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そんなに悪くない
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**
「……ん?」
起きると、宿の部屋にリロイの姿はなかった。ファルチェは目を擦りながら、静かな部屋を見渡す。
カーテンは閉めていても、眩しい日光が透けているから、もう陽が高く昇っているのだろう。
――昨夜、リロイは本当に満足するまで『ご褒美』をくれた。
一度だけじゃなく、何度もファルチェの中に精を注ぎ込んで、数え切れないほど唇を合わせた。
真夜中すぎまで絡み合ってから、リロイは魔法で身体と寝具を綺麗にすると、ファルチェを抱きしめて眠った。
宿にとまる時はいつも、リロイと同じ寝台だけど、こうして抱きつかれるのが嫌で、ファルチェは寝台の端っこか床に避難していたものだ。
でも昨夜は散々イかされたせいか、腰にまったく力が入らなかったし……苦労に見合うたっぷりの『ご褒美』を貰ったせいか、くっつかれるのもそんなに悪くない気分だった。
だから、そのまま眠って、リロイが朝起きる前に離れようと思ったのに……。
部屋にあるのはファルチェの荷物だけで、リロイのマントや荷物は何も無い。
どこかに出かけたのだろうと思いつつ、ファルチェは自分の服に着替えた。
森に住んでいた頃は、廃虚で見つけた布や服を適当につけていたけれど、リロイと旅するようになってから、ファルチェの持ち物は綺麗なものが随分と増えた。
さっぱりした麻の下着の上に、袖口の大きく広がったたブラウスを着る。腕を鎌にしても破けないようにと、最初にいった街の仕立て屋で、リロイが特別に注文してくれたものだ。
それから膝丈のジャンバースカート、靴下に革のブーツと履いていく。
最後に髪を縛り、リロイとおそろいの黒いマントを羽織れば完了だ。
着替えや他の持ち物が入った防水布の鞄を抱え、身支度を終えたファルチェは、窓のカーテンを大きく開けた。
この部屋は宿の三階で、近くの広場までよく見えた。
今日は雲一つない晴天で、円形の広場には大勢の人間が行き来している。荷車を引いた行商人に、花売り娘に新聞売りに靴磨きなど、商売に精を出しているものも多かった。
広場の正面には荘厳な教会があり、大きな時計はもう正午近くを告げている。
ファルチェは時計を睨むと窓を閉め、寝台の端にどさっと腰を降ろした。
リロイが急にちょっと姿を消すなんて、よくあることだ。少し待っていれば、平気な顔でヘラヘラして帰ってくる。
でも……今日はなぜか、妙に心臓がドキドキして、背筋が寒くなる。
(……あ、そっか)
不意にその理由に気づき、いっそう悪寒が増した。
昨日、奴隷商人の館で、リロイは目的の品物を手に入れたようなのだ。
全身が鎌になっている間、ファルチェの意識はなくなるが、あの地下室を出る前に、奴が足元に落ちていた紙束を大事そうにしまうのがチラリと見えた。
つまり、もうリロイは旅の目的を果たしたわけで……。
「――――――っ!!」
いきなり、ゾワッと全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、ファルチェは寝台から飛び起りる。
「は、はぁ……っ、はぁ……っ」
急に息が苦しくなって、大きく口を開けて喘いだが、上手く空気が取り込めない。
――『しばし一緒に、煉獄を生きようよ。ファルチェ』
初めて会った日に言われた、リロイの言葉が脳裏へ鮮明に蘇る。
奴は『ずっと一緒』とは言わなかった。『しばし』が、具体的にいつまでとも……別れる時には、呪いを解くとさえも言わなかった。
――『あんただって、いらないから捨てられて、ここに売られたくせに!!』
今度は、カーラの声が頭に蘇る。
「違う!! 違う違う!!」
嫌な想像を追い出そうと、必死に頭を振って怒鳴った。
昨日、リロイがすごく変な顔をしたり、やけに満足させてくれたのは、これでもう最後だからだったなんて……っ!!
