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シーズン1

4 二人でおでかけ

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「っ、あ……ラクシュ……さ……」

 アーウェンは自室の寝台で、恍惚を帯びた声で小さく呻く。
 普段、オリーブ色の髪をした人狼の彼は、人間そっくりの姿だ。しかし今は、髪と同色の瞳だけが、普段と少し違っていた。
 白目にうつす虹彩は、人狼の彼が非常に興奮している証だ。

「……っふ……」

 最愛の人が瞳を潤ませて頬を染め、愛液に濡れた秘所を、自分の雄へこすりつけて強請る……。


――これが現実なら良いが、残念ながらアーウェンを興奮させているのは彼の脳内劇場である。

  最初の飼い主だった人間は、爛れきった性活を送る有閑貴族だったから、女を抱く姿は何度も見て、だいたいどうやるかも知っていた。
 そして、あまりにもその男が嫌いだったからか、アーウェンの目には男女の営みは醜く汚いものとしか写らなかった。
 そもそも、全ての魔物は泉から産まれ、いくら身体を重ねようと自分たちでの繁殖は不可能だ。
 なのにどうして、性欲と性器を持っているのか、不思議でしかたなかった。

(俺は、絶対にあんなことはしないし、したいとも思わない!!) 

 ……硬く心に決めたその誓いは、ラクシュと出会って数年で、脆くも崩れたわけだ。


 だが、吸血鬼=淫乱というが常識でも、ラクシュはあらゆる意味で非常識な吸血鬼だ。
 人間の血を飲めないという体質もさながら、所構わず欲情もしない。
 アーウェンが昔、全裸のラクシュを拒んだのも、ちゃんと覚えているらく、あれからアーウェンの前では袖まくりさえしなくなった。

 ……もう何度、過去の己を罵ったことか。

 とはいえ、アーウェンだってやつれ続けていく彼女が心配で仕方なく、自分の性欲をぶつけようだなんて、絶対に思えなかった。


「……ラクシュ……さん……っ」

 柔らかな舌の感触や、雄を締め付ける胎内の熱、蕩けそうな甘い声に吐息の一つまで子細に思い出し、射精の欲求が限界まで高まる。
 アーウェンは身体を奮わせ、性器から噴出す白濁の汁を手ぬぐいで受け止めた。

「はぁ……は……」

 欲望を吐き出し終えると、昂ぶった興奮がようやく冷めていく。瞳も普通に戻り、アーウェンは汚れた手を拭くと、膝を抱えてガックリと落ち込んだ。

(最低だ! 俺は……また……ラクシュさんを穢して……っ!!)

 実のところアーウェンは、もう何年も前から、密かにラクシュを妄想で抱いては落ち込むのを繰り返していた。
 
 それが半月前、『さっさとやっときゃ、万事解決だったのに』という、見も蓋もない事実が判明し、ラクシュもアーウェンの血を飲んで、元気になったわけだが……。

 十年近くも想いを寄せていた人を実際に抱いてしまったら、自分は満足するどころか、いっそう欲張りになってしまったらしい。 
 
 アーウェンは衣の乱れを直し、深くため息をつく。
 とても重苦しい胸中で、何百回目かで同じことを呟いた。

(ラクシュさんは、俺に抱かれたことをどう思っているんだろう?)

 彼女がアーウェンに嫌われるよりも飢え死にを選ぶつもりだったと知り、不憫に思った反面で歓喜している自分がいた。
 アーウェンがラクシュのことを何よりも大切に想っているように、彼女もアーウェンにそうした想いを抱いてくれていたのかと、有頂天になった。

 ラクシュが必要だと言うなら、どれだけ血を吸われようとも構わない。
 血を飲んだ翌日には、ラクシュはもう、出会った頃と同じくらいまで回復していた。
 嬉しそうに抱きつかれ、我慢できずにキスしたのが最後。
 あれきりラクシュは元気になったものの、それきりアーウェンへの態度が以前とまったく変わらないのだ。

 血を吸いたいという事もなく、再び抱き着いて来たり、甘い雰囲気になることもない。
 思い切って自分から抱きしめてみたら、子ども扱いするみたいにポンポンと背中を叩かれてしまった。

(ラクシュさん……もしかして俺が痛がらなかったから、好きで抱いたわけじゃなくて『魅了』で発情しただけと思っているとか!?)

