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第五章 艦隊出撃

敵艦見ゆ

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 翌朝、旗艦グライフェン号は埠頭を離れ沖合に向かった。
 三本そびえる帆柱の一番後ろにパトリア海軍旗を掲げ、各帆柱に四、五本ある帆桁に帆を括り付けて。
 フラッシュ提督やクランクルム艦長、プレイクラウス卿とスーマム将軍ら戦闘集団「雲雀」の司令部要員、そしてリスティア解放軍も乗り込んでいる。
 水夫がこぐ長艇に引かれて沖へ進む旗艦を、別の長艇からルークスは見送った。
 左肩のノンノンの他フォルティスと傭兵サルヴァージ、そして連絡将校のエクセル海尉も同乗している。
 水夫たちはオールを艇に引き上げ、ウンディーネが動かすに任せていた。
 精霊の加護を実演しているのだ。
 だがその長艇は旗艦には向かっていなかった。

 海軍はルークスも旗艦に乗せるつもりでいた。
 司令官は旗艦に乗るのが常識なので、伝えるまでもないと連絡しなかったのが失態の原因である。
 出港当日に「イノリの武具と別の艦に乗せられる」と聞かされたルークスは、断固拒否した。
 万一、艦隊が散り散りになったり上陸手前でゴーレムに迎撃されたらどうする?
 即座にイノリをフル装備で戦わせられる状態でいることは、作戦成功の絶対条件であった。
 積み替えようにも、旗艦の船倉に空きも、それに要する時間も無い。
 故にルークスはイノリの武具を積んだ、女性艦長の艦に乗ることになった。
 若い女性士官も搭乗する艦に「盛りが付いた陸軍兵」を乗せられない、と「ゴーレムの搭載」に割り振られていたのだ。
 それがルークスらが向かう、帆柱が三本ある大型艦デルフィナ号である。

 舷側から突き出した二本の腕木から太いロープが垂らされ、舳先と艫にそれを結びつけた長艇が吊り上げられる。
 甲板に降り立ったルークスらを、ティモール艦長が出迎えた。
「デルフィナ号にようこそ。乗員一同、ルークス卿を歓迎――」
 大歓声が起きた。
 水夫たちが帽子を振ってルークスを歓迎している。
 命を脅かす大自然の驚異そのものである精霊の「加護」が乗艦したのだ。
 一番の心配である航海の安全が保証されたので、水夫たちは大喜びである。
「――大歓迎しております」
 想定外の事態に女性艦長は戸惑った。
 彼女も他の海軍幹部同様、昨夜の奇蹟を見ていないのだ。

 デルフィナ号はイノリの武具を積むと、埠頭を旗艦に譲って港の奥に錨を下ろしていた。
 錨を上げたあとは沖合まで、旗艦のように長艇で牽引するのが普通だ。
 その長艇はルークスらと共に引き上げられ、舷側に固定されている。
 水夫十数人が巻上機を囲み、八本ある横棒を押し回して錨を引き上げた。
 その間にルークスは艦尾から海面に大声で言う。
「じゃあ、やってくれ!」
 艦が大きく上下した。
 するとその巨体がゆっくりと動き始めるではないか。
 艦首で白波を立てることもなく、周囲の海水と一緒に動いている。
 オールにも風にも頼らず大型艦が動く様に、港と海上の全ての人間が驚愕した。
 当の艦の責任者が、一番驚いている。
「信じられません。これが精霊の力なのですか?」
 事前に聞かされていたが、いざ始まってもなお現実に感覚が追いつかない。
 女性艦長の問いかけを、ルークスは誤解して答えた。
「今、三人で押しています。――じゃないか。水ごと動かしているんです」
 精霊が惜しげもなく力を発揮してくれることにティモール艦長は驚いたのだが、それが日常であるルークスは「数に驚かれた」と思ったのだ。
 年長者が気を使って話を合わせる。
「たった三体で、ですか?」
「僕の友達なので、力は契約精霊の倍以上は出せますから」
 水柱が上がり、飛沫を散らしてリートレが甲板に降り立った。
「ただいま、ルークスちゃん」
「お疲れ様。多分、彼女なら一人でもできますよ」
 ティモール艦長は目を剥く。
「ウンディーネにそれほどの力が?」
「魂があるから――だよね?」
 ルークスが確認を求めると、たおやかな水の精霊が艶然とほほ笑んだ。
「そうよ。ルークスちゃんに魂をもらったから」
 水夫たちから口笛や歓声が上がった。
 筋骨たくましい甲板長が鞭を鳴らして黙らせるも、男たちの興奮は冷めやらない。
 そのうえエクセル海尉が火に油を注いだ。
「まさか、あなたは彼に恋を?」
「嫌あねえ」
 リートレはルークスの右肩にしなだれかかる。左肩にはいつものようにノンノンがいた。
「私がルークスちゃんに抱いている想いは、恋なんて低次元な感情じゃないわよ?」
「て、低次元ですか!?」
 聞き捨てならぬ表現に、若い女性士官は目を丸くした。
「だって、恋って破れたり失ったりするじゃない?」
「それは、そうですが」
「私たちとルークスちゃんとの絆は、決して破れたり失われたりしないもの」
 勝ち誇るように目を細めるウンディーネに、エクセル海尉は絶句した。
「人間の娘よ。ウンディーネの言う通りだ」
 ルークスの頭上にグラン・シルフが現れた。
「精霊には恋愛という感情はない。精霊を深く理解せぬ人間が、自分らの感情に当てはめているに過ぎぬ」
「恋でなければ何なのですか?」
「そうさのう。主様は我らを『親友』と表現しておるが、強いて言えば我らの想いは、親の愛に近いかのう」
「それなら理解できます。我が子のためなら、親は普通以上の力が出せますから」
 女性艦長がうなずいた。