「そんなわけ……っ!」
ファルチェは唇を噛み、荷物を掴んで部屋を飛び出した。
一階でカウンターを磨いていた宿の主人は、血相を変えて飛び出したファルチェに驚きつつ、お連れさんなら朝早くから広場の方へ出かけていったと教えてくれた。
数日分の宿代は先に払ってあるので、主人は広場へ駆け出すファルチェを、笑顔でいってらっしゃいと送り出す。
広場は宿から一本道で、すぐにたどり着けた。
悪魔であるファルチェは、どちらかといえば暗い方が好きだけれど、明るい陽射しの中だって別に平気だ。
石畳の円形広場には、この街の住人だけでなく、旅人も多かった。
流れの傭兵らしい男が、屋台で中古の剣を品定めしているし、魔法使い組合の首飾りをつけた旅装の一団は、長距離馬車と値引き交渉の真最中。
いっぱいの人込みの中を、必死で探し回ったけれど、黒尽くめの魔法使いの姿はどこにも見えない。
そのうちに、教会の鐘が大きな音を鳴り響かせ、ファルチェは耳をふさいで駆け回る。それでもやっぱり見つからない。
「……どこだよ」
散々探し回った末、ついに膨れ上がった悪寒が我慢できなくなり、教会の一番隅っこにある石段へ、ぐったりと腰を落ろした。
(別に良いさ……リロイがいなくっても)
膝を抱え、せわしなく行き来する人々を虚ろに眺めた。
そうだ。
リロイはファルチェを捨てた気でいるかもしれないけど、こっちこそアイツを捨ててやったんだ。
(だって、アイツが目的を果たすのに協力したわけだし……リロイがいなくなったって、困るわけじゃない)
もう飢えは満たせなくなるけど、そもそもアイツと会う前に戻るだけだ。煩くからかわれたり、命令されたりしなくて良いし。
これからは、どこだって好きなとこに……
「…………っ」
いきなり、塩辛い味が口に広がってファルチェは驚いた。
いつのまにか、両眼からボロボロと涙が溢れている。
「なん……だよ、これ……っ」
どうしても止まらない涙を両手でぐちゃぐちゃに擦っていると、不意に傍らから、落ち着いた声がかけられた。
「お嬢さん、何かお困りですかな?」
横を向くと、教会のローブを着た聖職者らしい白髪の老人が、皺だらけの顔に穏かな微笑をたたえながら、ハンカチを差し出している。
「え……」
一瞬戸惑ったが、とりあえずファルチェはハンカチを受け取って、ゴシゴシと顔を擦った。
「ありがと。でも、別に困ってない」
何か借りたり、やって貰ったりしたら、ちゃんと礼を言えとリロイに教え込まれていたから、ファルチェはハンカチを返しつつ小声で呟いた。
「いえいえ。歳を取ると、どうにもお節介になってしまう」
老人はニコニコと頷きながら、教会の裏門を指した。
「わしはここの司祭でしてな。……といっても、行事はもう若いものに任せて、人様から悩み事の御相談を受けてるくらいですが。お嬢さんも、気が向いたらいらっしゃい」
そう言うと、老司祭はよっこらせと腰を伸ばして立ち去ろうとした。
「――困っても悩んでもない……けど、知りたいことはある」
気づけばファルチェは、その白いローブの端を掴んでいた。
「はて? わしに解ることでしたら、お教えしますがの」
優しく尋ねる老司祭に、思い切って尋ねる。
「あのさ……煉獄って、なんだ?」
この期に及んでも、リロイの言葉に執着するのは悔しかったけれど、聞かずにはいられなかった。
老司祭は、少し意外そうな顔をしたが、真っ白いひげを撫でてからゆっくりと穏やかな声を紡ぎだす。
「煉獄とは、天国にも地獄にも行けない魂が、苦罰の炎に焼かれて罪を清める場所と言われておりますのう」
「………………そっか」
老司祭の言葉を、心の中でしっかりと噛み締めてから、ファルチェが頷いた時だった。
「ファルチェ!!」
聞きなれた憎らしい男の声に、ファルチェは弾かれたように顔をあげる。
リロイが人波をかきわけながら、こっちへ一目散にかけて来る。
仕事の最中じゃないから、覆面はしていなかったけれど、もう夏近いのに黒尽くめの衣服でマントまで着こんでいるその姿は一際目立った。
駆けてきた勢いで、黒いフードが後ろにずれると、焦りきった表情が露になる。
「リロイ……」
ファルチェの元まで着くと、途端にリロイは思い切り眉をしかめた。
「勝手に抜け出して、どこに行く気だったんだ!? 宿の主人から、いきなり荷物持って飛び出してったなんて聞いて、僕がどんなに心配して焦ったか……っ!!」
「え、え……?」
一気にまくしたてるリロイを、呆気に取られたままファルチェは見あげた。
――コイツが心配した? それも、あたしがいなくいなったから……?
