幽霊一人旅

ケポリ星人

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5話

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 ギンッと鬼が、こちらをにらむ。その目には、異様な殺気が宿っていた。

『走れぇぇぇ‼︎』

 橋を渡る男がハッと、我に帰る。
 私も振り返って対岸に走る。こうなったらやけだ。クレバスと鬼では、鬼の方が遥かに怖い。
 さっき声援を送っていた男達の声が、切羽詰まった声に変わる。焦りで顔が強張っていた。

 私は倒れ込む様な形で対岸に滑り込んだ。
 起き上がりながら、後ろを振り返った。

 鬼が此方《こちら》へ駆けて来る。スノーモービルの様な勢いで、雪を掻き散らし、「ゴゴゴゴゴゴ」と雪崩の様な音を立てている。何をそんなに怒っているのだろう。凄い形相ぎょうそうと、異常な殺気だ。

 ふと、目を橋に落とす。一緒に渡って来た男がいるであろう、あの橋の上にだ。

 男は、橋の上で固まっていた。膝が、笑っている。怖くて動けないのだ。
 待っていた男達が次々に橋から離れ、其々それぞれ別々の方向へと駆け出し始めた。これは駄目だと思ったのか、それとも鬼の足の速さに圧倒されたのか。残酷ではあるが、正しい判断だろう。

 時の流れが遅くなる。スローモーションの様に、自分と他人の動きがゆっくりと流れる。

 気が付いたら、橋の上で固まっている男の方へと走り出した。

 それは本能だった。人としての本能だった。走った。動けないその男の元へ。必死だった。涙で前がよく見えなかった。
 男の腕を無理矢理取った。後ろで、鬼が飛びかかろうとしていた。勢いよく雪が跳ね上がり、ジャンプし始めたのが見えた。
 振り返った。前をむいた。手を強く握って走り出した。
 止まっていた男の脚が動き出す。走る。前へ前へ。泣きながら走る。鼓動が早くなる。息遣いが荒くなる。

 バキッ!

 嫌な音が聞こえた。
 足場が傾く。鬼が橋を思い切り踏み抜いて、あのか細い橋が折れて傾く。
 私は、勢いよく足場を蹴った。無いはずの脚で。男の腕を握って飛んだ。
 信じられない力が出た。

 対岸まで、あと少し、届け! 飛び乗れ!!

 対岸に足が着いた。『やった』と思った。そう思ったのも束の間、腕だけが勢いよく後ろに引っぱられた。
 かろうじて振り返った。
 男の腹が、断崖に打つかるとこだった。自分の脚はギリギリ対岸まで届いた。だが男の脚は対岸に届かなかった。
 腕が引かれてうつ伏せになる。無いはずの手で崖をにしがみついた。
 腕が、男の体重に引かれ、ピンッと伸びる。その瞬間『バキバキバキッ‼︎』と腕が嫌な音を立てた。

『手を離すなぁぁあ‼︎』

 叫んだ。声が届いているかは定かではない。
 肩から血が一筋の腕を伝って行った。腕の感覚が無かった。
 死にそうな男が一人、私の腕を泣きながら掴んでいる。
 橋を踏み抜いて落ちて行く鬼が、私を見ながらくうを掴んだ。

 ひたいから汗が流れる。腕が動かない。持ち上がらない。

 横から腕が伸びる。真っ先に手を貸してくれたのは、対岸で橋を支えていてくれた、あの屈強な男だった。
 崖に宙吊りになる男の腕を、筋肉質な大男の腕が掴む。それを最初にして、他の男達も次々と手を貸した。

「ーーッ!」

 掛け声をかけ合い、鬼の様な顔になりながら引き上げる。
 相変わらず何と言っているのかさっぱりわからない。
 引き上げ終わった後、緊張の糸が切れた様に雪の上へ腰を落とした。皆息が上がっていた。

 雪の上へ、腰を落ち着かせる。疲れた。焦った。死ぬかと思った。
 『ふぅー』と、長い溜息を吐いた後だった。

「ガァァァアアアア‼︎」

 割と近く。あのクレバスから怒号が聞こえた。飛び掛かって来た鬼の声だ。

 クレバスの中を覗き込む。
 鬼が、氷の断崖を鷲掴みにして、ノミの様にぴょんぴょんと上へ上がって来ていた。

 顔から血の気が引く。
 脚が動かない。体も動かない。

 鬼の距離を詰める速さは凄まじかった。周りが後ろを振り返って逃げようとする頃には、もう直ぐそこだった。

 フュゥゥゥ

 本能的に身体が凍る付く様なだった。
 鬼があとひとっ飛びで崖の淵を掴めそうな距離まで飛び上がって来た、その時――

 私は、見た。
 それは、氷の中・・・を泳いでいた。
 形は、目の無い人魚の様だった。

 人魚の様なそれ・・は、氷の中から飛び出してきた。
 音もなく、目にも止まらぬ速さで人魚の腹が縦に裂けて、巨大な蜘蛛の脚の様な大きな牙が、幾つもグワァと剥き出しになった。
 あともう少しで崖を掴む事が出来た筈の鬼が、氷に叩きつけられる。血が飛び散る。『グシャッ‼︎』っという嫌な音がした。

 人魚が、鬼を捕食する。女性の腕の太さ程もある、象牙の様な長い牙は、バキバキと音を立て、鬼の体を食い、自分の中に取り込んでいった。

 視界から人魚が消える。
 人魚は音も無く、私達がいる断崖のふちの雪に吸い込まれる。

 声が出ず、その場から動くことも出来ない私は口をパクパクと動かす。
 人魚が溶け込んで行った氷の中を覗く勇気は、最早もはや私には残ってはいなかった。
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