 艦隊五隻が軍港の沖合に揃った。
 風は北から吹いてくる。
 ルークスはティモール艦長に言った。
「追い風を吹かせますので、準備してください」
 旗艦が長艇を収容し、帆を上げるのを待ってからインスピラティオーネに合図する。
 グラン・シルフがシルフたちに指示をした。
「各艦、三名ずつ風を送れ。まだ加減せよ。いきなり強風を当てたら、ひっくり返しかねぬ」
 向かい風で帆柱に張りついていた帆が、シルフの風をはらんで帆桁を、帆柱を、そして船体を前へと引っ張る。
 巨大な軍艦がゆっくりと前進し始めた。
 大きくうねる海原を五隻の艦隊が北上する。
 向かい風に逆らい、局所的な追い風を受けて。
 各々の艦首が海面を切り分け、白波を立てている。
 デルフィナ号ではティモール艦長が速度測定を指示した。
 浮きが付いたロープを水夫が海に投げ込む。
 ロープには一定間隔で結び目があり、砂時計が落ちるまでにいくつ海に送られたかで「相対的な」速度を測るのだ。
「十結びです!」
 航海士からの報告に女性艦長はほほ笑んだ。
「結構な速度です。この順風満帆が続くなら、当初予定の半分で到着できますよ」
「まだ余裕があるなら速めましょう」
 ルークスはシルフの追加を指示した。
 ティモール艦長は通信士に命じる。
「全艦に伝達。増速に備えよ!」
 デルフィナ号の三本ある帆柱の、中央に旗が二枚上がった。
 それぞれ別の色と模様の信号旗である。
「信号旗ならシルフより速く、水平線ギリギリまで瞬時に情報を伝えられます」
 とエクセル海尉が説明する。
 旗艦にも信号旗が上がり、艦隊は増速に備えた。
「まるでうちが旗艦ですね」
 とティモール艦長が笑った。
 だがその笑みはすぐに引っ込む。
 シルフ五人がかりの風は帆を限界まで引っ張り、帆柱をきしませたのだ。船体もギシギシ音を立てる。
「ルークス卿、風が強すぎます!」
 ティモール艦長が青ざめる。
 シルフがどれだけ風を送れるか分からなかったので、帆を全開にしていたのだ。
 強風時は縮帆しないと「帆が裂けるか帆柱が折れてしまう」とエクセル海尉が説明した。
「帆を縮めると、今以上に速く進めるんですか?」
「いえ。風力に合わせるだけです。今が本艦の全速です」
 帆船の速度は風の推力と水の抵抗との差し引きである。
 あまりに風が強いと帆柱が折れるようにできている。
 もし帆柱が頑丈だと船体の方が壊れるので、敢えて帆柱の強度を落としているのだ。
 帆が裂けるのは計算できないので「運が良ければ」の話である。
 説明を受けて頷いたルークスに、誰もが「風を弱める」指示を出すと思った。
 だがルークスはグラン・シルフではなくウンディーネに話しかけた。
「水の抵抗を減らせられる?」
 帆船の速度は風の推力と水の抵抗との差し引きである。
 水の抵抗で船体や帆柱に負担がかかるのだから「水の抵抗を減らしてしまえ」と考えたのだ。
 彼の頭には「速度を増す」しかない。
 ルークスの期待にリートレは応えた。
「船を包む水の層を作れば減らせられるわ。一隻に一人いればなんとか」
 この前代未聞な試みは信号旗では伝えられない。
 シルフが飛び交って連絡をしてから、ウンディーネが各艦一人ずつ喫水線から下を水の層で包み込んだ。
 船足がグンと伸びた。
 シルフ五人がかりの風を受けても帆柱は軽くきしむに留まり、艦隊は矢のように海原を突進した。
 大きなうねりを駆け上り、頂上で一瞬浮遊感を生じ、次いで舳先から水の斜面を駆け下りる。
「二十結び! 大型艦の速度記録を超えています!!」
 航海士が興奮して女性艦長に報告する。
「ルークス卿、この速度はいつまで維持できますか?」
「船か人間に、限界が来るまで――です」
 急にルークスは息苦しくなり、肩で息を始めた。
「精霊は、疲れません。だって世界を、動かしているんですから」
「主様、顔色が悪くなりましたぞ」
 インスピラティオーネとノンノンが心配してルークスの顔を覗く。
「ああ、船酔いですね。少し速度を落として揺れを減らせば治まるでしょう」
 ティモール艦長の勧めにルークスは首を振った。
「情報が漏れている可能性があるので、帝国に対応する時間を与えるわけにいきません」
 脂汗を滴らせるルークスを休ませようと、リートレは水でベッドを作った。
 横になると少し楽になった。
 揺れに抗して立っているだけで体力を消耗するのだ。
 水のベッドは細かな揺れこそ打ち消してくれるものの、大きなうねりによる上下動や前後の傾斜まで吸収しきれない。
 ルークスは何度も吐き戻した。
「こんなことなら朝食は抜くんだった」
 弾力ある「水」に仰向けになり、空を見上げた。
 上空は風が強いらしく、雲が流れている。
 周辺偵察に飛んでいたシルフが戻って来た。
「うんと東に嵐があったわ」
 ルークスは寝転んだまま尋ねる。
「こっちに来る?」
「北に向かっていたから、来そうにないわ」
「なら無視しよう」
「嵐の向きを変えるんじゃなかったの?」
「それは嵐が来たらの話だよ。今は、これ以上揺られると困る」
 それだけ言うと、また吐く。
 既に胃袋は空っぽなので、苦い胃液だけが逆流してきた。

