと共に、光苔ひかりごけが舞い散ってもうもうとけむりがあがる。並みの人間ならば、骨の数本くらい折れていそうだ。

てて……」

 だが、人間よりはるかに頑丈がんじょうな人狼の青年は、軽く顔をしかめただけですぐに身を起こす。

「いきなりなにするんですか! 近づかないで!」

 恐慌状態でのどを引きらせ、フィオナは叫ぶ。
 もはや素敵な尻尾も耳も関係なく、目の前の青年はただの危険人物にしか見えない。
 これ以上、彼がなにかするようならば、店の両脇で石壁にカモフラージュしてあるゴーレムをけしかけるのも辞さないつもりだ。
 しかし、それは杞憂きゆうだった。
 こちらに踏み出そうとしていた人狼の青年は、フィオナのおびえきった様子を見ると歩みを止めた。

「す、すまない。ようやく会えたばかりか、まさか君が……いや、なんにせよ申し訳ない。大変無礼なことをした」

 深々と頭を下げた彼に、フィオナはまだ警戒しつつ、改めて尋ねた。

「あの……私が両親に作った回復薬とおっしゃいましたが、回復薬がご入用ではないのですか?」

 すると彼は首を横に振り、フィオナの正面でビシッと背筋を伸ばして立った。胸の前で右手をこぶしにして左のてのひらに合わせる。
 彼の仕草は、昔父から聞いた、遠い東の山岳地帯で相手に対する敬意や謝意を示す挨拶あいさつのように見えた。

「申し遅れたが、俺はガルナ人狼族のおさの末息子でエルダーという。ガルナ族は先日、全滅の危機にあったのをアーガス夫妻に救われた。夫妻は我が一族の恩人だ」
「父さんと母さんが、あなたたちの一族を……?」

 フィオナは呆気にとられた。確かに、両親はとてつもなく強いが、人狼も尋常でない体力と生命力の強さを持つ戦闘にけた種だ。
 人狼はどこの国にも属さず、あちこちの山奥に住み部族ごとに小さな村を作っている。
 各国の軍の介入を防げるだけの戦闘力を持つゆえに、どの人狼部族の村も小さな自治国家たりえるのだそうだ。
 そんな人狼の村が全滅しかけたなど、一体なにがあったのだろうか?
 フィオナが狼狽うろたえていると、生真面目な表情で彼が続けた。

おさである父が、アーガス夫妻に謝礼を申し出たところ、娘と店を守るようにわれたそうだ。俺は婿むことなって、夫妻に救われた命のある限り、フィオナと共にこの店を守ると誓おう。不束者ふつつかものだが宜しく頼む!」
婿むこぉっ!?」

 フィオナの絶叫が、ダンジョンの通路いっぱいに響く。

「じょ、冗談や嘘はやめてください。両親が、私の結婚相手を勝手に決めたりするはずはありません。一生を共に過ごす大事な結婚相手は、きちんと自分で選びなさいと言われています」

 確信をもって抗議すると、エルダーが荷物を探って一通の手紙を取り出した。

「嘘でも冗談でもない。その証拠に、アーガス夫妻から手紙をあずかっているのだが、これを渡すために近づいても良いか?」

 彼が掲げた二通の封筒に、フィオナは目をらした。
 光源が光苔ひかりごけのみのダンジョン内はそれほど明るくないが、『フィオナへ』『愛する娘へ』と、並んで大きく記されている文字はよく見えた。確かに、父と母の筆跡だ。

「……はい。でも、カウンターに手紙を置くだけで、私に触らないと誓ってくださいね?」

 フィオナが用心深く言うと、エルダーがうなずいた。

「誓おう」

 そしてエルダーは手紙をカウンターに置き、さっと離れる。その際、わずかながら彼の手があめ色の板に触れたのを、フィオナはちゃんと見た。
 いきなり抱きついたりした彼だが、考えてみればそれができたのは、フィオナへ暴行をしようなどという悪意を持っていなかったからこそである。
 また、そのせいで弾き飛ばされても、自分が悪かったと謝ってくれたし、フィオナに敵意を抱きはしなかったようだ。そうでなければ、再び店の向かいの石壁に叩きつけられていたことだろう。
 内心ホッとするが、それはともかく、両親が婿むこを勝手に決めるなんてやはり信じられない。封を切るのももどかしく両親の手紙を読み、思わず首をかしげた。

(これって、もしかして……そういうこと!?)