「そりゃ、何も言わないで出かけたのは悪かったけど、そういう時は、いつもすぐに帰るだろ!?」
なおも説教を続けようとするリロイを、まぁまぁと老司祭がなだめた。
「お嬢さん。お連れさんと会えて良かったですな。それでは、私はこれで……」
「お世話になりました」
立ち去る老司祭に、リロイが軽く頭を下げ、茫然としているファルチェの頭もグイと押す。
そして、ファルチェの手を掴んで引っ張り、石段から立ち上がらせた。
「ほら、帰るよ。いきなり飛び出した理由は、宿でゆっくり聞かせてもらうから」
**
「――笑うな!!!」
宿の部屋に戻り、テーブルに突っ伏して笑い転げているリロイの足を、ファルチェは向かいから蹴っ飛ばした。
「だってさ……くくっ……うわぁ、可愛い! 僕に捨てられたって誤解して追いかけるなんて……可愛すぎてたまらないよ!」
「お、追いかけてない! お前が勝手にいなくなったんなら、あたしが見捨ててやると思って、念のために探しただけだ!」
「そういう事にしておくよ……くくっ」
「う~っ」
これ以上ないニヤけてるリロイを、ファルチェは思い切り睨みつけた。
「はー、笑った……でもね、ファルチェの考えは最初から外れだ」
目端の涙を拭い、リロイが首を振る。
「最初から?」
「残念ながら、昨日見つけたのは、僕が求めていたものじゃなかった。また一から情報の集めなおしだな」
リロイは苦笑し、小さく溜め息をつく。
「で、でもっ! 大事そうになんかしまってたじゃん!」
ファルチェが食い下がると、リロイが今度はニンマリと口元を緩め、傍らに置いた自分の鞄を親指で示す。
「僕にとっては価値がなくても、今回の依頼主には、喉から手が出るほど欲しいものでね」
「え? 確か、警備隊のお偉いさんとかいう奴?」
「うん。あの書類は、警備隊を目の敵にしてた、反国王一派の貴族たちが加担している、悪事の証拠書類だったんだ。あれを上手く使えば、他の奴隷商や賄賂を貰っていた高官たちも全員消せる」
リロイはテーブルに頬杖をつき、深い青の瞳をゆったりと細めた。
「食料品の異常値上がりも、そいつらの仕業だったし、これで庶民の生活も少しはマシになるんじゃないかな。おじさん、大喜びだったよ。書類をすごーく良い値で買い取ってくれたから、当面の資金は心配ない」
「は……あ、そう……」
一気に脱力してしまい、ファルチェはぐったりと木の椅子に沈みこんだ。しばらく天井を睨んでから、迷った末にそっと声をかける。
「リロイは、何を探してるんだ?」
以前にも一度、リロイが何か探して旅をしていると知った時に、こうして尋ねた。
「うーん。悪いけど、内緒」
しかし、今回も返ってきたのは同じ答えだ。
(別に……期待してなかったけどさ)
少し面白くない気がして、ファルチェは不貞腐れた顔でそっぽをむく。
「……と、言いたいことろだけど」
「え?」
思わず顔を向けると、食えない笑みを浮かべたまま、リロイがテーブルの向かいで手招きをしていた。
「ファルチェ、おいで」
「う……」
膝をポンポンと叩いて促され、ファルチェは喉奥で呻いた。なんか、すごく嫌な予感がする。
「ファルチェ?」
しかし、もう一度催促するように呼ばれると、ファルチェの足はフラフラとそちらへ向ってしまう。
「ん……良い子だね。今日は本当に焦ったよ」
膝に乗せたファルチェを、リロイが後からぎゅっと抱きしめる。
すると、やっぱり心臓の奥がむずむずして、ファルチェは眉根を寄せた。反射的に身を捩ろうとした瞬間、耳元で小さく囁かれた。
「詳しくは言えないけど……僕が、僕の犯した罪を許すために、どんな手を使っても手に入れなきゃならないものなんだ」
「……え?」
思わず肩越しにリロイを振り仰ぐと、そのまま片手で顎を掴まれた。もう片手は、衣服の上からファルチェの左胸を掴む。
「ちょっとお仕置き。ここをいっぱい、ムズムズさせるから」