 昼過ぎ、前方偵察のシルフが戻りルークスに報告した。
「北から大きな船が三隻来るよ」
「旗は上げていた?」
「赤い地の真ん中に黄色い花があったな」
 脇で聞いていたティモール艦長が固唾を呑んだ。
「帝国軍です」
 ルークスはグラン・シルフに頷いてみせ、次いで艦長に告げた。
「全艦に敵艦発見の連絡を」
 デルフィナ号の中央帆柱に赤い信号旗が上がった。
 すると旗艦グライフェン号から返信がある。
 内容を通信士から伝えられた女性艦長が大音声をあげた。
「総員戦闘配置につけ!」
 ルークスは水ベッドから転げ落ちるほど驚いた。
「敵艦なんて無視です! こっちは振り切れるんだから」
「こちらが見つかると困ります」
「向こうのシルフは僕の友達が抑えます。風を無くしてしまうので動けません」
「しかし、旗艦が戦闘準備の命令を出しています」
「戦闘中止の命令を出します」
 デルフィナ号の信号旗に、旗艦がすぐ返信の旗を上げた。
「我に従え、です」
「こっちの台詞だ!」
 しかしデルフィナ号の出した「我に従え」は無視された。
 シルフを飛ばせば「艦隊運用は提督の掌握事項」と返ってくる。
「作戦を失敗させる気か!?」
 怒鳴るルークスにインスピラティオーネが語りかけた。
「提督の息を止めてまいります。生死の境をさまよえば身の程を知るでしょう」
 ティモール艦長がびっくりして止める。
「見敵必殺が海軍の伝統なのです」
「伝統が命令より優先されるなんて、正気の沙汰なの!?」
「いたって正気なんだろうぜ」
 大柄な傭兵が言う。
 サルヴァージは舷側に背中を預けて座り込んでいた。彼も船酔いだが、水のベッドはない。
 隻眼の傭兵が物憂げに言う。
「何でも海軍じゃ、拿捕した敵艦の装備や乗員の所持品なんかは全部、いただけるって話じゃないか」
「そんな海賊まがいなことを?」
 ルークスは念のために艦長と連絡将校とに尋ね、事実と確認した。
 頭に血が上って言葉を失ったルークスの横で、サルヴァージが言う。
「二十年も前の話だ。各国が海軍を編成したとき、頭数を増やそうと海賊を引き入れたって聞いたぜ。四十才以上の連中、結構な数が海賊上がりだろうよ」
 ルークスは四十才くらいのティモール艦長の顔を見た。
「私は漁師の娘です。水先案内人として海軍に入りました」
「提督は?」
「過去について詮索しないのが不文律です」
「領主の船にしたって、海賊の財産はいただいていたんだ。現に海軍になった今も守っているじゃねえか、当時からの伝統をよ」
 ルークスはため息を深々とついた。
「作戦行動中に、部隊を使って私腹を肥やすために、作戦自体を危険にさらすわけか。国をマルヴァドに売ろうとしたプロディートル公爵の部下らしいや」