 吸血鬼は『魅了』という魔法で獲物を発情させて捕らえ、その魔法に影響されて自身も発情してしまうらしい。
 彼女はその魔法を上手く使えず、自分が中途半端に発情するだけで、血を吸った仲間には強い痛みを与えてしまうので余計に嫌悪されていたようだ。

 アーウェンは吸血鬼の魅了を体感したことはないが、経験者から話を聞いたのでだいたいは知っている。
 魅了をかけられると、少し触れるだけで凄まじい快楽を強制的に感じて我を忘れ、痛みも快楽になる。身体の自由もろくに聞かなくなって、されるがままになるそうだ。
 ラクシュを抱いた時、アーウェンが完璧に我を忘れて理性も残らず消し飛んでいたのは確かだが、それは断じて魅了をかけられたせいではない。
 とても彼女には言えないが、欲求不満に耐え兼ねてラクシュを抱く妄想をしている時だって、だいたいあんな感じである。

 噛みつかれた時だって痛みは感じたけれど、アーウェンはさして気にならなかっただけだ。
 人狼は元より痛みに強いし、最愛のラクシュが血を吸った興奮で抱いてくれと縋ってくるなんて、百回お代わりしてくださいとこっちから頼みたい。

 でも翌日、ラクシュはアーウェンが痛がらなかったのを不思議に思っていたようだ。初めて上手く魅了をかけることができ、それでアーウェンがなし崩しに自分を抱いたと誤解したのだろうか?
 そしてラクシュも、アーウェンと身体を繋げたのに特別な気持ちはなく、血を吸うついでにどうしてもと伴う行為くらいに考えているのでは……?  
 考えたくないが、そうんな不安ばかりがどんどん膨らんでくる。

「……はぁ」

 溜め息をつき、アーウェンは寝台から降りてカーテンを開けた。
 アーウェンの寝室は二階にあり、南向きの大きな窓あある陽当たりの良い部屋だが、本日の空はねずみ色の厚い雲に覆われていた。
 ラクシュが昨夜、予測した通りだ。吸血鬼は数日間程度なら、おおまかな天気がわかるらしい。

「ラクシュさん……」

 ラクシュに沢山キスしたいし、また抱きたくてたまらない。
 彼女はもう十分にアーウェンを特別扱いしてくれているのに、もっともっと愛されたい。
 一体、いつからこんなに欲張りになってしまったのだろう。
 彼女が元気になってくれるなら、それだけで良いと思っていたはずなのに……。

 ――不安で仕方のない心を容赦なく抉られたのは、昨日の夜のことだった。

『アーウェン……明日は曇り……私、街に行く』

 夕食の後、食卓で静かに紅茶を飲んでいたラクシュが、唐突にそう言ったのだ。
 アーウェンはビクリと身体を強張らせる。握っていた陶器マグの柄に、大きなヒビが入った。

『っ!? 俺も、絶対についていきますよ!』

 いきなり出て行くと告げられた時のショックは、しっかりトラウマになっている。

『絶対に行きます! 駄目って言っても、ついていきますからね!』

 思わず立ち上がって涙目で怒鳴ると、ラクシュは小首を傾げた。

『ん?』

 そして少し考えてから、言い直した。

『……アーウェン、明日は曇りだよ。私と、街に行こう』

 どうやら最初から、アーウェンと一緒に行くつもりだったらしい。
 たはたはと足から力が抜けて、椅子にへたりこんだ。

『なんだ……はい。行きます』

 明日は乾燥果物を作ろうと思っていたが、曇りならどのみち無理だ。

(それにしても、ラクシュさんが街に行こうなんて、珍しい……)

 ここ数年、ラクシュは家から一歩も出ていない。
 以前は魔道具を売って日用品を買うために、月に一度くらいは二人で街に出かけたが、最近ではずっと、アーウェンが一人で行っている。
 血飢えの体調不良が大きな原因だったが、そもそも彼女は昔から、よほどの事がなければ、街には行かなかった。

『何か、大事な用ですか?』

 気を取り直して尋ねると、食卓の向いに座ったラクシュは頷いた。

『アーウェンと……街で、ゴハン食べる』

『……え?』

 一瞬、聞き間違いかと思った。

『えっと……じゃあ、お弁当作りますね』

 ラクシュは数年前、街の食堂の一軒で鳥ガラスープを飲んで以来、外食が大嫌いだ。
 あの時の苦しみ方は凄まじく、アーウェンもラクシュに外食は絶対させるまいと決意した。
 ところが、ラクシュは雪白の短い髪を左右にパサパサ振る。

『食べる店、決めてある。私、気をつける……心配ないよ。明日…………楽しみ』

 そう言うとラクシュは紅茶のマグを持って、さっさと部屋に戻ってしまった。
 日光が身体に悪い彼女は北側の納屋を寝室兼工房に改装し、食事時とたまに居間のソファで昼寝をしている時以外は殆ど一日中そこに篭っている。
 取り残されたアーウェンは、椅子に腰掛けたまま茫然とする。

(はぁ!? 楽しみ!? ラクシュさんが、俺の作るメシ以外を、楽しみ!?)