リロイがニヤリと笑い、抗う間もなく唇が重なる――けれど、『ご褒美』じゃなかった。
奴が『褒美を与える』と念じなければ、体液は飢えを満たす効力を持たない。
重なる唇の隙間から、滑り込んできた舌に口内を掻き混ぜられても、頭が痺れて溶けそうな満足感は得られない。
その代わり、むずむず疼く心臓が、更にきゅうっと締め付けられるような感覚がして、変な気分なのに、もっと味わいたいと思ってしまった。
「ん……っ」
わけが解らず、ファルチェは目を瞑ってリロイのシャツを握り締める。
(煉獄……天国にも地獄にも行けない魂……か)
混乱気味の頭の中で、老司祭の言葉が蘇る。
無数の死者たちからこの世に生まれてしまったファルチェは、まさしく天国にも地獄にも行けなくなった魂という奴だろう。
煉獄が、その魂を苦罰の炎に焼くというのなら、正体の解らぬ飢えに焦がれて苦しみ続けるこの世こそが、ファルチェにとっては煉獄になるのかもしれない。
リロイに初めて会った時、そのまま殺されていれば、もしかしたら他のどこかへ行けたのだろうか。
コイツが短剣を突き立てた時に言った言葉の意味が、少しだけ解ったような気がした。
(でもさ……リロイ)
こんなの変だと思いつつ、どうしてもこう思ってしまう。
――リロイなんか本当にムカつく。でも、なんでかコイツと一緒なら、この煉獄もまぁ、そんなに居心地悪くないんだ。
「……ん?」
起きると、宿の部屋にリロイの姿はなかった。ファルチェは目を擦りながら、静かな部屋を見渡す。
カーテンは閉めていても、眩しい日光が透けているから、もう陽が高く昇っているのだろう。
――昨夜、リロイは本当に満足するまで『ご褒美』をくれた。
一度だけじゃなく、何度もファルチェの中に精を注ぎ込んで、数え切れないほど唇を合わせた。
真夜中すぎまで絡み合ってから、リロイは魔法で身体と寝具を綺麗にすると、ファルチェを抱きしめて眠った。
宿にとまる時はいつも、リロイと同じ寝台だけど、こうして抱きつかれるのが嫌で、ファルチェは寝台の端っこか床に避難していたものだ。
でも昨夜は散々イかされたせいか、腰にまったく力が入らなかったし……苦労に見合うたっぷりの『ご褒美』を貰ったせいか、くっつかれるのもそんなに悪くない気分だった。
だから、そのまま眠って、リロイが朝起きる前に離れようと思ったのに……。
部屋にあるのはファルチェの荷物だけで、リロイのマントや荷物は何も無い。
どこかに出かけたのだろうと思いつつ、ファルチェは自分の服に着替えた。
森に住んでいた頃は、廃虚で見つけた布や服を適当につけていたけれど、リロイと旅するようになってから、ファルチェの持ち物は綺麗なものが随分と増えた。
さっぱりした麻の下着の上に、袖口の大きく広がったたブラウスを着る。腕を鎌にしても破けないようにと、最初にいった街の仕立て屋で、リロイが特別に注文してくれたものだ。
それから膝丈のジャンバースカート、靴下に革のブーツと履いていく。
最後に髪を縛り、リロイとおそろいの黒いマントを羽織れば完了だ。
着替えや他の持ち物が入った防水布の鞄を抱え、身支度を終えたファルチェは、窓のカーテンを大きく開けた。
この部屋は宿の三階で、近くの広場までよく見えた。
今日は雲一つない晴天で、円形の広場には大勢の人間が行き来している。荷車を引いた行商人に、花売り娘に新聞売りに靴磨きなど、商売に精を出しているものも多かった。
広場の正面には荘厳な教会があり、大きな時計はもう正午近くを告げている。
ファルチェは時計を睨むと窓を閉め、寝台の端にどさっと腰を降ろした。
リロイが急にちょっと姿を消すなんて、よくあることだ。少し待っていれば、平気な顔でヘラヘラして帰ってくる。
でも……今日はなぜか、妙に心臓がドキドキして、背筋が寒くなる。
(……あ、そっか)
不意にその理由に気づき、いっそう悪寒が増した。