 先ほどエルダーが告げた言葉をよく反芻はんすうし、愕然がくぜんとする。

「あの、エルダーさん。お話は解りましたが……」

 恐る恐る声をかけると、神妙だった彼の表情が一気に明るくなり、狼耳がピクピクし始めた。

「解ってくれたなら幸いだ。それから、俺は二つ年上だが、エルダーと呼んで欲しい。婿むこ入りしにきたのだから、他人行儀な言葉遣いもやめてくれ」
「いえ、それが……」

 尻尾をブンブン揺らし、とびきり優しい微笑みを浮かべたエルダーに、フィオナは気まずさいっぱいで告げた。

「言い辛いんですけれど、両親が頼んだのは、私の婿むこになることじゃなかったんです」

 両親はやっぱり娘に婿むこを押しつけようなどとしていないし、彼も嘘をついている訳ではなかった。本当に両親に感謝し、誠実な思いで婿むこになると言っているのだと思う。

「どういうことだ? 確かに夫妻は、娘と店を守るよう望まれたそうだが……」

 エルダーが首をかしげると、背負った大荷物がガサリと音を立てて揺れる。

(あああぁ……きっと、本当に婿むこになるつもりで、身のまわりの品とか持ってきたのね)

 荷物も決意も、さぞ重たかっただろうに。
 とても気まずい思いで、フィオナは店の横の扉を手で示す。

「宜しければ、お入りになりませんか? 随分ずいぶんと遠くからいらっしゃったようですし、腰を落ち着けて説明した方が良いと思いますから」
「あ、ああ……では、そうさせてもらう」

 エルダーがうなずいたので、フィオナは急いで店の奥から玄関へとまわって戸を開ける。
 そしてとりあえず、遠路はるばるやってきた彼のために、疲労ひろう回復の薬草茶をれることにした。


 店と調合室の奥にある居住スペースは、そう広くない。
 貯蔵庫と台所と、食堂を兼ねている居間。小さな寝室が二つ、それに浴室洗面所があるのみだ。
 フィオナはエルダーを居間に通し、食卓を兼ねた四人がけテーブルの椅子を一つ勧める。
 台所に行って魔法で湯をかし、二人分の薬草茶をれて戻ると、荷物を置いて座ったエルダーは、興味深そうに室内を見回していた。

「ダンジョンの中の住居は、初めてですか?」

 フィオナが声をかけると、エルダーはややバツが悪そうに苦笑した。

「ジロジロ見てすまない。実を言うと、俺はダンジョンの話こそ聞いていたが、実際に入ったのは、ここが初めてだ。故郷の近くにダンジョンはなかったからな」
「そうだったんですか。別に、気にしませんよ」

 フィオナは微笑み、住み慣れた室内をグルリと見回す。
 この住居内の壁と天井は全て、白い塗料で塗られている。これは、ドワーフが使う特殊塗料で、湿気や冷気を防ぎ、地下でも快適な室温を保てた。
 窓はないが、通気口が上手く配置されているので空気の通りはよい。天井に取りつけた魔道具のガラス球は、壁のレバーを操作すれば灯りをつけたり消したりできる。
 この店の歴代店主は全員が青銀の魔女なのだが、生活に必要な魔法を一通り使える彼女たちだけでなく、その夫や子が魔力を持たずとも不便なく暮らせる設備が整っているのだ。
 居間の片側にはソファーと書き物机にもなるチェストが置かれ、もう一方の壁には、作りつけの大きな棚がある。
 そこには、オルゴールや砂時計、古い木彫りの人形といった様々なものがかざられていた。フィオナの両親が、帰ってくるたびに渡してくれた遠い地の土産みやげもいっぱいある。
 両親からそれらを受け取ると、フィオナは地図を広げてどんな場所なのか詳しく教えてもらって、一つずつ大切にかざる。そうするとまるで、自分もそこへ行ってきたような気分にひたれた。
 その他にも、旧知のドワーフから誕生日プレゼントにもらったアメジストの美しい結晶や、ジルの足跡スタンプを入れた額縁がくぶちなど、大切なものがたくさん並んでいる。

「……アーガス夫妻の似顔絵か」

 不意にエルダーが、棚の一つに視線を止めてつぶやいた。
 小さな額縁がくぶちに収まっている絵は、フィオナが四歳の頃に描いたものだ。つたない両親の似顔絵の下に、やはり子どもの字で『父さんと母さん』と書いてある。
 今見れば我ながら下手だと思うが、描いた時は傑作けっさくだと自画自賛し、両親も額に入れて帰るたびにながめるので、未だに捨てられずにかざってあった。