 ……もの凄く、ショックだった。
 そのまま不貞寝し、今しがた起きてから八つ当たり気味に欲情して妄想の中でラクシュを散々抱き、余計に落ち込んでいたのだ。
 最悪な気分で、アーウェンはもう一度溜息をついた。

 



 二人が住む家の周囲には、人の手が入っていない野原が広がり、時おり通る馬車のわだち跡が、その中央を突っ切って街まで続いている。
 普段、ラクシュとアーウェンは、昼近くに起きて深夜すぎに眠るという、普通の人間とは中途半端に時間のずれた生活を送っていたが、今日は早くに起きて家を出た。

(ラクシュさんが、外出できるくらい元気になったのは嬉しいけど……)

 曇り空の下を歩きながら、アーウェンはそっとラクシュの様子を盗み見る。
 彼女はいつもと同じ、黒い貫頭衣の膝丈ローブを着て、マントのフードを深く被っている。
 いつも素足にスリッパの細い足には、白いソックスと、久しぶりに取り出した革靴を履いていた。
 アーウェンの髪と同じ色の靴は、もう十年も前に買ったものだ。しかし、ラクシュは滅多に外へ出ないし、大切に手入れをしていたので、あまり痛んではいない。

「ラクシュさん」

「ん?」

 思い切って尋ねかけたが、その先をアーウェンは言い淀んでしまった。

「……なんでもありません」

――なんで、あれだけ嫌がってた外食をしたくなったんですか? 俺の作るご飯じゃ駄目ですか?

 そんなことを言うのは鬱陶しいと我ながら思う。情けなさすぎて聞けなかったのだ。

 ラクシュは首をかしげたが、無言で前を向いて再び静かに歩きだした。
 もやもやしながらアーウェンも彼女の隣を歩き、それからは互いに一言も発しなかった。



 二時間ほど歩き、街についたのは昼の少し前だった。

 この街は幾つかの遺跡に近く、訪れる冒険者たちも多い。黄色レンガの敷かれた大通りには宿が並び、武器防具の店も充実している。
 魔道具屋も数件あり、ラクシュはその内の一件に品物を卸していた。

『鈴猫屋』の店主は、九尾の猫ナインテール・キャットで、魔物が堂々と表通りに店を構えられるのも、この国ならではだ。
 ただし、この国でさえも吸血鬼だけは討伐対象となっており、ラクシュの正体を知っているのは、鈴猫屋の店主を含めてわずか数人だ。

 ラクシュは混雑している通りをスルスルと進み、アーウェンは遅れないように必死でついていった。
 一緒に出かけるなど数年ぶりだが、あいかわらず彼女は、どんなに人ごみでも、まるで無人の道を歩くようにすりぬけていく。
 てっきり、鈴猫屋に顔を出すのかと思ったのに、そこも素通りし、ラクシュは無言で淡々と進んで行った。
 そして長い通りを端まで歩き、やっと歩みを止める。

「ん……」

 クルリと振り向き、アーウェンがいるのを確認して頷いた。

「ラクシュさん……一体どこに行く気……って、ええええ!?」

 きびすを返したラクシュは、アーウェンに軽く手招きし、さっさと来た道を戻っていく。

 ……何をやりたいのか、さっぱりわからない。

 結局、ラクシュは大通りを無意味に一往復し、街に入って一番手前にあった食堂の入り口に立った。
 例のスープ事件の店とは別の食堂で、そこそこ賑わっている。アーウェンが街に行った時に、よく寄る食堂だった。
 大きく開いた戸口からは、肉の焼ける匂いと、賑やかな喧騒が立ち昇っていた。

「……あ、あの……ラクシュさん……?」

 ラクシュはさっさと店に入り、ウェイトレスに二人だと手振りで示していた。

「アーウェン……」

 また手招きされ、仕方なく店に入る。

「ラクシュさん……この店に来たかったんですか?」

 無言で茹で野菜を食べているラクシュに、アーウェンはそっと尋ねた。
 アーウェンだって、ここの定食は好きだし、店員も親切な人ばかりだ。ラクシュは野菜しか食べれないと言ったら、特別に野菜だけの定食を作ってくれた。