昨日、奴隷商人の館で、リロイは目的の品物を手に入れたようなのだ。
全身が鎌になっている間、ファルチェの意識はなくなるが、あの地下室を出る前に、奴が足元に落ちていた紙束を大事そうにしまうのがチラリと見えた。
つまり、もうリロイは旅の目的を果たしたわけで……。
「――――――っ!!」
いきなり、ゾワッと全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、ファルチェは寝台から飛び起りる。
「は、はぁ……っ、はぁ……っ」
急に息が苦しくなって、大きく口を開けて喘いだが、上手く空気が取り込めない。
――『しばし一緒に、煉獄を生きようよ。ファルチェ』
初めて会った日に言われた、リロイの言葉が脳裏へ鮮明に蘇る。
奴は『ずっと一緒』とは言わなかった。『しばし』が、具体的にいつまでとも……別れる時には、呪いを解くとさえも言わなかった。
――『あんただって、いらないから捨てられて、ここに売られたくせに!!』
今度は、カーラの声が頭に蘇る。
「違う!! 違う違う!!」
嫌な想像を追い出そうと、必死に頭を振って怒鳴った。
昨日、リロイがすごく変な顔をしたり、やけに満足させてくれたのは、これでもう最後だからだったなんて……っ!!
「そんなわけ……っ!」
ファルチェは唇を噛み、荷物を掴んで部屋を飛び出した。
一階でカウンターを磨いていた宿の主人は、血相を変えて飛び出したファルチェに驚きつつ、お連れさんなら朝早くから広場の方へ出かけていったと教えてくれた。
数日分の宿代は先に払ってあるので、主人は広場へ駆け出すファルチェを、笑顔でいってらっしゃいと送り出す。
広場は宿から一本道で、すぐにたどり着けた。
悪魔であるファルチェは、どちらかといえば暗い方が好きだけれど、明るい陽射しの中だって別に平気だ。
石畳の円形広場には、この街の住人だけでなく、旅人も多かった。
流れの傭兵らしい男が、屋台で中古の剣を品定めしているし、魔法使い組合の首飾りをつけた旅装の一団は、長距離馬車と値引き交渉の真最中。
いっぱいの人込みの中を、必死で探し回ったけれど、黒尽くめの魔法使いの姿はどこにも見えない。
そのうちに、教会の鐘が大きな音を鳴り響かせ、ファルチェは耳をふさいで駆け回る。それでもやっぱり見つからない。
「……どこだよ」
散々探し回った末、ついに膨れ上がった悪寒が我慢できなくなり、教会の一番隅っこにある石段へ、ぐったりと腰を落ろした。
(別に良いさ……リロイがいなくっても)
膝を抱え、せわしなく行き来する人々を虚ろに眺めた。
そうだ。
リロイはファルチェを捨てた気でいるかもしれないけど、こっちこそアイツを捨ててやったんだ。
(だって、アイツが目的を果たすのに協力したわけだし……リロイがいなくなったって、困るわけじゃない)
もう飢えは満たせなくなるけど、そもそもアイツと会う前に戻るだけだ。煩くからかわれたり、命令されたりしなくて良いし。
これからは、どこだって好きなとこに……
「…………っ」
いきなり、塩辛い味が口に広がってファルチェは驚いた。
いつのまにか、両眼からボロボロと涙が溢れている。
「なん……だよ、これ……っ」
どうしても止まらない涙を両手でぐちゃぐちゃに擦っていると、不意に傍らから、落ち着いた声がかけられた。
「お嬢さん、何かお困りですかな?」
横を向くと、教会のローブを着た聖職者らしい白髪の老人が、皺だらけの顔に穏かな微笑をたたえながら、ハンカチを差し出している。
「え……」
一瞬戸惑ったが、とりあえずファルチェはハンカチを受け取って、ゴシゴシと顔を擦った。
「ありがと。でも、別に困ってない」
何か借りたり、やって貰ったりしたら、ちゃんと礼を言えとリロイに教え込まれていたから、ファルチェはハンカチを返しつつ小声で呟いた。
「いえいえ。歳を取ると、どうにもお節介になってしまう」