「はい。私が子どもの頃に描いたものだから、すごく下手ですけど」

 フィオナは赤面して苦笑し、裏返しておけば良かったなと後悔した。
 客を迎えるなんて慣れてないから、初対面の人に、子どもの頃の下手くそな絵を見られるのは意外に恥ずかしいと、初めて知った。
 しかし、エルダーは微笑んで首を横に振る。

「いや、俺が夫妻の姿を見たのはほんの一瞬だったが、すぐに二人だと解った。夫妻はフィオナを自慢の娘だと言っていたそうだが、きっと君にとっても、大好きで自慢のご両親なんだろうな」

 しみじみとした声音に、フィオナはうなずいた。彼の向かいに腰を下ろし、先ほどもらった二通の手紙をテーブルにのせる。

「そうです。だから、両親が私の知らないところで勝手に結婚相手を決めたりしないと、信じていた通りでした」

 肝心な話を切り出すと、エルダーはわずかに身構えた。どうしても信じられないと言わんばかりの雰囲気を感じる。
 フィオナは咳払せきばらいをし、初めから順を追って話すことにした。

「両親の手紙には、あなたたちの集落に狼熱おおかみねつ蔓延まんえんしている最中、ゴブリンの襲撃を受けた、と書いてありました」

 狼熱おおかみねつ、という人狼がごくまれに罹患りかんする熱病がある。
 それにかかると数日間高熱が出て、熱が引くまで狼の姿に変身できなくなるのだ。
 非常に感染力が強く、一人が発症すれば、あっという間に村全体へ広まる。特効薬はないが、数日安静にしていればケロリと治る上に、耐性がついて二度とかからないので深刻視されていなかった。
 しかし、発症がごくまれなので、逆に村の誰も耐性がないということになり、全員が一度に弱ってしまう。
 両親は旅の途中、たまたま彼らの危機に遭遇そうぐうしたそうだ。
 ガルナ族の話によれば、数十年ぶりに狼熱おおかみねつが村で広まって一族全員が感染してしまい、弱りきった頃合いを見計らったように、大群のゴブリンがおそってきたらしい。
 ゴブリンは山林に住む、緑色の皮膚をした小鬼のようなみにくい魔物だ。
 腕力はそれほど強くないが、なかなか狡賢ずるがしこく残忍な性格で、弱っている獲物を集団でおそい、散々なぶってから食い殺す。特にやわらかな肉を好み、辺境の人里では子どもをさらったりした。
 普段であれば、人狼には決して近づいてこないのに、ガルナ族の人狼たちが次々と具合を悪くしていくのをどこかで見かけ、おそう機会をうかがっていたのだろう。
 山奥から立ち上る不審なけむりで異変に気づいた両親が駆けつけたところ、建物に火をつけ、ゴブリンが村を襲撃していた。とはいえ、人狼は流石さすが強靭きょうじんさをほこる種だけあり、狼化できず熱に弱っていながらもなんとか応戦していたらしい。

「……それで両親はゴブリンを追い払い、幸い一人も死者を出さずにすんだ。その後も、怪我人の手当や建物の修復を手伝うなど、少し手を貸したそうですね」

 フィオナが言うと、テーブルの向こうでエルダーはゆるゆると首を横に振った。

「アーガス夫妻がきてくれなかったら、ガルナ族はゴブリンに皆殺しにされていたはずだ。あの時、俺は熱でろくに動けず、何匹ものゴブリンに食いつかれ死にかけていた」

 彼はカップの茶を一口飲むと、息を吐いて視線をあげた。するど琥珀色こはくいろの瞳が、じっとフィオナを見据える。

「俺が死なずにすんだのは、アーガス夫妻の助けも勿論もちろんだが、君のおかげでもある」
「私の?」

 フィオナが目をしばたたかせると、エルダーはふところから布包みを取り出した。
 包みをほどくと、からになった魔法薬の小瓶が現れる。
 ピカピカにみがかれたガラスの小瓶は、ヒビ一つ入っていない。厚手の布で厳重にくるまれていたから、先ほどエルダーが弾き飛ばされた時にも割れなかったのだろう。

「これは、アーガス夫妻が俺に飲ませてくれた回復薬の瓶だ。俺の住んでいた辺りで作られる魔法薬の瓶は全て陶器で、こうしたガラス瓶は村に一つもなかった」
「じゃあ、これは私が父さんたちに持たせた薬なのね」

 ガラスの曲面に映る自分の顔を見つめ、フィオナはつぶやいた。
 父も母も、魔物にたばおそわれようとかすり傷すら滅多に負わない。それは解っているけれど、離れている間になにかあったらと考えると、やはり不安だった。
 旅の間、二人が無事でいられますようにと、ここへ帰ってくるたびに新しい回復薬を作り、おまもり代わりに持っていってくれるよう頼んでいた。