「ん」

 小さく頷くラクシュの声は満足そうで、アーウェンの胸をチクリと刺す。

「そう……ですか」

 焼肉の定食は、いつもと全く同じはずなのに、妙に味気なく感じた。

 食事を終えて店を出ると、ラクシュはさっさと帰路を辿りはじめた。
 数年ぶりの外出は、通りを一往復し、あの店で食事をするのが目的だったようだ。

 厚い雲の立ち込める下を、無言でスルスルとラクシュは歩き、アーウェンも無言でついていく。
 ラクシュの行動が変わっているのは慣れているが、今日ばかりはどうしても理解できなかったし、深く聞く気分にもなれなかった。

 静かな細い道には、ときおり鳥や小動物の姿が見えるだけで、他に人気はない。
 家まで半分ほどの場所まで来た頃、ラクシュは唐突に立ち止まって、アーウェンを見上げた。

「アーウェン……楽しくない?」

「……え?」

 ローブの袖口から白い手が伸び、スルリとアーウェンの頬に触れる。

「きみは、悲しそう……私、失敗した?」

 そう言った抑揚のないラクシュの声も、なんとなく悲しそうだった。

「失敗? いや、あの……」

 驚くアーウェンを見上げ、ラクシュは懸命に何かを伝えようとしているらしい。つっかえつっかえの言葉が、その口元から出てくる。

「私……アーウェン、好きだよ……だから、一緒に、お出かけして……アーウェンの、好きなゴハン、食べた……好きな相手とは、そうする、らしい……」

 そこまで言うと限界だったらしく、ラクシュは俯いてしまった。

「……は?」

 アーウェンは大きく目を見開き、口をパクパク開け閉めする。

「え、ちょっと待ってください……それじゃ、もしかして、これ……」


 ―― ラクシュさん的に、デ ー ト だった !!???


 身をかがめて、黒いフードの中を覗き込む。

「……俺を、喜ばせようとしてくれたんですか?」

「ん……」

 小さく頷かれ、たまらずに抱きしめた。

「アーウェン?」

 腕の中で小首を傾げる相手は、いつもと同じ無表情だし、赤い瞳は胡乱に澱んでいる。
 この寛容な国ですら、忌み嫌われ討伐される吸血鬼……それでも周囲を憎んでばかりだったアーウェンが、世界で一番愛している存在だ。
 自分も彼女に愛されたいと切実に思ってしまう、たった一人の奇妙な吸血鬼だ。

「大成功ですよ。俺、最高に嬉しいです」

 盛大に顔がニヤケて、止まらない。
 そういえば以前、何かの折にあの店の話をしたことがある。
 ほんのたわいない会話だったのに、ラクシュはアーウェンが好きな店だと、ちゃんと覚えていたのだ。

「ラクシュさん……一つだけ、お願いがあるんですが」

 ラクシュの身体を離し、照れくさいけれど頼んでみた。白い手をとり、そっと指を絡める。

「家に帰るまで、手を繋いでくれますか?」

「ん」

 細い指が、アーウェンの節くれ立った指に、きゅっと絡んだ。

 ***

 ゆっくり歩いて家に帰り、とても名残惜しいがラクシュの手を離した。

「……すごく、楽しかったです」

「ん」

 ラクシュは満足気に頷き、黒いフードを降ろす。短い雪白の髪がサラリと零れ落ち、見慣れたその色に、何かくっ付いているのが見えた。

「ラクシュさん、それは……?」

 フードを取って初めて見えたが、ラクシュは髪を一房、細い革紐で結んで赤い鉱石をくくり付けている。

「ん」

 重々しく、ラクシュが頷く。
 とても満足そうだ。

「なにか、飾りつける……好きな人と、出かける……印……らしい」


 ―― ラクシュさん、オシャレまでしてたーーーーーっっっ!!!!


 思わずよろけたアーウェンは、居間の柱に体をぶつける。

「アーウェン?」

 小首をかしげるラクシュを、夢中で抱きしめた。

「ああああ!!! ラクシュさん、大好きです!! 俺のラクシュさん!!! 絶対、一生、離しませんからねっ!!!!」

 アーウェンにぎゅうぎゅう抱きしめられながら、ラクシュが小さく頷く。

「……ん」

 微かに届いた抑揚のない声は、とても満足そうに聞こえた。

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