老人はニコニコと頷きながら、教会の裏門を指した。
「わしはここの司祭でしてな。……といっても、行事はもう若いものに任せて、人様から悩み事の御相談を受けてるくらいですが。お嬢さんも、気が向いたらいらっしゃい」
そう言うと、老司祭はよっこらせと腰を伸ばして立ち去ろうとした。
「――困っても悩んでもない……けど、知りたいことはある」
気づけばファルチェは、その白いローブの端を掴んでいた。
「はて? わしに解ることでしたら、お教えしますがの」
優しく尋ねる老司祭に、思い切って尋ねる。
「あのさ……煉獄って、なんだ?」
この期に及んでも、リロイの言葉に執着するのは悔しかったけれど、聞かずにはいられなかった。
老司祭は、少し意外そうな顔をしたが、真っ白いひげを撫でてからゆっくりと穏やかな声を紡ぎだす。
「煉獄とは、天国にも地獄にも行けない魂が、苦罰の炎に焼かれて罪を清める場所と言われておりますのう」
「………………そっか」
老司祭の言葉を、心の中でしっかりと噛み締めてから、ファルチェが頷いた時だった。
「ファルチェ!!」
聞きなれた憎らしい男の声に、ファルチェは弾かれたように顔をあげる。
リロイが人波をかきわけながら、こっちへ一目散にかけて来る。
仕事の最中じゃないから、覆面はしていなかったけれど、もう夏近いのに黒尽くめの衣服でマントまで着こんでいるその姿は一際目立った。
駆けてきた勢いで、黒いフードが後ろにずれると、焦りきった表情が露になる。
「リロイ……」
ファルチェの元まで着くと、途端にリロイは思い切り眉をしかめた。
「勝手に抜け出して、どこに行く気だったんだ!? 宿の主人から、いきなり荷物持って飛び出してったなんて聞いて、僕がどんなに心配して焦ったか……っ!!」
「え、え……?」
一気にまくしたてるリロイを、呆気に取られたままファルチェは見あげた。
――コイツが心配した? それも、あたしがいなくいなったから……?
「そりゃ、何も言わないで出かけたのは悪かったけど、そういう時は、いつもすぐに帰るだろ!?」
なおも説教を続けようとするリロイを、まぁまぁと老司祭がなだめた。
「お嬢さん。お連れさんと会えて良かったですな。それでは、私はこれで……」
「お世話になりました」
立ち去る老司祭に、リロイが軽く頭を下げ、茫然としているファルチェの頭もグイと押す。
そして、ファルチェの手を掴んで引っ張り、石段から立ち上がらせた。
「ほら、帰るよ。いきなり飛び出した理由は、宿でゆっくり聞かせてもらうから」
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「――笑うな!!!」
宿の部屋に戻り、テーブルに突っ伏して笑い転げているリロイの足を、ファルチェは向かいから蹴っ飛ばした。
「だってさ……くくっ……うわぁ、可愛い! 僕に捨てられたって誤解して追いかけるなんて……可愛すぎてたまらないよ!」
「お、追いかけてない! お前が勝手にいなくなったんなら、あたしが見捨ててやると思って、念のために探しただけだ!」
「そういう事にしておくよ……くくっ」
「う~っ」
これ以上ないニヤけてるリロイを、ファルチェは思い切り睨みつけた。
「はー、笑った……でもね、ファルチェの考えは最初から外れだ」
目端の涙を拭い、リロイが首を振る。
「最初から?」
「残念ながら、昨日見つけたのは、僕が求めていたものじゃなかった。また一から情報の集めなおしだな」
リロイは苦笑し、小さく溜め息をつく。
「で、でもっ! 大事そうになんかしまってたじゃん!」
ファルチェが食い下がると、リロイが今度はニンマリと口元を緩め、傍らに置いた自分の鞄を親指で示す。
「僕にとっては価値がなくても、今回の依頼主には、喉から手が出るほど欲しいものでね」
「え? 確か、警備隊のお偉いさんとかいう奴?」