「ああ。二人に助けられた時、俺はほとんど意識をなくしかけていたが、アーガス夫妻が『自慢の娘が作った特製の回復薬だ』と言ったのはよく聞こえた」

 エルダーが微笑み、衣服の襟元の留め具を一つ外す。かなり薄くなっていたがのど元に酷い裂傷れっしょうの痕がいくつも見えた。
 人狼はすさまじい回復力を持つが、死にかけた時に負った傷痕はなかなか消えないと聞く。本当に、彼はあの傷で死にかけたのだろう。

「薬瓶の残りをいだ村の医師も、滅多に見ない逸品だと称賛していた。アーガス夫妻がゴブリンを追い払ってくれたとしても、あの回復薬を飲まなければ俺は助からなかったに違いない。だから、俺の命を救ってくれた回復薬の作り手に、会いにきたかった」

 衣服を直したエルダーが熱心な口調で言った。ついでに勢いよくパタパタ揺れ始めた金色の尻尾がテーブルの端からチラチラとのぞく。
 その綺麗な金色をつい目で追いそうになるのをこらえつつ、フィオナはおずおずと異をとなえた。

「そう言ってくれるのは光栄ですけど、怪我の痕を見た限り、私の回復薬は大してお役に立てなかったはずです。回復薬の効果ではなく、エルダーさんが……」

 そう言いかけると、ぱっと彼が片手をあげてフィオナの言葉をさえぎった。

「他人行儀なさんづけは止めてくれと頼んだだろう」
「でも、婿むこ入りして欲しいというのは誤解なんですってば」
「俺はそう呼んで欲しいし、できればこちらもフィオナと呼ばせて欲しいが、どうしても駄目か?」

 懇願こんがんされ、フィオナはうっと声を詰まらせる。
 美形は得だ。凛々りりしい表情や明るい笑顔だけでなく、うれい顔さえさまになる。
 まぁ、それだけならばほだされなかったかもしれない。だが、哀愁あいしゅうただよわせてシュンとれてしまった素敵な狼耳と尻尾に、ついつい罪悪感を刺激された。
 年頃が近いのだから、気楽に話したいというのはおかしいことじゃない。
 かたくなにさんづけをするのは、必要以上に邪険にしているような気がしてくる。

「……じゃあ、エルダー」

 躊躇ためらいながらフィオナが呼ぶと、途端にエルダーの顔が輝き、狼耳がピクピク嬉しそうに震え始めた。

「なんだ? フィオナ」

 嬉しそうな声音で答えた彼に、フィオナはコホンと咳ばらいをして話を戻した。

「どんなに回復薬の質が良かろうと、のどにそんな酷い痕が残ってしまうような怪我をしたら上手く薬を飲みこめなくて、効果なんてほとんどなかったはずだわ。エルダーが助かったのは、あなたが人狼で生命力が強かったおかげよ」
「そんなことはない! 実際、飲み込めた薬の量はわずかだったが……」
「そ、それはともかく、肝心の婿むこ入りの誤解の件について、これを見て欲しいの」

 なおも言いつのろうとするエルダーを押し止め、フィオナは何枚にもわたる両親の手紙から二枚を抜き出し、テーブルに広げた。
 二枚の紙に視線を走らせたエルダーが、見る見るうちに顔を強張こわばらせていく。

「え……じゃあ、まさか……フィオナと店を守れというのは……」

 上擦うわずった声を発した彼は、自分たちが勘違いしていたことを理解したようだ。本当に、彼の一族はフィオナの両親に感謝し、恩返しをしようとしてくれたのだろう。
 フィオナは溜息ためいきを呑み、手紙の記述を振り返る。
 ゴブリンを退しりぞけたあと、両親はガルナ族のおさから、一族全員の恩人に礼をしたいと言われたそうだ。だが、死者こそ出なかったものの、村が酷い損害を受けたことは変わらない。すぐには動けない怪我人も大勢いて、今はわずかな物資も惜しいはずだ。
 フィオナと同じく両親も、死者がなかったのは人狼の生命力あってこそだし、困った時はお互い様だからと遠慮しようとした。
 しかし人狼は、義理堅い性質だ。おさや村の主だった老人たちは、何かしら礼をさせてくれと引き下がらなかった。
 しまいに、品や金が受け取れないのならば、一族の者の内、誰かを数年ほど従者につけさせようと言い出したので、両親はそれならと思いついた。
 エルダーに見せた手紙には、両親の考えがはっきりと記されている。


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