 この暴言にサルヴァージは片方だけ出した目を剥いた。
 ティモール艦長が声を高める。
「ルークス卿、それは侮辱です!」
「現に作戦の失敗に直結する、時間の浪費をしているじゃないか! 公爵の手下はパトリアが負けることばかり熱心にしてきた! 違うと言うなら提督を止めろ!」
「それは――軍人は直属上官の命令が絶対なのです」
「へえ。でも公爵が提督の頭越しに命令したら――」
「それでも同じです! 命令系統を無視したら、それこそ海賊と同じになってしまいます!」
「フラッシュ提督の直属上官は、僕だよね?」
「――はい。提督の直属上官は、現時点ではルークス卿です」
「なら、彼の命令違反は明らかじゃないか」
「その質問には答えられません」
 ルークスは舷側の上面を拳で叩いた。
 ノンノンが頬を撫でてささくれ立った気持ちを癒やしてくれる。
 曇り空の下、彼方の水平線から帆柱が生えてきた。赤い国旗が確認できる。
 ほどなく三隻の船体も見えてきた。
「あの三隻、沈めてしまいますか?」
 グラン・シルフが言う。
「強欲な提督も、船が沈んでしまえば諦めるでしょう」
 フォルティスが慌てて止めた。
「帝国軍の旗を掲げているとはいえ、乗員のほとんどはリスティア人のはずです。無駄な人死にを避けるのはもちろん、近いうちに味方になる人間を死なせるのは余計に避けませんと」
「でも提督は、その味方になる人間を死なせるつもりだよ」
 ルークスが言うと従者もうなずく。
「はい、まったくの自殺行為です。だいいちそんな真似をしたら、同乗しているリスティア解放軍が黙っていません」
「だよね。やっぱり公爵の部下は、国が負けるように動いてばかり。度重なればもう、偶然とは言わせないよ。彼はこの国を負けさせたいんだ。軍事機密が海軍内で広まったのも、情報漏洩元を隠すためだろうね」
「その様なことを、あの方がされるはずがありません」
 ティモール艦長の声は力を失っていた。
「部下に一言『ルークス卿に従え』と言わない時点で、もうそれはないよ。だって国の存亡がかかった作戦行動中でも私腹を肥やす方を優先する人間が『優秀』なんだよ? だったら本人もそうだとしか」
 傭兵もだみ声で同調する。
「見敵必殺って聞こえは良いけどよ、要は状況にかかわらず目の前の餌に食いつくってことだよな」
「戦闘が避けられないなら、時間の浪費だけは避けよう。沈めてしまえば――」
 天を仰ぐルークスの目が、インスピラティオーネの瞳を捉える。
 風の力を使えば、大型艦だろうと三隻沈めるのは難しくない。
「そうだよ。僕らは沈められるんだ」
 ルークスの頭に閃きが生じた。
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