「うん。あの書類は、警備隊を目の敵にしてた、反国王一派の貴族たちが加担している、悪事の証拠書類だったんだ。あれを上手く使えば、他の奴隷商や賄賂を貰っていた高官たちも全員消せる」
リロイはテーブルに頬杖をつき、深い青の瞳をゆったりと細めた。
「食料品の異常値上がりも、そいつらの仕業だったし、これで庶民の生活も少しはマシになるんじゃないかな。おじさん、大喜びだったよ。書類をすごーく良い値で買い取ってくれたから、当面の資金は心配ない」
「は……あ、そう……」
一気に脱力してしまい、ファルチェはぐったりと木の椅子に沈みこんだ。しばらく天井を睨んでから、迷った末にそっと声をかける。
「リロイは、何を探してるんだ?」
以前にも一度、リロイが何か探して旅をしていると知った時に、こうして尋ねた。
「うーん。悪いけど、内緒」
しかし、今回も返ってきたのは同じ答えだ。
(別に……期待してなかったけどさ)
少し面白くない気がして、ファルチェは不貞腐れた顔でそっぽをむく。
「……と、言いたいことろだけど」
「え?」
思わず顔を向けると、食えない笑みを浮かべたまま、リロイがテーブルの向かいで手招きをしていた。
「ファルチェ、おいで」
「う……」
膝をポンポンと叩いて促され、ファルチェは喉奥で呻いた。なんか、すごく嫌な予感がする。
「ファルチェ?」
しかし、もう一度催促するように呼ばれると、ファルチェの足はフラフラとそちらへ向ってしまう。
「ん……良い子だね。今日は本当に焦ったよ」
膝に乗せたファルチェを、リロイが後からぎゅっと抱きしめる。
すると、やっぱり心臓の奥がむずむずして、ファルチェは眉根を寄せた。反射的に身を捩ろうとした瞬間、耳元で小さく囁かれた。
「詳しくは言えないけど……僕が、僕の犯した罪を許すために、どんな手を使っても手に入れなきゃならないものなんだ」
「……え?」
思わず肩越しにリロイを振り仰ぐと、そのまま片手で顎を掴まれた。もう片手は、衣服の上からファルチェの左胸を掴む。
「ちょっとお仕置き。ここをいっぱい、ムズムズさせるから」
リロイがニヤリと笑い、抗う間もなく唇が重なる――けれど、『ご褒美』じゃなかった。
奴が『褒美を与える』と念じなければ、体液は飢えを満たす効力を持たない。
重なる唇の隙間から、滑り込んできた舌に口内を掻き混ぜられても、頭が痺れて溶けそうな満足感は得られない。
その代わり、むずむず疼く心臓が、更にきゅうっと締め付けられるような感覚がして、変な気分なのに、もっと味わいたいと思ってしまった。
「ん……っ」
わけが解らず、ファルチェは目を瞑ってリロイのシャツを握り締める。
(煉獄……天国にも地獄にも行けない魂……か)
混乱気味の頭の中で、老司祭の言葉が蘇る。
無数の死者たちからこの世に生まれてしまったファルチェは、まさしく天国にも地獄にも行けなくなった魂という奴だろう。
煉獄が、その魂を苦罰の炎に焼くというのなら、正体の解らぬ飢えに焦がれて苦しみ続けるこの世こそが、ファルチェにとっては煉獄になるのかもしれない。
リロイに初めて会った時、そのまま殺されていれば、もしかしたら他のどこかへ行けたのだろうか。
コイツが短剣を突き立てた時に言った言葉の意味が、少しだけ解ったような気がした。
(でもさ……リロイ)
こんなの変だと思いつつ、どうしてもこう思ってしまう。
――リロイなんか本当にムカつく。でも、なんでかコイツと一緒なら、この煉獄もまぁ、そんなに居心地悪くないんだ。
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スラスラ読めます。
文章がとても上手で、参考になります!
更新頑張ってください。
応援してます!
ありがとうございます。
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とても励みになりました!